金色の訪問者
脇腹を押さえつつ事務所ビル五階フロアにある自動販売機の前に立つ。
「痛って――」
財布を取り出そうとスーツの内ポケットに手を入れただけで身体が痛んだ。
間違いない。ギルゴートギルバーの一件以来のズタボロ状態だ。かろうじて動ける程度の満身創痍だ。
「……まあ……あんな散々に殴られりゃあな……」
ぽつりと呟いて自嘲気味に笑った。
青あざだらけの首から下と打って変わり、俺の顔に傷はない。多分、午後からの仕事を思って、その辺は気を遣ってくれたのだろう。
――高杉・マリア・マルギッドと二人っきりの戦闘訓練――
多忙な彼女の都合に合わせて午前十時から始めたそれは、まさしく『地獄の九十分』としかいえない代物だった。
優しい――というか、俺に甘い冴月晶や悠木悠里、矢神カナタたち三人娘とは違い、高杉・マリア・マルギッドはきっちり俺の運動能力の限界値に合わせた戦闘訓練を行ってくれる。冷徹な鬼教官を演じてくれる。
入念な柔軟体操から、これでもかと身体を追い込む筋力トレーニング、近接格闘を想定した戦闘訓練まで、一秒だって気が休まる瞬間はなかった。
特に恐ろしいのが、戦闘訓練の最後に待ち受けるスパーリングだ。
少しでも俺の防御が甘いと見るや、ソロモン騎士の拳や蹴りが容赦なく襲いかかってくるのである。
それは当然、高杉・マリア・マルギッドからすれば、十分に手加減した攻撃なのだろうが……正直、骨折しない程度というだけ。まともに喰らえば信じられないほどに痛い。
『いつも言ってますけど、ちゃんと受けないと身体壊れますよ?』
『悠里は攻撃も覚えさせたいみたいですが、“私の日”は徹底的に防御を練習してもらいますからね』
『ほら、足を止めない。滅多打ちにされたいんですか?』
グローブに包まれた拳を振るいながら真顔でそう言い放った彼女。
俺はファイティングポーズを崩さず、歯を食い縛って立ち続けた。
以前は訓練終わりに治癒魔法を使ってもらわないと仕事に戻れなかったが、ここ最近は治癒魔法なしでも地下訓練場を出られるようになった。
毎日毎日、ソロモン騎士の少女たちに付き合ってもらっているのだ。俺も少しは成長しているということだろう。
久しぶりの冬晴れとなった二月八日、金曜日。
身体は痛いし、毎日の残業で疲弊しきっているが、明日から始まる三連休のおかげでそれほど気分は悪くない。『建国記念の日』様様だ。
自動販売機に小銭を入れて、ブラックコーヒーのボタンを押した。
ガチャンッという音を聞いてから、腰を屈めつつ商品取り出し口に手を突っ込む。
そして、その時だ。
「もし――失礼ですが、和泉慎平さんでいらっしゃいます?」
そう声をかけられたのは。
一陣の風が吹き抜けたかと思ってしまうほどの涼しげな声。どこか聞き覚えのある響き。
俺は、しっかり温められたスチール缶を手に、「ええ。そうですが――」慌てて振り向いた。てっきり仕事の関係で呼ばれたと思ったのだ。
しかし――俺の眼前にいたのは、初対面となるショートブロンドの美女。
首元が大きく開いた丸首シャツにフォーマルなレディーススーツを合わせた格好で、長めのタイトスカートから伸びる脚はトップモデルのように引き締まっている。
白磁のような白い肌、ラピスラズリのような真っ青な瞳にドキリとした。
年の頃はどう厳しく見積もっても二十代後半。
とはいえ、ハリウッド女優と見まごうごときのキャリアウーマンがただの経理担当にどんな用があるか見当も付かない。それで俺は「あの、もしかしてソロモン騎士団の……?」と当たりを付けてみるのだった。
そしてどうやらそれは正解だったようで。
「お目にかかれて光栄です、魔王召喚者」
そう言って金髪碧眼の美女は柔らかく微笑んだ。
