闇へ還る夜

「はあ、はあ……はあ」


 やっとの思いで我が家の玄関戸まで辿りついた。


 滴り落ちるほどの汗をかいている。


「……はあ……っ」

 後ろ手に鍵をかけ、年期の入った通勤カバンをキッチンも兼ねた廊下に投げた。

 くたびれた革靴を脱ぎ捨てると、一目散に洗面台へと駆け出す。


「やった――」


 思い切り蛇口をひねった。

 勢いよくあふれ出す冷水に頭を突っ込む。スーツが濡れてしまうことなど少しも気にならなかった。

 そのまま頭を荒っぽく洗い、顔を横に向けることで顔面の汗を一気に流し落とす。


 飛び散った水滴で、狭い洗面台は水浸しだ。


 そして、水の滴る前髪を掻き上げると、俺は、鏡に映る己をギッと睨み付けた。

 歯をむき出しにして顔を歪めてみる。


 ――笑い。


 果たしてこの顔は笑顔といっていいのだろうか。猿の威嚇顔にも見えて、とてもまともな人間の表情ではなかった。


「やった――」

 肩を震わせながら、洗面台の縁を思い切り叩く。


「やった、やったやった! やったやった!!」

 一度だけじゃない。何度も何度も、右手が壊れてもかまわないと思って力一杯叩き付けた。


 もう一度、鏡の中の俺自身をまじまじと見つめてみる。

 今度ははっきりと笑っていた。口の端をヒクヒクと引きつらせながらも、目はキラキラと輝いていたのだ。


「ギリギリ…………ギリギリだったが、やってやったぞ……!」


 不意に、腰から下の感覚がなくなった。

 腕の力だけでは体重を支えきれず、思わず尻餅を付く。洗面台のある狭い脱衣所の壁に背中をしこたま打ち付けた。


 両脚が痙攣している。


 考えてみれば、当然の事態だ。デュエルスペースのあるレンタルビデオ店から全力疾走で帰宅したのだ。一度も立ち止まらず、一度も速度を緩めることなく、二キロの距離をスプリントで走りきったのだ。

 運動不足の身体が、悲鳴を上げないわけがなかった。


 少しも動かない――否、もはや指一本たりとも動かすことができない。


 やがて、うつろな目で天上を見つめながら、俺はたった一言呟いた。

「…………勝って、やったぞ……」


 力尽きたかのようにまぶたを閉じる。

 浮かび上がるのは、あの美少年との一戦だ。スリル溢れる極上の戦いだ。


 結局、俺は、あの少年に請われたカードゲームバトルに応じてしまったのである。


 手札の回りがよかったとはとても言えない。

 対する少年は、早々に必勝パターンに持ち込むカードを揃えたらしかった。イカサマ並の速度で大型モンスターを並べられた時は、なにもできないまま負けると思った。

 それでも勝負を投げなかったのは、年長者としての意地だったのだろう。

 防御系のマジックカードを駆使して泥臭く時間を稼ぎ、最善のプレイングで少しずつ場を整え、最後は紙一重の差で大逆転だ。


 俺のコントロールする雑魚モンスターが、神話級モンスターの脇をすり抜けて、少年のライフポイントを削りきった瞬間の――あの番狂わせの快感だけは忘れられない。


 一方、あの子供は、呆然と盤面を見つめることしかできなかったみたいだった。

 圧倒的優位からの敗北。

 必殺の戦法を何度となく回避され、いつの間にか絶命させられていたという驚愕。

 最初、負けたことに気付かずゲームを続けようとしてしまったほどに……それほど鮮やかに、少年は俺にしてやられた。


『君さ、もうライフないぜ?』

 俺にそう言われて初めて、非情な現実に気付いたらしい。


『え? そんなことは――』

 と口走りながら手札を確認すると、机の上に広げたカードを穴が空くほど睨んでから、戦いの流れを一つ一つ思い返し…………やがて力なく負けを認めたのだった。


『…………そっか……僕、負けてるんだ……』


 今思い出しても興奮する。あの瞬間、俺は、信じられない力で拳を握っていた。

 勝利の高揚と安堵。

 確かに少年は、俺に『かつてない死闘』を与えてくれた。


「…………いい、バトルだった……」


 ようやく息が整ってきた俺は目を閉じたまま、「……とはいえ……とんでもない子供だったよ……色々と……」と、名も知らぬ少年の美貌を思い浮かべてニヤニヤする。


 あの子の強さなど、ゲームが始まってすぐに気付いた。

 プレイングそのものは手練れとは言い難い。上達の伸びしろは多分にあった。しかし、それとは別に、勝負所での引きが神懸かっていたのだ。


 長いカードゲーム歴の中で、俺は、神に愛されているとしか思えない強運のカードゲーマーたちとだって幾度なく立ち会ってきた。世の中には、イカサマ抜きで、勝負の鍵となるカードを引き当てる人間が確かにいるのだ。かなりの数。


 そして、その中でも、今日の少年は間違いなく断トツだった。

 悪魔みたいな引きの強さ――あの時の俺は、『マジで、アニメの主人公みたいに、カードを引いてくるんだな。こういう奴が、全国大会の頂点に立つんだろう』と思い、だからこそ、絶対に負けたくないと強く願ったのだ。


 とはいえ、できることは幾らも無かった。必死で策を巡らせ、プレイングの未熟な子供を罠にはめ、幸運のハンデをひっくり返しただけだ。カードゲーマーらしく、だ。

 

 凡人が英雄気質に打ち勝ったという事実。

 誰だって嬉しい。

 しかし、平凡なカードゲーマー人生を長年歩んできた俺にとって、今夜のバトルは、狂喜してしまうほどの出来事だったらしい。

『それじゃあ俺は帰るよ。君も気をつけて帰れよな』

 そう平静を装って店を出た直後に帰宅ダッシュを決めてしまうほどには、激しく昂ぶっていた。


 果たして、俺の人生において、今夜ほどのバトルを経験できる機会は、あとどれぐらいあるのだろう。


 あんな白熱の戦いをもう一度……とは思うが、あんな極限の緊張感は二度とごめんだとも思う。カードゲームなんぞに命を吸い取られるところだった。


「――ははっ」

 目を閉じたまま、俺の口から笑い声が漏れた。

 そしてその笑いを最後に、俺の意識は、少しずつ少しずつ薄れていった。


「…………………………」


 一人暮らしの1Kアパートには、闇が広がっているはずだ。

 脱衣所だけに灯された人工の光。

 廊下の片隅には深い深い暗がりが落ちているだろうか。


 そしてその隣には、帰宅時に俺が投げ捨てた俺の通勤カバンがある。

 通勤カバンの中には、ワイズマンズクラフトのデッキが入っていた。あの奇跡の美少年を打ち倒した俺の武器が――――

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