忘却者たちの朝

序章~戦士ではない~

「あなた、ずいぶん綺麗なところに住んでるのね」


 古い日本家屋――真夏の日差しが差し込む縁側にその声が現れたのは、吹き抜けた風が庭の柿の木を揺らした瞬間。


 八月十五日の正午過ぎには似合わぬ、ずいぶんと涼しげな声であった。現実離れした鷹揚さが発露した声といってもいいかもしれない。


 その数瞬後、衣擦れの音。

 明るい縁側から続く薄暗い和室で『美女』が動いた。薄い掛け布団を押しのけて身体を起こしたのである。


 墨を流したような長い黒髪が痩せた肩にかかり、いくらかは和服の合わせ目からのぞく胸の谷間に落ちた。美しい彼女が身じろぎする度、薄桃色の寝巻きが黒に染まっていく。


「アリス――」

 そう言葉を漏らしてから、わずかに目を細めた和装の美女。縁側に腰掛けた女の金髪が陽光を反射してまぶしかったのかもしれない。


「これぞ、ザ・ジャパンって感じ? こんなとこでひと月ぐらいボーッとできたらなぁ」


 ポニーテールにまとめられた見事な金髪が風に揺れる。

 アリス――そう呼ばれた金髪美女が羽織っていた白マントの大きな立ち襟も、夏の山風を受けてひらひらそよいだ。


 開け放たれていた雨戸から見えるのは、深緑に色付いた山並みと『まるっきり季節感を無視した』格好の金髪美女である。


 日本の原風景とアリスの組み合わせがミスマッチすぎて、黒髪美女はクスッと笑った。

「ただの田舎やさ。絶対あきるよ」


 それから白マントに施された『大樹をモチーフとした金刺繍』へと目を移す。

 少しかすれた声で問うた。


「それで、今日は?」

「別に。思いのほか任務が早く終わったから、その帰りにちょっと顔を見に来ただけ。あなたの実家は、騎士団に聞いた」

「ふぅん。天下のソロモン騎士様が、こんな山奥までご苦労なこと――」

 そこまで言って二つ、三つ咳き込んだ黒髪美女。


 アリスは眉も動かさずに、あまりにも妖艶で、あまりにも弱々しい彼女を見つめ続ける。寝具以外何もない質素な和室で、たった一人、『不治の病』と向き合う友人を不憫に思った。


「身体の方は?」

「……よくはないかな……あと何年生きられるかってところやさ」

「顔も真っ白じゃない」

「うふふ。色白なのは昔からやよ」

「あら、うらやましい。あなた、私よりも白いものねえ」


 ちょっとした冗談に小さく笑い合ってから、「それはそうと――」少し声色を変えたアリス。

「シャルロッテが気にしていたわ。自分たちが不甲斐なかったから、あなた一人に負担を掛けてしまったんじゃないかって」


 黒髪美女が苦笑しつつ応えた。

「気にせんでって伝えておいてくりょう。“雷雲に座す者”の到来……魔王レベルとは言わないまでも、人類を終わらせることだってできる竜だったわけやろ? 少しぐらいビビったって、ねえ」


