女神祭典にむけて
結局、吸血鬼のお姫様との邂逅が今週一番のトピックスになりそうだ。
火曜日、水曜日、木曜日は、ただいつもどおりに忙しいだけで終わった。
つまるところ――反社会的吸血鬼集団ブラッドストローに襲撃されることもなく、東京の夜空で行われているであろう吸血鬼同士の殺し合いの気配を感じることもなく――ひたすらに仕事の毎日だったのである。やはり、慌ただしくとも平和な日常が一番だと思った。
そして一二月二一日の金曜日。
「ふへぇ」
俺は、東京ドームのグラウンド中央を踏んで、思わず息を漏らしてしまう。
つい二ヶ月前までプロ野球の試合が行われていた芝生のグラウンド、がらんどうの観客スタンド、地上五〇メートル以上の高さに広がるドーム型天井――そんな容積一二四万立方メートルにも及ぶ巨大空間が、無言の迫力をもって俺の前に横たわっていた。
「当日はここが五万人以上のファンで埋まります」
そう言われて、俺は、隣を歩いていた谷口公希へと視線を送る。
「さぞ壮観でしょうね……」
「なにせ日本の『守護者』が勢揃いですから。アイドルのライブというより、ヒューマニズムの祝祭といった方が適当でしょうし」
「ライブビューイングの方はどうですか?」
「二〇館ほど追加させましたが、全館完売してます」
「なるほど。全国の映画館をほとんど網羅しちゃったわけですか……」
「経済規模は日本芸能史上最高になりますね、間違いなく」
今日は、丸一日、谷口公希と共に都内各所を駆け足に巡った。予算が適正に使用されているかどうかの簡易検査だったのだ。
倉庫に山積みにされたライブ会場販売グッズだったり、精巧に作られたステージセットだったり、アイドルの少女たちが着用するステージ衣装だったり、各種機材装置の数々だったりと――会社の金が投入されたものについては、だいたいイベントプロデューサーの谷口公希から説明を受けた。当然、俺を悩ませた、あの『西洋甲冑一五着』についてもだ。
そして、俺と谷口公希がライブ会場となる東京ドームに着いたのは、一日の終わり。
「そういえばここって音響の方はどうなんです?」
「抜群ということはないですね。そうは言っても野球場なので」
「なるほど……」
「とはいえ、音響システムが全面的に改修されて、前よりはだいぶ良くなりましたけど。それに日本トップの音響会社が色々仕込みますから、まあ大丈夫でしょう」
会場設営は来週火曜日からだ。だから当然、今、何があるというわけでもない。
それでも俺たちがここにいる理由――――谷口公希がタブレット端末を取り出した。
タブレット端末の液晶画面は、最初、何もない外野方面の風景を映している。
「バックスクリーン側がメインステージになりますが、こんな感じですね」
しかし谷口公希が画面をタップした次の瞬間。
「おぉ~」
そこにメインステージのイメージ図が重なったことに、俺は声を上げていた。
中央に巨大な剣が突き立つ荘厳なメインステージ。何百本という剣の群れが森のごとくに並び、戦いの末あちこちが凹んでしまった西洋甲冑が四方八方に転がっている。
それはまさしく――中世の戦場を思わせるステージセットだった。ここを、冴月晶や妙高院静佳たち、サウスクイーンアイドルが舞い踊るのである。
「……古の戦場に、女神……か……」
俺は、タブレット端末の画面と現実の風景を見比べて、ごくりと唾を飲んだ。
「どうです和泉さん? 彼女らのイメージにぴったりでは?」
「いや、ほんと――文句の付けようもないです」
「和泉さんのおかげですよ」
「はい?」
「メインオブジェの剣だったり、本物の甲冑だったり――和泉さんが、こっちサイドの言い分を聞いてくれたおかげです」
「そんな。却下させてもらった部分だって多いでしょうに」
「それでもです。水無瀬さんが経理に座ってた頃と比べりゃあダンチですよ」
「まあ……カチッとしてますもんねぇ、あの人」
「予算超えたら目を吊り上がらせて怒るんですもの。何度殺されると思ったか――と、今のオフレコでお願いしますね」
俺と谷口公希は互いに苦笑を交わし、ライブ会場設営の確認を再開するのだった。
不意に、一塁側の出入り口に騒がしさを覚え、目を向ける。
「あれ? 冴月さん? それに――」
幾人ものスタッフを引き連れてグラウンドに足を踏み入れてきたのは、ジャージ姿の冴月晶と、「アンリエッタさんは、なんで……」ステージ衣装に身を包んだアンリエッタ・トリミューンだ。アベル・アジャーニもいる。
青を基調とした変形フリルドレス――立派な胸元を強調するように胸回りを金属パーツで絞っていた。それと、スカートの後ろ半分は引きずりそうなぐらい豪華に垂れ下がっているが、スカート前面はきわどいぐらいのミニスカートだ。アンリエッタ・トリミューンが足を運ぶ度に、真っ白な太ももがチラチラと見えるのである。
谷口公希がこそっと教えてくれた。
