それは恩恵という名の

「それで手紙を直接届けて差し上げることにしたのですか? 飛騨まで?」

「ええ。何か特別理由があるわけではなくて――ただの思い付きなんですがね」


 ネクタイの根元に人差し指を入れて、結び目をゆるめる。

 ようやく解放された喉元。それで俺は、一日の終わりを実感するのである。仕事モードの心身が十二時間ぶりに一息ついた気がした。


 見慣れたリビング兼寝室の景色に心底油断していた俺。それでついつい――

「………………」

 俺のスーツを抱いた冴月晶からジト目を向けられていることに気付くのが遅れてしまう。


 草色のタートルネックニットに紺色のロングスカートを合わせただけの、すっきりとした格好の超絶美少女。今夜も合鍵を使って部屋に上がり、俺の帰宅を待ち構えていたのだろう。


 キッチンからは鼻腔を刺激するカレーの香りだ。


「な、なにか?」

 ネクタイをほどきながら俺は、ふとした緊張感に口端を軽くヒクつかせた。


 冴月晶は俺から受け取ったスーツをハンガーにかけながら、「いえ。お仕事でお疲れなのに、わざわざ別の仕事を増やさなくても――と」なんて、ため息を吐く。


「ほんと、おにーさんってばお人好しだよねえ」


 冴月晶の嘆息に追随するように幼い声が発され、俺は咄嗟にベッドに視線を走らせた。


 すると丸くなった羽毛布団から顔を出した猫っぽい美貌の少年。

「せっかくの三連休をそんなことのために使おうだなんて。社畜根性もそこまでいけば立派だよ」

 口元をゆるめ、いつもどおりとも言える不敵な笑みで俺を見上げている。


 諸悪の根源――魔王だ。


 当然のことのように我が家にいる『超越者』に俺は後頭部を掻き、「なんだよ、お前さんもいたのか」少年が潜り込むベッドの端に腰掛けた。二人分の体重にベッドの床板がギシッと音を立てた。


「どうして俺の布団の中に?」

「ふて寝」

「ふて寝?」


 それで俺は部屋の中央にでんと置かれたコタツに目を移すのである。

 コタツの天板の上には、裏面が真っ黒なカードが広がり、そして『チェスクロックにも似た、アナログ時計が二つはめ込まれた黒い箱』もあった。


「ああ。冴月さんとデモンズクラフトやってたのか」

「新しいデッキ試してみたかったんだ。でもさ、おにーさん、今日も帰り遅いからさ。それで晶とやったら、“沈黙の堕天使ニケ”が硬すぎて負けた」

「……まあ、新デッキで勝てないと結構凹むよな」


 苦笑まじりにベッドから立ち上がった俺は、おそらく少年が使ったと思われるカードを見下ろし、「見ていいか?」と尋ねてみる。


「いいよぉ」

 その声を待ってからコタツの上に散らばるカードを集め始めた。


 そして集めたカードの束を手の中で扇状に広げ……よくもまあ、こんなデッキで戦えるもんだ……そう心の底から感心してしまう。尋常じゃないほどに大型モンスターが多いのだ。“冥府喰らいのネビュロス”を超える怪物たちが二十枚近く入っている。


 抜群の幸運を有する少年だからこそのデッキ。これほど極端なデッキを使いこなせる人間は、この世界にそう多くはないだろう。俺ならそもそも作ってみようとすら思わない。


 “混沌炎のファフニール”。


 “第一の審判者オー”。


 “彷徨える聖杯王アルトゥルス”


 “蒼天を呑む者”


 “アポ・メカネス・テオス”


 “月に眠りしミケーネ・アラスタニア”


 少年好みのド派手な効果を持つモンスターカードたち。しかし俺はそういったものには目もくれず。

「グレイス?」

 少年のデッキに入っていた“闇の盾よ。我が身を守りたまえ”なる奇妙なカード名の一枚に首を傾げた。


 布団から半身を出した少年が、「ああ、それ? グレイスカードだよ」あっけらかんとした口調で説明してくれる。


「モンスターカード、マジックカードに続く第三のカードさ。プレイヤーに与えられる恩寵――お守りって思ってくれていいよ。使い捨てのマジックカードと違って、フィールドに残って効果を発揮し続けるの。発動できるのは、お互い一枚ずつだけどね」


 俺は「……新しい種類のカード、ねえ……」と喉を鳴らし、グレイスカード“闇の盾よ。我が身を守りたまえ”のテキストに目を走らせた。


『発動条件:なし。このカードはあなたが新たにグレイスカードを発動させるまでフィールドに残る。あなたが手札のマジックカードを一枚破棄するか、捨て山のカードを五枚ゲームから除外するたび、攻撃力三以下の相手モンスターの攻撃ではあなたのライフは減らない』


「お守りにしてはやけに強力だな。アキムの攻撃も止めるのか」


「過信しすぎるのは良くないよ。調子に乗ってたら足元すくわれるんだから」


 少年のその言葉を聞いて、後ろ手にエプロンの紐を結んでいた冴月晶が不意に口を挟んでくる。


「それでさっき、手札のマジックカードも捨て山も枯渇していらっしゃいましたものね」

 まるであおるような口調。


 途端、俺の羽毛布団を蹴り飛ばした少年がベッドの上で手足をジタバタさせるのである。


「お前がニケで突っついてくるからだろ!! なんだ防御力六以上のモンスターは防御できなくなるって! 誰があんなカード作ったんだ!!」

「大型モンスターしか入れてない偉大なる王がいけないのですよ」


そんな二人のやり取りに俺は苦笑だ。


「喧嘩して部屋壊さないでくれよ。ソロモン騎士と魔王に暴れられちゃかなわん」なんてぼやきつつ、コタツの上を片付け始めた。少年のカードだけではない。冴月晶のカードも集めてそれぞれのデッキケースに入れてやり、コタツの中央付近に鎮座している『デモンズクラフトの時計』をベッドの上の少年に渡した。


