夢の島

 結局昨日は一睡もできなかった。


 食欲がなくて朝食も昼食もまともに食べられず、エネルギー補給用のゼリー飲料と野菜ジュースで身体をごまかしている。


 耳元からスマートフォンを離した刀根勇雄が言った。

「和泉さん。アジャーニさんが都庁屋上に到着したそうです。予定どおり一七時三〇分には転移妨害用の広域結界を展開、吸血鬼の襲撃に備えます」


「そうですか。いよいよですね」


 吹き付ける冷たい海風。防寒のためにと社会維持局が貸してくれたベンチコートのすそがバタバタとはためいた。


 日の入りからもうすぐ三〇分だ。

 空に残っていた薄明かりもじきに消える。あといくらもしないうちに、辺り一面、深い闇に包まれるだろう。


「ご気分はいかがですか?」

「最悪です。吐きそう」


 俺と刀根勇雄の周りに広がるのは、平らにならされた土の地面。


「まあ、ゴミ捨て場ですからな」

「いえ――緊張で、なんですが……」


 東京湾に鎮座する新海面処分場――東京二三区全域から集められた大量のゴミが日々埋め立てられている現場の真っ只中に俺はいた。


 とはいえ、ゴミの山に囲まれているというわけではない。


 この埋立処分場ではゴミを三メートルの高さまで積み上げると、その上に厚さ五〇センチの土を被せ、またゴミを三メートル積んでいくということで……俺が立つ海抜一五メートル近い高台は、ちょうど全体を分厚い土の層で覆われたばかりの場所だったのだ。


 臭いとて、そう気になるほどではない。


 臭いが酷いのは遠くに見える隣のブロックの方だ。


 隣のブロックはビニールやプラスチックなどの不燃ゴミを積み上げている途中らしく、明るいうちはその上空をカラスや海鳥たちが舞うのが見えた。多分、食品包装に付着した食べ物を狙っていたのだろう。


 刀根勇雄によれば、ゴミの飛散と悪臭防止のために毎日ゴミの山に薄く土を被せているらしいが……『鼻の良い吸血鬼どもには、良い嫌がらせになるでしょうな』という理由で今夜はゴミ剥き出しのまま放置されている。


 風向きによっては鼻を付く臭気がこちらに届いた。


「ところで和泉さん。熱など、体調にお変わりはありませんか?」

「ええ――特に、大丈夫ですが」

「それはよかった。薬の副作用は問題ないようですね」

「もしかしてさっきの注射のことですか? お医者さんは予防接種って言ってましたが」

「あれ? ドクターから聞いてません? “エリクサー”ですよ、あれ」

「はあ? エリクサー?」


 刀根勇雄の口から飛び出した単語に耳を疑う俺。

 エリクサーといえば、俺でも知っているぐらい有名な万能薬の名だ。錬金術の到達点の一つであり、一口飲めば万病を癒やし、確か不老不死すらも手に入るとか。

 ……てっきり、言い伝えやフィクションの中だけの代物だと思っていたのだが……。


「実在していたんですか?」

「無論。といっても、自然毒の大部分に効果があるぐらいで、不老不死にはほど遠いのですがね」

「そんな貴重なものをどうして私に?」

 すると刀根勇雄は辺りを見渡し、苦笑いしながら言った。

「こんな場所でしょう。せっかく和泉さんが仕事をやり遂げても、それで破傷風になってはいけませんから」

「ああ……なるほど」

「どうぞ思う存分奮戦ください」


 そういえば破傷風の予防接種は子供の時以来受けていなかったな……そんなことを考えながら俺は寒さに身を震わせた。


 辺りは暗く、もうほとんど何も見えない。雲の切れ間にうっすら星空が見えた。


 刀根勇雄がどこかに電話している。

「頃合いでしょう。“ウィル・オ・ウィスプ”を放ってください」


 すると海の方にいくつも青白い光が現れ、ゆらゆらとこちらに向かってくるのだった。


 通常の照明機材だと吸血鬼に壊されかねないから、特殊な明かりを使うとは聞いていたが……それは、俺が想像していたよりもずっと不気味な光景だった。

 この世をさまよい続ける哀れな人間の魂に見えた。


「……鬼火……」

「あれを処分場全体に放します。熱はありませんから、触っても大丈夫ですよ」

「……本当、色んなもの持ってますよね」

 返答は「金と歴史だけはありますから」という苦笑だ。


 青白い光はやがて俺と刀根勇雄の周りにもやって来て――真昼のように、とはいかないが、それでも少し離れた地面の上のトカゲに気付くぐらいには明るかった。


 ジャリ。

 不意に、土の地面を踏む音。


 何かと思って見れば、「課長。お連れしました」刀根勇雄の部下である斎藤弥恵子と。

「やれ、だいぶ待たせたか」

 闇色の長髪を持つ、透き通るような北欧系美女。


 俺は彼女のことを見知っていた。


「……マリアベーラさん……」

 アルメイア王国騎士団を率いていた吸血鬼の姫君だ。


 そして俺は、斎藤弥恵子に肩を貸されたマリアベーラの姿に目をしばたたき――思わず「え? 大丈夫なんですか?」と聞いてしまう。


 当然だろう。なにせ、彼女の左腕と左脚が丸ごとなくなっていたのだから。


 シルクのナイトガウンにくるまれたマリアベーラ。

 しかしその左肩は、肩の膨らみをまったく感じられぬほどにだらりと垂れ下がり、左袖から手首が出ることもなかった。ガウンのすそに見えるのも右脚一本だけだ。夜風に大きく揺れるシルク生地が左脚の欠損を俺に知らしめていた。


