通り過ぎていく事件
まさか月曜日から泊まりになるとは思わなかった。
谷口公希が持ち込んだ『西洋甲冑一五着』の処理と毎日強制される九〇分間の戦闘訓練、そのおかげで普段の仕事が思いっきり滞ったのだ。
最低限、期限付きの経理仕事だけは……と、うずたかく積まれた請求書類を片っ端から片付けていたら見事に終電を逃した。
「……目がかすむ……」
深夜一時一〇分。
誰もいなくなった執務室で、俺は一人、目頭を押さえていた。
パソコンの液晶画面を見続けたせいで視神経が焼き切れそうだ。
そのうえ脳みそも見事に茹で上がっている。特に、休みなく情報を処理し続けた前頭葉の辺りに強い熱を感じた。
いくらなんでもがんばりすぎたな……そう思いながらパソコンの電源を落とす。
オフィスチェアから立ち上がると。
「――っと」
頭から血の気が引く感覚。思わず机に手を突いた。
……貧血……過労だろうか……。
眼精疲労が主原因だと思われる肩凝りを揉みほぐしつつ執務室を後にする。誰もいない廊下に出て――今日の訓練相手が冴月さんで助かった――しみじみとそう思うのだ
今日は、悠木悠里も、高杉・マリア=マルギッドも、矢神カナタたち三人娘も、テレビ仕事や撮影なんかでスケジュールがびっしりだったらしい。
それで、俺の戦闘訓練に付き合ってくれたのは、かろうじて空き時間のあった冴月晶ただ一人。いつだって俺にダダ甘な彼女が相手でキツい訓練になるわけがない。
地下の特殊訓練場で二人きり。
入念なストレッチの後、ランニングマシンで軽くジョギング、休憩時間の方が長いミット打ち、そしてまた入念なストレッチで九〇分終了だ。
どう考えても、おじさんの運動不足解消のためのメニュー。
ただ……ミット打ちで右のパンチばかりを練習させられたのは冴月晶らしいなと思った。俺が左手にデモンズクラフトの手札を握っていることを想定していたのだろう。
とはいえ……デモンズクラフトで戦わなくてはいけない相手に、中年男のパンチが必要となる状況がいまいち思いつかなかったが……。
「仮眠室の前にコンビニ行っとくか」
あくび混じりにそう独り言ち、俺は事務所ビル近くのコンビニへと足を伸ばした。
冬用コートの襟首を掻き集めたくなるほどの寒さだ。空を見上げれば重たい雲がビル明かりに照らされ、今にも小雪がチラつきそうな気配がある。空気は随分と乾燥していた。
「――こちら商品になります。ありゃとござしたー」
コンビニで買ったのはミネラルウォーターと朝食用のサンドイッチ、そして冴月晶のグラビア目当てで月曜発売の週刊誌だ。
しょっちゅう会社に泊まるから、替えの下着と歯磨きセットはロッカーに常備してある。
……軽くシャワーを浴びて……今からなら五時間ぐらいは眠れるだろうか……。
人気の薄い歩道を足早に進んだ。
「……はあ……」
寒さのあまり俺のため息も白く染まる。
それにしてもさすがは東京のビジネス街だ。こんな時間でも車の往来はそれなりだった。
とはいえ……通りの角を曲がると、人と車の流れが途切れた瞬間がある。
それはわずか数十秒程度の空白。
冬の空気が静まりかえり――――目の前の歩道にいきなり何かが落下してきた。路面を砕くほど強烈に、だ
「ひぃ――っ!?」
驚愕。俺が思い切り尻餅をついたのは言うまでもない。
コンビニ袋からこぼれたミネラルウォーターのペットボトルがコロコロ転がっていった。
なっ、何事!?