 エプロンの紐を結び終えた冴月晶が少年に問う。

「ところで、偉大なる王も晩ご飯食べていかれますか? 温めますけど」


 俺から受け取った『デモンズクラフトの時計』を小脇に抱えたままうつ伏せになった少年が答えた。

「う~……カレーだろ……? ……食べるぅ……」


 そして――冴月晶お手製のカレーとシーザーサラダがコタツの上に並び。

「毎日すみません。ほんと冴月さんには世話になりっぱなしで――」

「いえいえ。どうぞお召し上がりください。玉ねぎを入れすぎたので、少し甘いかもしれませんが」

「うげ、ピーマン入ってるじゃん」

 俺たちは三人仲良くそれを囲むのである。


「いただきます」

「いただきます」

「いっただきー」


 時刻はすでに夜十時過ぎ。

 ずいぶん遅い夕食だが、部屋に充満するスパイスの香りに食欲がそそられて仕方がなかった。


「――冴月さん。さっきの話――高杉さんの手紙を届けるって話ですけど――実を言うと、単なる親切心だけってわけじゃないんです」

「どういうことでしょう?」

「ねえねえ、おにーさんおにーさん。ピーマンとお肉交換したげるぅ」

「なんかですね、手紙の届け先近くに秘湯があるらしくて。たまには温泉でのんびりするのもいいかなって。この連休いっぱい使って、二泊三日で。最近は訓練がんばってるせいか、だいぶ身体も痛いですし」

「温泉、ですか?」

「ええ。筋肉痛とか打撲によく効く温泉だって言うものですから」

「…………なるほど」

「はい、ピーマンどうぞぉ」

「……お前なあ……瞬間移動でピーマンと肉を入れ替えるのはいいけど、好き嫌いしてたら大きくなれないぞ」

「ふふーん。僕もう大きいから何の問題もないもーん」

「…………温泉……和泉様が、温泉……」


 何気ない瞬間に食卓を見渡した俺は、「それにしてもなあ――」ソロモン騎士の少女、正体不明の魔王と団欒のひとときを過ごしていることが不思議に思えて、思わず小さく笑ってしまう。すぐさまカレーを口に入れてそれをごまかした。


 不意に、「少し失礼します」冴月晶がコタツから脚を抜いて立ち上がる。


 キッチンの方に消えた彼女を見送った俺と少年は。

「グレイスカードなんていつから考えてたんだ?」

「最初からぁ。ただ、いまいちゲームバランスが決まらなかったらしくてさあ。モンスターカードもマジックカードも増えてきた今が頃合いかなって」

 そんな話題と共に、玉ねぎの甘さが口いっぱいに広がるカレーを食べ進めた。


 やがて――

「晶ぁ。おかわりー。晶ぁ、カレーおかわりぃ」

「それぐらい自分でやればいいだろう」

「はあ? 僕、王様だよ? 立ってる奴は神様だって使うのさ」

 なんてやり取りの最中、「申し訳ありません。お待たせしました」冴月晶が部屋に戻ってくる。エプロンを着たままの彼女は、少年のカレー皿を持ち上げながら言った。


「偉大なる王はちゃんとピーマンも食べてください」


 少年は何も言わず、んべっと舌を出しただけだった。


 すると案の定というべきか……冴月晶が持ってきた少年のおかわりには、さっきよりも多めにピーマンが入っている。


「うげっ。またピーマンおにーさんの皿に移さなきゃいけないじゃんかぁ」

「ちょっと待て。お前さん、今度も俺に食わせる気かよ」


 そして自分のカレー皿の前で綺麗に正座した冴月晶。手元のスプーンに指を伸ばすこともなく、第一に俺の顔へと視線を移すのだ。


 俺に何か言おうとして、しかし言いにくそうに唇がかすかに震えただけ。


「どうしました?」

「いえ――あの、ボクもご一緒したいなと思って……」

「はい?」

「その、今マネージャーさんにお願いしてお休みをつくってもらったので……ボクも、温泉に一緒に――なんて……」

「え? 休み、つくったんですか? 本当に? もう?」

「はい。雑誌のお仕事を動かしてもらったんです。それであの、ボクも。もしもお邪魔でなければ、なんですが――」

「いや、だって……そりゃあ……」


 俺は首を横に振ることができなかった。


 いつも真面目な冴月晶がただの思い付きで仕事を無下にするわけがない。絶対に休みをもぎ取ってみせる――そんな確固たる決意を胸に、電話を握ったはずだ。

 俺の温泉旅行に同行するためだけに。


「そりゃあ、冴月さんがいいのなら、別にいいですが……」


 天下のサウスクイーンアイドル・冴月晶がそう決めたのならば、今さら俺が何か言うこともない。


 ただ、少年の方を向いて。

「……なんだよ……?」

「いやぁ、別にぃ」

 森羅万象すべてを見透かしたようなニヤニヤ笑いに一抹の不安を覚えるのみだった。

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