 俺の驚愕にマリアベーラは少しはにかんだような表情を見せる。


「ギルゴートギルバーの奴に千切られてしまってな。なに、われも古い怪物だ。そのうち元に戻るだろう」

「はあ……」


「ぬしが、和泉慎平か?」


 その問いかけに俺は軽くうなずいただけ。


 気勢を削がれてしまったな……そう思った。


 俺がギルゴートギルバーたちと戦うことになったのも大体この姫君のせいだ。この正義の吸血鬼が最悪のタイミングで根を上げたせいでソロモン騎士団が動き出し、挙げ句、俺がこんな場所に立つ羽目になった。

 だから、マリアベーラに会えたら一言二言文句を言ってやるつもりだったのだが――左腕左脚を失い、頼りなく俺の前に立つ彼女を見たら、どうにも言葉が出てこなかった。


「シルバージャックスから大体のことは聞いた。まさか、ぬしが魔王召喚者だったとはな」


 俺の顔をまじまじと見つめてくるマリアベーラ。

 俺はなんだか気恥ずかしくて目を逸らした。


「まこと、人は見かけによらぬものだ」

「その――まあ、なりゆきで」


 すると刀根勇雄が、俺とマリアベーラに向かって「お二人は面識があるとか」と一言。


「二度ほどな」

「ええ。その節は」


 マリアベーラが身じろぎして、斎藤弥恵子はそれを支えてやろうとしたが。

「よい。魔王召喚者の前に立つのに、介添え付きではアルメイアの立つ瀬がない」

 そう言われてマリアベーラの右腕を肩から外した。


「お気を付けください」


 支えもなく片脚一本でどうやって立つのかと思ったが――ふと気付けば、ガウンのすそから真っ黒な脚が伸びている。


 まるで『夜』を掻き集めて固めたかのような即席の義足。


 吸血鬼マリアベーラの力によって現れたそれはしかし、一見、枯れ枝のようにも見える弱々しいものだった。強い海風が吹けば、折れてしまうかもしれないほどに……。


 そしてマリアベーラがぎこちない動きで歩き出し。

「ま、まあまあ。ご無理なさらず」

 俺は咄嗟に彼女を迎えに行った。両手を差し出し、毅然に振る舞いたがる怪我人に困惑するのだ。


 案の定、まともに動けないマリアベーラは何もない地面にさえつまずき、「きゃ――」俺の胸に飛び込んでくる形となった。抱きとめると、想像していたよりもずっと軽い。


「失礼した」


 俺の胸の中で乱れた前髪を直し、苦笑を浮かべたマリアベーラ。そのまま自ら膝を折ってゴミを埋め立てた地面にひざまずく。残った右手でも地面に触れ、夜空のように美しい長髪が砂まみれになるのもお構いなしだ。


 まるで、その身を神に捧げるがごとき格好……そんなマリアベーラが俺を見上げて言った。


「われは、始祖アルメイアより血を分け与えられし――マリアベーラ・メルト・レスクヴァール・アルメイア」


 俺はすっかり恐縮してしまい、あたふたと腰を落とすのだった。


「此度、かの魔王召喚者に助力いただけると聞き、参上した」

「は、はあ――」

「偉大なる魔王に連なる者よ。我ら『夜の鬼』を恐れぬ勇者よ」


 そしてマリアベーラの右手に左手首を取られて――俺は、反射的に眉間にしわを寄せてしまう。今、この吸血鬼が力加減を間違えたら……そう思ってゾッとしたのだ。


 意図した行動ではなかったとはいえ、なんとも失礼な反応。今さら後悔しても後の祭り。


 しかし、それでも。

「どうか――どうかアルメイアの血を取り戻して欲しい」

 俺の顔を見たはずのマリアベーラは、無礼な俺に丁寧に懇願し続けた。


「我らの失態、力不足を人の子に背負わせること、まことに心苦しい。この街にも迷惑をかけた。例えこの長き命を償いに使っても、罪をあがなうことはできぬだろう」


 俺も今度は真顔で彼女を見返し。

「……マリアベーラさん……」

 前に見た時より、だいぶやつれたような……と気付く。


 そもそも、こんな繊細な女性が先頭に立ってギルゴートギルバーと戦っていたなんて、何か、悪い冗談のようにも思えた。


「ソロモン騎士団の要求はすべて呑む。だからギルゴートギルバーは、あの逆賊だけは、生かして捕らえてくれぬだろうか。我らにはアルメイアの血が必要なのだ。あの血は、アルメイアは、我らにとって――」