 その時、不意に――――庭に立つ柿の木からアブラセミの声が響き始める。


 残り短い命をまっとうしようとする『彼』の歌声。耳をつんざく大音量に気を悪くすることもなく、アリスと黒髪美女は、ただしばらく口をつぐんだ。


 やがてアブラゼミは暴れながら青空に舞い上がる。


 彼の姿が揺らめく熱気の向こうに消えるのを見送ったアリスが、黒髪美女に向き直ってからしみじみ言った。

「本当にね……あなたがこの時代にいてくれて助かったわ。人類史上最強の魔法使いが、私たちに力を貸してくれて」


 すると黒髪美女が、「最強といっても、ソロモン騎士になりそこねたぐらいには、ひ弱やけどね」なんて笑いながら布団から這い出ようとしている。


「ちょっと。寝てなくて大丈夫なの?」

「大丈夫やないけど、アリスに渡さにゃならんものが――ちょっと待ってて」


 それから幽鬼のごとくに力なく立ち上がり、ふらふらと和室を出て行った。


 そして……綺麗に手入れされた大きな庭を眺めながら黒髪美女の帰りを待つ三分間。


 緑豊かな庭の中央を陣取る池には、大きな錦鯉が一匹泳いでいる。

 アリスは照り付けてくる真夏の太陽などものともせず、「……にしても……ここの山はなんだか業が深いわねえ……」金髪ポニーテールの毛先をもてあそんで時間を潰すのだ。


 ――――――


 再びふすまが開いて。

「ごめんなさいね。せっかく来てくれたのに、お茶の一つも出さないで」

 現れた黒髪美女は、和装の寝巻きのまま、頭には麦わら帽子をかぶっていた。縁側に降り注ぐ太陽に備えてのことだろう。


 縁側に正座すると、「はい、これ」と言って豪華絢爛なる祝儀袋を差し出すのだ。


 アリスがきょとんとして尋ねた。

「なにこれ?」

「なにって、お祝いやよ。高杉くんと――近いんやろう?」

「……それは、まあそうだけど……」


「ほら。あたしいつまで生きてるかわからんし、多分……式には行けないだろうからさ。今、渡しておこうかと思って」

「ロンドンじゃなくて、東京でやるのよ? あなたが来てくれないと盛り上がらないわ。会いたがってる子たちだって沢山いるんだから」

「無茶言わんといてよ。この前の討伐手伝ったので勘弁してくりょ」


「……そんなに悪いの……?」

「“アイオーク”撃ったのが決定打やな。次、同じことやったら、絶対死ぬ」

「……そっか……だいぶ無理させちゃったわね……」

「ええよぉ。あんなおっきな魔法使わせてもらって、案外、気持ちよかったし。広域結界ごと“雷雲に座す者”を消滅させるとか、二度と経験できんもの」


 アリスは白手袋に包まれた両手で祝儀袋を受け取ると。

「ジャパンのお祝いは、袋が綺麗だわ」

 金糸と銀糸で組まれた立派な水引、最高級の手漉き和紙をまじまじ眺めるのだった。


 ――――――


 遠くでまたアブラゼミが鳴いている。


 視界の奥にある山を眺めながらアリスがぽつりと問うた。

「これからどうするつもり?」


 すると、正座したまま小さく首を振った黒髪美女である。


「どうするもこうするも、この山で生きるだけやよ。先祖代々のお勤めをこなして、静かに暮らすだけ」

「身体を治して戦場に戻ってくる気は? あなたがまた仕事を請け負ってくれるって言うなら、ソロモン騎士団は世界最高の医療を用意するけれど」

「無理無理。今さら人類の守り手なんて、あたしには荷が重い」


 そのまま庭の柿の木を見上げて、しみじみと一言。


「あとは……子供を産めたら、かな……」

「相手がいるの?」

「いんにゃ。とりあえず、その辺を歩いてる旅人でも捕まえようかと」


 冗談か本気かわからぬ黒髪美女の表情に、「本当、変な人」アリスは笑うしかなかった。

 不意に――縁側から立ち上がり、ヒールの高いブーツで庭を踏む。


 立ち去ろうとする白マントに向かって黒髪美女が声を掛けた。

「もう行くの?」

「ええ。もともとちょっと寄っただけだし、こんなことであなたに無理をさせてもね」


 そしてアリスは第一歩を踏み出すが。

「――――」

 何かを思いついたらしく立ち止まる。


 豊かなポニーテールを揺らしながら黒髪美女に振り返ると、『大概のソロモン騎士がそうするように』超然と笑った。ギリシャ彫刻のように神秘的で、聖母像のような慈愛に満ち溢れているのに――どこか獣じみた獰猛さを想起させる笑みだった。


「あなたはソロモン騎士になれなかったけれど、あなたの子供ならあるいは――――楽しみにしているわ、沙也佳」

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