「なんか妙にお気に召したらしくて、脱いでくれないらしいです」
「はあ。……打ち合わせでしょうか?」
「今日は衣装合わせだけだったんですが、急遽会場を見たいと。冴月ちゃんは、アンリエッタ・トリミューンに無理矢理連れてこられたみたいですね」
グラウンド中央に立つ俺と目が合った冴月晶、こちらに駆け出そうとして――やめた。スタッフたちの目を気にしたのか、小さく手を振ってくれただけだ。
アンリエッタ・トリミューンは俺を一瞥して、ウインクを一つ。
思わず俺の口から本音が漏れた。
「観客の反応が楽しみです」
すると谷口公希が大きくうなずく。
「ライブのクライマックスにアンリエッタ・トリミューンのサプライズ出演ですしね」
「イベント救護の手配は?」
「彼女の参加が決まった直後に、待機看護師を倍にしてます」
「なるほど。さすがです」
それから俺は、ライブ演出についての説明を受ける。タブレット端末の画面内で繰り広げられるライトと映像の饗宴に息を呑んだ。……思いっきりネタバレである。できればライブ当日に他の観客と一緒に楽しみたかった。とはいえ、これも仕事だから仕方がない。
ライブ演出の検査が終われば、本日確認すべき項目はすべて完了。
「――はい。すべて問題ないと思います。谷口さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
握手を求めてきた谷口公希に応えてやる。
あとは俺が事務所に戻って検査報告書をまとめるだけだ。
俺は、もう一度東京ドームを見回し、「しかし、まあ……」しみじみと言った。
「とんでもないことになりそうじゃないですか」
「そりゃあ、サウスクイーンがこんなに集まるって、世界的に見ても前代未聞ですもん」
「色々大変だったのでは? スケジュール調整とか」
「騎士稼業の方が、特に――でしたね」
「やはり。しかし、どうやって騎士団の説得を? ライブ当日に事件があるかもって、全員を突っ込むのは嫌がりそうですが」
「ただの熱意勝ちです。クリスマスも終わって怪異の少ないタイミングですしね。あとはとにかく、顕在化しそうな問題をあらかじめ片付けてもらって……」
「ああ。それで悠木さん怒ってたんですね」
「はははっ。騎士仕事が多いって言ってましたか」
俺は、『そのせいで毎日のトレーニングに付き合ってくれる悠木悠里の機嫌が悪い』とは口にしない。あのトレーニングのことはあまり口外しない方がいいと思った。この男が、俺のことを魔王召喚者だと知っているかすら怪しいし……。
そして谷口公希は俺から視線を外すと、ため息まじりに腕を組むのだ。
「……問題は、吸血鬼たちの動向ですよ。ほら、今、東京に来てるでしょう?」
深刻そうな声色。
さすがはアイドル事務所サウスクイーンお抱えのイベントプロデューサー、情報が早い――そう感心した俺も、鼻息一つと共に腕を組んだ。
「ブラッドストローと、アルメイア王国騎士団……でしたか。吸血鬼同士のドンパチだけで終わってくれればいいんですが」
しかし俺と谷口公希の不安は消えない。二人して腕組みのまま眉を寄せ、唇を噛んだ。
苦々しげに谷口公希が言った。
「妙高院あたりが出張れば一発なんでしょうけど……」
「同感です」
妙高院静佳が動けば、アルメイア王国騎士団に任せるよりだいぶ早く解決するはずだ。人類に仇なす吸血鬼どもに三日以上の命があるとは思えない。
俺は、「まあ――」谷口公希へと無理矢理笑いかけるのだった。
「我々は粛々と準備を進めましょう」
腕組みをほどいた谷口公希も「ですね」と苦笑を浮かべる。ふと、何かを思い出したようにパッと顔色が変わった。
「そういえば和泉さんは、クリスマスイブはなにかご予定が?」
俺は意味がわからず、「はい?」と真顔で聞き返してしまう。
「いえね、友人家族集めてクリスマスパーティーやるんですよ。毎年なんですがね。それで、和泉さんも是非と思って。お世話になりっぱなしですし」
「――あ、いや――」
予期せぬお誘いに困惑するしかなかった。後ろ頭を掻きつつたどたどしい答えを返す。
「す、すみません……普通に仕事、溜まってて……」
「そうですか残念。妻も和泉さんに会いたがってたんですが」
「ま、まあ……また機会があれば」
正直、冗談じゃないと思った。
谷口公希に悪気がないのはわかっている。彼にとって、ホームパーティーへの招待は、完全に善意に基づいた行動なのだろう。しかし、それでも――独り身の中年男を陽の当たる場所に引っ張り出して、いったいどんな拷問だ。
平日のクリスマスイブはいつだって普通に仕事。帰宅すれば、いつもどおり一人っきりの食事と就寝。ここ一〇年間、特別に聖夜を意識したことなんてなかった。
というか、この人結婚してたのか……結婚指輪してないし、独身仲間だと思っていた。
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