俺は都会の薄闇に目を凝らし、わずか二メートル前方に落ちてきた『何か』を確認しようとする。ごくりと唾を飲んだ。
…………人だ……。
黒のイブニングドレスを纏ったうら若い美女が、入れ墨だらけのスキンヘッドを地面に叩き付けていた。
この寒さだというのに、美女のイブニングドレスは胸元だけを隠すタイプ。肩も背中もまるごと露出していて、透けそうなぐらい真っ白な肌はそれ自体がほんのり光を放っているかのように見えた。
そして――青みがかった黒髪。深い夜に現れたブルームーンのような不思議な色。
「はあ、はあ……」
北欧系の上品な顔立ちが、息を上げながら、海外ギャングを思わせる入れ墨スキンヘッドの顔面を鷲掴みにしていたのである。
入れ墨スキンヘッドの剥き出しになった上半身はたくましく、しかし右腕がなかった。
「――?」
謎の北欧系美女が俺の存在に気付いて顔を上げる。
何もかもが人間離れした幽玄な女性。まるで夜の女王……俺は、尻餅をついたまま「ど、どうも……」と会釈することしかできなかった。
次の瞬間、色っぽい指がゆっくり持ち上がる。何をされるのかと思ったら、「しぃ――」彼女は唇に人差し指を当てただけ。黙っていろというジェスチャーだった。
そして、飛翔。
入れ墨スキンヘッドの顔面を掴んだまま、高層ビルがそびえ立つ東京の夜空へと舞い上がったのだ。イブニングドレスのすそが翼のごとく羽ばたくのを、俺は見た。
「ええぇ……マジかぁ……」
彼女と邂逅した時間など、たかだか一〇秒ぐらいだろう。しかし、何かとんでもない場面に出くわした気分だった。この東京でいったい何が起きているんだと思った。
その時――とんっ――不意に聞こえた軽い着地音。
イブニングドレスの美女が消えた夜空から視線を下ろせば、彼女がさっきまでいた場所に小さな女の子が立っている。
多分、八か九歳ぐらい。幼女と言っていい年頃の女の子。
ボロボロの服を着ていた。元は男物のTシャツだったのだろうが、プリントはかすれているし、布が擦り切れてあちこちほつれている。服というか、ただのボロ切れだ。
それに……真冬だというのに裸足……。
「………………」
どこか既視感のある綺麗な無表情が、じっと俺を見つめていた。
ストリートチルドレンみたいなみすぼらしい姿。さすがに気の毒で放ってはおけない。
「き、君――」
俺は幼女に声を掛けようとして。
「――ちょっ――――」
次の瞬間、尋常ならざる突風に乗って空に飛び上がった彼女を、「ちょっと……」力なく見送るのだった。なんだ今の? ソロモン騎士が使う魔法みたいな……と眉を寄せた。
両手を地面に突いたまましばらく呆然としていると、「なにやってるんです? そんなところで」という怪訝そうな声がある。
咄嗟に振り返ったら「――静佳さん」大きなマスクを顎下に引き下げる妙高院静佳がいた。耳当て付きのニット帽を被り、首には毛糸のマフラー、クリーム色のニットコートと、なんだか今日の彼女は全体的にモコモコしている。
俺は慌てて立ち上がると、「い、今お帰りですか?」平静を装いつつ尻の砂を払った。
「ですよ。ソロモン騎士団がこき使うから」
妙高院静佳が転がっていたミネラルウォーターのペットボトルを拾ってくれる。そのまま返してくれるのかと思いきや、彼女から差し出されたのは棒付きキャンディだった。
首を傾げた俺に「喉渇きました。一口ください」と小さく笑う。
俺が棒付きキャンディを受け取ると、妙高院静佳はパキッとキャップを開けてミネラルウォーターを一口。「どうも」少し中身の減ったペットボトルを俺の胸に押し付けた。
「で? 驚いた顔しちゃって、オヤジ狩りにでも遭いました?」
「……なんか、女の人が……降ってきまして……」
「女?」
「黒いドレスを着た女性でした。なんだったんでしょう、あれ」
「……ああ、なるほど」
そして妙高院静佳は両手をコートのポケットに突っ込んだまま歩き出す。
俺も彼女に続いた。
「それ多分、吸血鬼のお姫様ですね。名前は……確か、マリアベーラだったかな」
「はあ」
「実は、日曜から二つの吸血鬼グループが東京入りしてるんですよ。和泉さんも見た、ブラッドストローの不良どもと――アルメイア王国騎士団」
「お、王国?」