ほっそりとした右手を俺の前に差し出して、「高杉・アリス・マルギッドです」と。
俺は反射的に彼女の手を握りつつ、しかし。
「高杉?」
思わずそう声を漏らした。
ちょうどそこへ。
「お母様――?」
「うげ、アリス先生」
黒セーターの高杉・マリア・マルギッドとパンツスーツの水無瀬りんが通りがかる。
自動販売機があるのは、ビル五階の社員食堂に向かう廊下の途中だ。いいかげん正午になろうとしているし、一足先に食堂に入るところだったのかもしれない。
「びっくりした。どうして日本に――」
グレーの上着を小脇に抱えた高杉・マリア・マルギッドが、珍しく目を見開く形で驚愕している。まるで鳩が豆鉄砲を食ったように、だ。廊下の真ん中で俺と握手する金髪美女を小さく指差して、隣の水無瀬りんに小声で問いかけた。
「どうしてお母様が日本にいるのですか?」
しかし水無瀬りんは彼女の質問には一切答えず、「ご無沙汰しております、先生。それであの――今日は?」と俺も見たことがない全力の営業スマイルを発動させるのである。
高杉・アリス・マルギッドと名乗った金髪美女は、もう一度俺に優しく笑いかけてから握手をほどいた。
それから、真っ青な瞳を若い二人に振って、なんでもないことのように言う。
「日本で仕事があったから少し寄っただけよ。別にあなたたち二人に用があるわけではないから、警戒しなくてもいいわ」
俺は左手に握っていた缶コーヒーを両手で弄び、ほんのわずか眉をひそめた。
高杉・マリア・マルギッドと水無瀬りんの反応に気を取られてかなり長めに握手する形になったのに、俺の右手には何の体温も残っていない。恐ろしく冷たい手だったのだ。
「今日はご挨拶にうかがっただけ。和泉さんには、バーバヤガーとギルゴートギルバーの件でご尽力いただいたようだから」
改めて高杉・アリス・マルギッドを見る。
高杉・マリア・マルギッドと共に視界に入れてみる。
そして俺は、親子? この二人が? とついつい首を傾げたくなるのである。
高杉・マリア・マルギッドはスーツ姿の金髪美女のことを『お母様』と呼んだが、とてもそんな年齢差があるとは思えない。両者に共通する金髪碧眼、涼しげな美貌は確かに『血』を感じるところがあるものの……どう考えたって、少し年の離れた姉妹程度が限度だろう。つまるところ、困惑してしまうほどに母親側が若すぎる。
高杉・アリス・マルギッドが俺を見て、苦笑いを浮かべた。
「ここまで大変な苦労をされたことと思います。一般の方からすれば、ソロモン騎士団のやり方は無茶苦茶でしょうから」
すると俺も「それは、まあ――」と苦笑いを返した。
「私たち騎士団のエージェントの間でも、和泉さんのことはよく話に上がるのですよ」
「ああ。そう、なんですね」
「ともあれ、和泉さんにあまり無理をさせないよう、お偉方にはよくよく言っておきますから。どうかこれからも人類の守護にお付き合いくださいね」
満面の笑みと共に発された言葉に、俺は「え、ええ……」と言葉を濁す。戦場に駆り出されるのだけはごめんだ――と思って、なんとも微妙な作り笑いを浮かべた。
「うふふ。『こちら側』にも少し慣れたようなお顔をしていらっしゃる」
「そ、そうですか? 確かに少し、筋肉は付いたかもしれませんが……」
そして、不意に俺の視線が動く。
高杉・アリス・マルギッドの背後で、水無瀬りんと高杉・マリア・マルギッドがこそこそと逃げ出そうとしているのが目に入ったからだ。
「ところで、二人は仕事中?」
俺の視線の動きに気付いたのだろう。二人に振り向いた高杉・アリス・マルギッドがいきなりそんなことを言った。
瞬間、水無瀬りんと高杉・マリア・マルギッドの両肩がビクリと飛び上がり――まるで石像のように固まってしまう。
水無瀬りんが震える声を漏らす。