「わかります。わかりましたから」


 嘆願の言葉を吐き出すにつれて湿り気を帯びていったマリアベーラの瞳。

 俺はどうにも見ていられなくて、空いた右手でマリアベーラのか細い指を握った。


「大丈夫。あとは私が引き受けます」


 ギルゴートギルバーも、アルメイア王国騎士団も、ソロモン騎士団も……誰もが自身の利益を最大限追い求めた結果が、今日という日だ。

 それぞれがそれぞれに浅ましく、どうなろうと自業自得。


 だが、俺は……こんなにもマリアベーラに慕われるアルメイアという古い吸血鬼にいつか会ってみたいと思い、ガラにもない言葉を続けるのだった。


「魔王の名にかけて」 


 勝手に名前を使ったらあいつは怒るだろうか。いや、大笑いしてるかもな。


 マリアベーラの表情が弛んだ。

「……和泉慎平」

「はい」


「ソロモン寺院には、ぬしのような男もいるのだな」

 飾り気のない微笑みでそう言って、大きく開いたナイトガウンの胸元――胸の谷間へと右手を差し入れる。


 そして肉の間から彼女が取り出した金属片、俺は見覚えがあった。

 三日前、高層マンションの屋上で拾い、マリアベーラに返却したあの金属片だ。


 俺は、首輪を半分に切ったような形のそれを受け取り、両面に刻まれた無数の文字を眺めた。いつ、どこで用いられたのかもわからない正体不明の文字……。


「昔、アルメイアが人への恭順を示すために用いた装具だ。アルメイアの血を奪ったギルゴートギルバーの首にあてがえば、力なき傀儡と化そう」

「首に当てるだけでいいんですね?」

「奴もこの装具の存在は知っているゆえ、簡単なことではないだろうが」


 俺は刀根勇雄に目を移した。

 彼のうなずきを見て、「ありがとうございます。使わせてもらいます」とマリアベーラに頭を下げる。


 この呪具のことは、あらかじめ刀根勇雄に聞いていた。ギルゴートギルバー用の拘束具をマリアベーラに借り受けることができるという話になっていたのだ。

 まさか彼女から直接手渡されることになるとは思っていなかったが……。


「マリアベーラ様――そろそろ。お身体に障ります」


 冷たい地面にひざまずいたままのマリアベーラに斎藤弥恵子が触れた。一人では立ち上がれない吸血鬼の腰に腕を回し、不安定なその身体を持ち上げる。


「ぬし、もっとこちらへ」

 斎藤弥恵子に支えられながらもマリアベーラが俺に右手を伸ばしてきたので、内緒話でもあるのかと思って顔を寄せた。


 するとマリアベーラの怪力が俺の頭を優しく引き寄せ――結果、俺のひたいとマリアベーラのひたいが、コツンと当たることになる。


 まるで母親が幼い子供にするような優しいひたい合わせ。


「ぬしの力……われもだいぶ年寄りであるゆえ、カードゲームはよくわからぬが――」


 マリアベーラの黒髪は薔薇の香りがした。


「どうか、和泉慎平に夜の加護があらんことを」


 しっとりとした祈りの言葉、そして吐息が静かな夜に響く。


 それはどこか風の音にも似ていて。

「……………………」

 俺はひたいを撫でながら、斎藤弥恵子に肩を貸されて立ち去るマリアベーラを見送るのだった。吸血鬼の身体も意外と温かいんだな、なんてことをぼんやり思う。


 刀根勇雄に肩を叩かれて、ハッとした。


「それでは私もこの辺りで引き揚げます」

「あ、そうですか」

「……和泉さん」

「はい」

「今しがた、東京ドームの近くで灰化した吸血鬼が発見されたそうです」

「――え?」

「かつて始祖殺しにも使われた“ラガシュの霊縄”を無理に超えようとしたのでしょうな。いや、無理に超えさせられたか……」

「はあ」

「ギルゴートギルバーが陸路による侵入を試みたのかもしれません。ならば、我々が張り巡らせた吸血鬼殺しの罠を見て……奴は必ず転移魔法を使ってくる」

「……なるほど……ここに来る、と」


「がんばって。死んでは駄目ですよ」

 そう言いながら先ほどよりもずっと力強く俺の肩を叩いた刀根勇雄。ためらいがちに歩き出すと――広い土の地面で立ち尽くす俺を何度か振り返り、それでも足を止めることはなかった。


 やがて刀根勇雄の後ろ姿が見えなくなり。


「………………ふー……」


 一人残された俺は空に向かって白い息を吐く。


 海を挟んで遠くに見える街の明かりに目を細めた。


 ふと。

「……夜の……加護、か……」

 マリアベーラが俺のために祈ってくれたことを思いながら、ポケットの上から『デモンズクラフトのデッキ』に触れた。


 夜の神様が何者かは知らないが、カードのドロー運を面倒見てくれるなら大歓迎だ。


 死神以外ならなんだっていい。

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