夜、一人
今頃、東京ドームでは五曲目……高杉・マリア=マルギッドが“カノープス”を歌い上げているだろうか。
「――きっと私カノープス、波間を漂うあなた導いて――」
俺は記憶の中にある“カノープス”のサビを小さく口ずさみ……しかし容赦なく吹き付けた海風が、下手くそな歌声をいとも簡単に掻き消すのだ。
………………。
ベンチコートのポケットに両手を突っ込み、突き刺すような寒さに身を縮こめた。
履き慣れたスニーカーのつま先で土の地面を叩く。
辺りを見回せば、視界に入るのは先ほどとなんら変わることのない景色だ。あちらこちらにぽつぽつと青白い光が浮かぶ真っ平らな埋立地。俺以外誰もいないうら寂しい場所。
吸血鬼はまだ来ない。
俺はふと、北北西の方の街明かりに目を凝らし、耳を澄ました。
文京区の東京ドームと東京湾の新海面処分場――直線距離ならば二〇キロメートルもないだろう。
ほんの少しでもライブの音が聞こえないものかと思ったのだが……当然、そんなことあるわけがない。馬鹿らしくなって思わず鼻で笑った。何をやっているんだ俺は、と。
手持ち無沙汰の余り、あてもなく歩き出す。
気だるげに足を引きずりながら目に付いた場所を適当に巡回していった。
時間潰しをしようにも愛用のスマートフォンは刀根勇雄に預けている。あんなもの、吸血鬼との戦いには使わないし、ポケットに入れておいても邪魔になると思ったからだ。
心臓が重い。
胃腸の不快感は一向に消えないし、脳みその根元だって変な熱を持っている気がする。
不安と緊張は行き着くところまで行っていた。
昨日からずっと心安まる暇なんか無くて、もうすっかり疲れ果ててしまった。
まあ……近所の武闘派暴走族に呼び出しを食らったオタク高校生、って感じか――自らの境遇をそんな風に例えてみて「……はぁ……」ため息を吐く。
歩きながら空中に浮かんでいた青白い光球に触れた。
光球は熱くも冷たくもなく、それどころか何の感触もなかった。俺が手を突っ込んでも光球は形すら変えず、ただその場に浮遊している。
なるほど。これならば吸血鬼に破壊されることもないだろう。
「――っ」
実体のない光に照らされながら俺はジャージのポケットを探った。
ベンチコートの下は、毎日の戦闘訓練で着慣れたジャージの上下だ。近所のスポーツ店で購入した八〇〇〇円のセール品。実戦でも着ることを知っていたらもう少し高価なものを買っていただろうか。
今さらではあるが、さすがに身軽すぎるかな……と後悔している。
一応、刀根勇雄からは防弾チョッキの着用も提案された。しかし最新型の防護服は意外に重く、慣れない俺ではどうにも動きにくかったから、結局断ってしまった。それに……強靱な特殊繊維でさえ、吸血鬼の怪力の前では気休め程度にしかならないと脅されたし。
「……はぁ……やっぱチョッキ着た方が良かったかな……」
そして俺はポケットからデモンズクラフトのデッキを取り出す。
一晩かけて厳選したカードが揃っているか、デッキの中身を確認し始めた。
今朝からずっと、一時間に一度はこうやってデッキを確認している気がする……だが、こうしていないと、不安でいてもたってもいられなくなるのだ。
多分きっと――
“悪夢より生まれしイゴーシュ”。
“塵と化す戦意”。
“ルインスライム”。
“月夜の鎧剥ぎ”。
この辺りのカードをどのタイミングで引いてこれるかが勝負の鍵となるだろう。
吸血鬼ギルゴートギルバー、魔法少女ダリア、そして五〇を超える吸血鬼の大群……ソロモン騎士に戦いを挑むようなイカれた奴ら相手に、俺は上手く立ち回れるだろうか。
「……殺すだけなら……ネビュロスで、いいんだがなあ……」
“冥府喰らいのネビュロス”は、今回のデッキには一枚も入っていない。
最優先すべきはギルゴートギルバーの生け捕りだ。デッキテーマにそぐわないカードを入れてデッキの完成度を落とすのは趣味じゃないし、ドローしても手札で腐るだけ。
そりゃあ……本当にどうしようもなくなった時は、約束を反故にして“冥府喰らいのネビュロス”で吸血鬼も魔法少女も一掃する――それを考えなかったわけじゃない。
だが、俺は――あの会議室で言ってのけた。
私がやります、と。
冴月晶、妙高院静佳の制止を振り切ってでも、啖呵を切ったのだ。
出来ませんでしたなんて、おめおめと帰れるわけがない。だから俺は“冥府喰らいのネビュロス”をデッキに入れなかった。正直、『死』だって覚悟している。
不意に。
「ははっ――」
自嘲気味の笑みがこぼれた。
――自分の言葉には責任を持ちたい――
そんなちっぽけなプライドが、俺の命の行方を決めるなんて――「……人生って……ほんと、なんなんだろうな……」
デッキをポケットに戻して、右手の親指の付け根を左手で揉み始めた。
不安と緊張に指先がしびれ、震える。
本当に、怖くて怖くてしかたがない。
俺は、右手に広がる『もどかしい感じ』が消えるまで、親指の付け根を念入りに揉み続けた。
そして……たった一人、夜風を聞いていた。
吸血鬼はまだ来ない。
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