「い、いえ……早めにお昼を取っておこうかと……」
そんな彼女に身体を寄せつつ高杉・マリア・マルギッドがそれに続いた。
「社会維持局との協議がですね、昼一に入っていまして……水無瀬さんと一緒に出席するんです」
彼女らの言葉を聞いて、高杉・アリス・マルギッドは「ああ、もうそんな時間なのね」とかすかに目を細める。
もしかしたらその何気ない仕草を『もてなしの催促をされた』と思ったのかもしれない。
愛想笑いの水無瀬りんが口端をヒクつかせながら言った。
「もしお時間が許すようなら、アリス先生も一緒にいかがです?」
直後、俺の方を向いた高杉・マリア・マルギッドが「よろしければ、和泉さんも是非」とウィンクを三回も送ってくるのである。いつも冷静な彼女には珍しく、助けを求めるような必死さがあった。
「え、ええ。私は、問題ありませんけど」
俺がそう答えると、心底ホッとしたような吐息を漏らすのだ。多分――これで食事中の話の種ができた――とでも思ったのだろう。
「……ふむ……そうですね……せっかく昔の生徒と愛娘が誘ってくれたのですから、忙しいと断るのは野暮ですね」
「や、やったー。よかったわね、マリア」
「わ、わーい。久しぶりにお母様とお食事ですー」
瞬間、「――っ」ふとした笑いが込みあげてきて、咳払いで逃げた俺。
よく似た母子だというのに、『マリア』は『アリス』がずいぶんと苦手らしい。共に食卓を囲むことすらためらってしまうほどに、だ。緊張のせいか、変な口調になっている。
それから俺たちは揃って事務所ビルに設けられた社員食堂に入り――
――――――――――――――――
「本当、お嬢さんにはいつもお世話になってまして。今日だって忙しい合間を縫って私の訓練に付き合ってくださったりと」
「そういえば、和泉さんはギルゴートギルバーと格闘されたのですよね」
「まあ、格闘というか――ほとんど子供の喧嘩です。お恥ずかしながら」
俺の着席した窓際の丸テーブルには、目を疑いたくなるような光景が広がっている。
鶏もも肉のロースト。
ベーコンとほうれん草のソテー。
黒毛和牛の和風ハンバーグ。
冬野菜のマリネ。
麻婆茄子。
魚介のブイヤベース。
ムール貝のバター焼き――えとせとら、えとせとら。
三十卓の丸テーブルが並ぶ広い食堂を動き回って山盛りの大皿を十八枚集めたのは、『先生と和泉さんは座っててください。料理はわたしとマリアでお持ちしますから』と言った水無瀬りんと高杉・マリア・マルギッドの二人だった。
高級ホテルの総料理長も勤めたという凄腕シェフがキッチンを仕切る、バイキング形式の社員食堂。いくら無料で利用できるからって、物には限度というものがあるだろう。
テーブルを埋め尽くした料理の数々に、俺は初め眉をひそめたが。
「訓練は毎日?」
「ええ。一応、業務命令が出てますので――体調不良でない限りは、月曜から金曜まで」
「それは凄い。一年後が楽しみですね」
「はははっ。私としては、役立つ機会がないのが一番なんですが」
「日々の仕事であれ、予期せぬ荒事であれ、何事も健全な肉体からですよ。未熟でふつつかな娘ですが、便利に使ってやってください」
俺と高杉・アリス・マルギッドが言葉を交わす間、水無瀬りんと高杉・マリア・マルギッドは『口に入れたものすべてを消滅させる人形』と化していた。
硬い笑顔を顔に貼り付けたまま、上品な仕草かつ尋常ではない勢いで料理を食べ続けている。まるで、何かを咀嚼している間は高杉・アリス・マルギッドに話を振られないと確信しているみたいだった。
しかし、音もなく噛み砕かれたハンバーグが水無瀬りんの喉を通過した直後。
「それで水無瀬?」
「はっ、はひ――!」