「ハンガリーの片田舎にね、吸血鬼の国があるんです。といっても一〇〇〇人規模の小さな街みたいなもんですけど」
「そりゃあ……なんと、おそろしい……」
「ん? なにが?」
「だって、一〇〇〇人もの吸血鬼、ですよね?」
「ああ――それ誤解です。アルメイアの血族に限っては、人類の敵じゃないです」
「ソロモン騎士団が倒す怪物じゃないんですか?」
「普通の吸血鬼は倒しますよ。でもアルメイアの血族って妙に人間贔屓っていうか……
血を分け与えてくれる人間がいなくなったら困るからって、人間を守ろうとするんですよ、悪魔とかから。だから和泉さんだって、お姫様には何もされなかったでしょう?」
俺はイブニングドレスの美女の姿を思い出し、「確かに」とうなずくしかない。
「この世界に吸血鬼が出現したのはソロモン騎士団設立の少し前らしいですけど、始祖と呼ばれた吸血鬼は五人。人類に敵対していた四人は昔の騎士が滅ぼしました。ただね、始祖アルメイアに限っては、うちと共闘してきた歴史があるんです」
そして妙高院静佳は俺に振り向き、ニッと犬歯を見せて笑った。まるで吸血鬼のように、だ。
「欧州における夜の番人。たかが血液の供与で吸血鬼が味方になるんだから、安いものでしょ」
対する俺は苦笑い。まあ……俺を悩ませる『魔王の呪い』すら有効活用しようとするソロモン騎士団。人類のためと、吸血鬼ぐらいこき使って然るべきか。
「ブラッドストローの首魁、ギル――なんとかって、アルメイアの血族らしいんですよね。それで、同族の名折れって、吸血鬼のお姫様が討伐に動いてるみたいです」
「ああ、なるほど――」
正義の吸血鬼・アルメイア王国騎士団と、いかにも犯罪者集団っぽいブラッドストロー。俺は、『んー……どちらかというと内輪揉め的な……?』という水無瀬りんの言葉を思い出して、思わず呟いた。
「内輪揉めって、そういうことか……」
ソロモン騎士団がブラッドストロー相手に専守防衛を決め込んだのも、アルメイア王国騎士団の顔を立ててのことだろう。それに、魔法少女たちも色々忙しいから……。
「ただムカつくのは――」
妙高院静佳が棒付きキャンディをガリガリ噛み砕きながら言った。
「クソ雑魚どもが、対立勢力に追われてる状況で、よくもあたしらに喧嘩売ってきたなってことですよ」
そして俺と妙高院静佳は、アイドル事務所サウスクイーンの高層ビルに到着する。
「なにか意図があるのか」
先に自動ドアを抜けたのは妙高院静佳だ。暖房の効いたエントランスに入った直後、彼女はニット帽を脱いで、長い黒髪を振った。
「本当に『ただのバカ』って可能性もあるからな」
彼女の言葉からはブラッドストローの吸血鬼に対する恐怖心や警戒心は感じられない。ソロモン騎士最強の奢りというわけではなく、単純に興味がないだけのように思えた。
不良吸血鬼たちが何を画策していようが、正直どうでもいい――と。
俺は「しかしまあ、何も東京でやらなくても、とは思いますが……」なんて苦笑いしながら、毛糸のマフラーを外して首を掻く妙高院静佳の隣を抜けた。
妙高院静佳に背後を見せた瞬間――「ぐえ」という濁った声。
「え?」
反射的に振り返ったら、「……ぐ、ぅ……」妙高院静佳のほっそりとした首に漆黒の鎖が巻き付いて、首の骨が折れるかと思うぐらい強く締め付けている。『妙高院静佳は和泉慎平を傷付けることができない』という魔王の呪いが発現していたのだ。
そして――妙高院静佳が耐えきれずに膝をつくと、漆黒の鎖は跡形もなく消える。
首締めから解放された瞬間、激しく咳き込んだ妙高院静佳。
ひたいを押さえながら頭を振った俺は、「あの、静佳さん? もしかして今……」と大きく上下する彼女の背中をさすってやった。
彼女は俺から目をそらして、ぼそっと一言だ。
「……別に……」
俺はペットボトルのミネラルウォーターを差し出しつつ思う。
果たして――この人の俺に対する殺意は、いつになったら消えてくれるんだろう。
エントランスホール正面の壁に掛けられた大時計に目を移すと、時刻は深夜二時を回りそうだ。さすがにもう寝たい……俺は深く嘆息した。
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