高杉・アリス・マルギッドの碧眼に見つめられて、蛇に睨まれた蛙状態に陥ってしまう。
「あなたの方はどうなの? 騎士を引退してしばらく経つけど、ちゃんと仕事はこなせているのかしら?」
「そ、それはもう、毎日マジメに仕事に励んでいる次第でございまして――」
あからさまに震える声。
それで俺は苦笑いしながら、「庶務課のエースですよ。私と課長を足しても、まだ水無瀬さんの方が仕事してます」と助け船を出すのである。
すると、なんとも柔らかい笑みを浮かべた高杉・アリス・マルギッド。
「そうですか。でしたら少し安心しました。この子は昔から精神的に弱いところがありましたから」
彼女はさっきから何も食べていない。娘が運んできたコーヒーを時折口に含んでいるだけだ。
ふと気付けば――正午を回り、少しずつ食堂に人の姿が増えてきたように思う。
窓際の特等席に座った俺たちを物珍しそうに眺める者もいたが、テーブルから漂う異様な雰囲気を感じ取ったのか、誰一人とて近づいてはこなかった。
戦闘訓練終わりで空腹の俺は、ベーコンとほうれん草のソテーで白米を食べてから。
「高杉さん――いえ、高杉・アリス・マルギッドさんは、どんなお仕事を?」
そんなことを尋ねてみる。グラスに注がれたミネラルウォーターを飲んだ。
高杉・アリス・マルギッドは俺の方を向いて、「アリスで構いませんよ?」と。それからなんでもないことのようにこう言った。
「今は、世界を飛び回って、次代のソロモン騎士を探しています」
「次代――? スカウトのようなものでしょうか?」
「ええ。ソロモン騎士は魔法使いの中でも最上級ですから、候補生の選別にも『特別な目』が必要になるのです。中途半端な才能の持ち主に過酷な騎士修業を課して、むざむざ殺してしまうのもよくありませんしね」
「すると、アリスさんが今回日本にいらっしゃったのは――」
「古くから続く陰陽師の家で麒麟児が出たという話がありまして」
「ははあ。それで、アリスさんのお眼鏡にはかないましたか?」
「残念ながら。それなりの魔法使いには育つでしょうが、ソロモン騎士にはとても至らないと判断いたしました」
「なるほど。でしたら、今回の来日は無駄足に……」
「いつものことですよ。ソロモン騎士確実と噂される才能でも、実際に使えるのは百人に一人か二人。ソロモン騎士とはそういうものなのです」
そこまで言うと、目を閉じてコーヒーの残りを一気飲み。
「そして運よくソロモン騎士になれたとて、未熟ゆえに魔王召喚者に翻弄される」
直後――カチャンと甲高い物音。
「才能を選別し、それを十分に育てるというのは本当に難しいことです」
見れば、高杉・マリア・マルギッドが手にしたフォークを床に落としてしまっていた。
「も――申し訳ありません、お母様――」
しかし、顔色を失った娘を一瞥もせずに、悠然と言葉を続ける高杉・アリス・マルギッド。
「とはいえ、あの件は、五人ものソロモン騎士を手玉に取った和泉さんの胆力に驚嘆すべきですね」
「ははは……あんまりいじめてあげないでください」
俺は、大皿から鶏もも肉のローストを小皿に移しつつ、「それで、アリスさんはいつまで日本に?」なんて苦笑するのである。
相変わらず高杉・アリス・マルギッドは料理に手を付けようとしない。
「今日の夜には発ちます。ただ――」
「ただ?」
「手紙をどうしようかと思っていまして」
「はあ。手紙――ですか」
「ええ。日本にいる古い友人に送りたいのですが、なにせ正確な住所がわからないものですから。私的なことに騎士団の力を使うのもよくありませんし」
そして、どこか色っぽい――少し困ったような顔で俺を見つめるだけだった。
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