むせる聖夜(後)
クリスマスイブの一一時過ぎ、渋谷の混雑は恐れていたほどではなかった。
明日が平日というのもあるのだろう。腕を組んで歩くカップルの姿は確かに目立つものの、大量のサンタギャルやトナカイの着ぐるみが横行闊歩しているというわけではない。いつもどおりの都会の雑踏が五割増しという感じだ。
それで地方都市出身の俺はちょっとだけ拍子抜けしてしまう。
クリスマスイブの渋谷といえば、精力旺盛な若者たち一〇〇万人が狂喜乱舞しているものと思っていたから……いや、渋谷が大混雑するのはハロウィンの夜だったか……。
「ほら、水無瀬さん。しっかり歩いて」
渋谷道玄坂の混み合った歩道をトレンチコートの水無瀬りんと密着して歩く。
肩を貸し、腰を抱いてやる形だ。当然、水無瀬りんの小さくない胸が押し付けられることになるが、こうしないとまともに歩けないのだから仕方がない。なにより彼女のヒールが思ったより高くて、足をくじいてしまわぬよう、一歩ごとに力を込めて支え続けるのは相当な重労働だった。そのうえ、こっちが酔いそうなぐらい酒臭いし……。
「も、もう一軒……」
「馬鹿言わないでください。帰りますよ」
そう言って俺は、車の流れが切れない車道を見やる。
タクシーの姿を見つけられず小さく嘆息した。これがクリスマスの夜か……いつもあんなに走っているタクシーはどこに行ってしまったのだろう。
水無瀬りんが寝言のように「またやっちゃった……」なんて言うものだから、俺は彼女の腕を担ぎ直しつつ「ワイルドターキーなんかあおるからこうなるんです」と吐き捨てる。
渋谷道玄坂にあるブロッサムなるショットバー。俺が店に辿り着いた時、水無瀬りんはカウンターに顔を突っ伏して眠りこけていた。
白髪のバーテンダーが言うには、彼女は店の常連で、去年のクリスマスイブもこんな有り様だったらしい。幸せな恋人たちで溢れる渋谷にわざわざ出てきて、たった一人、酔い潰れるまで酒に浸るのだという。とてもほめられた趣味ではない。
『飲み過ぎちゃいけないとは言うんだけど、聞いてくれなくてねえ』
仕事の同僚だと説明した俺に水無瀬りんを引き渡しながら、バーテンダーはそう困り果てていた。
『あの。クレジットカード使えます?』
とりあえず今日の代金を立て替えておこうと財布を出した俺。
バーテンダーはそれを制し、『いいよいいよ。また今度、彼女にもらうから』と笑った。
『それより次はあなたがこの人を連れてきてあげてくれ。ずっと一人だって言うし、寂しいのかもしれない』
俺はその言葉には苦笑を返しただけ。ペコペコと頭を下げながら店を出た。
そして――こうして彼女と深夜の渋谷を寄り添い歩いているわけだ。
「水無瀬さん、まだ歩けます? どこかで休みましょうか?」
そう言いながら、地面にへたり込もうとする水無瀬りんを無理矢理引き上げる。
瞬間、こりゃあホテルコースだな……と覚悟を決めた。例え運良くタクシーを捕まえられたとしても、そもそも水無瀬りんの自宅がどこにあるか知らないのである。そこまで深い仲ではないし、こんな状態の彼女から自宅の住所を聞き出せるかも怪しい。
「ったく……明日、ホテルに連れ込まれたって職場で言わないでくださいよ」
幸い、この界隈にはラブホテルが乱立しているし、探せば一部屋ぐらい空いているだろう。そこで彼女の酔い覚めを待つのが一番手っ取り早い気がしてきた。
メインの通りを外れて脇道に入る。
すると道を行くカップルの密度が一気に上がった。どこを見ても、これから事を成そうする雰囲気を漂わせる若者たちばかりだ。
彼らの邪魔にならないよう歩道の端に寄って水無瀬りんを引きずっていたら。
「……わたし、なんでこんなことしてんだろ……」
そんな呟きが聞こえてくる。
俺は反応を示さなかったが、内心イラッとしていた。それはこっちの台詞だ、と。
だが。
「ねえ和泉さん……わたし、ソロモン騎士だったんですよ……知ってます?」
続いた言葉がやけに悲しげだったので、「……ええ」少し気になって視線を下ろした。すると俺の中綿ジャケットの胸元を握る水無瀬りんと目が合った。
「あの頃、クリスマスはほんと命懸けで……穏やかな夜なんて、一度だってなかった」
俺は足を止めて、今なら住所を聞き出せるかもと思ったりするが。
「いつも……いつだって傷だらけだったんです……明日の命も知れぬ日々、わたしが負ければ世界が終わってしまう重圧。何度も逃げ出したいと思ったはずなのに……っ。それなのに、わたし、あの頃が懐かしくて――」
駄目だ。彼女の瞳は虚ろなままで、まともな会話ができるとは思えなかった。
だから――俺の首に抱き付いてきた水無瀬りんが「ねえ――魔王召喚者。わたしと戦ってくれません?」なんて耳元で囁いても。
「退屈なんですよ。毎日毎日、退屈で気が狂いそうなんです」
そう言って俺の顔をぐちゃぐちゃに撫で回してきても。
「いっそ殺してくれてもいいですからぁ」
ひげの伸び始めた頬を妖艶な笑みで甘噛みしてきても、俺はたいしてうろたえなかった。
「はいはい。いつか――いつかね」
大怪我で戦場を退いた元ソロモン騎士……世界の守護者として鮮烈に生きた彼女の悲哀を垣間見た気もしたが、それより今はこの絡み癖が鬱陶しい。
もしかしたら俺は、ほんの少しだけ怒っているのかもしれない。夜も更けて眠いし。
「……クラブ……」
「はい?」
「クラブ行ってみたい」
「――あ、ちょっと! 水無瀬さん!?」
不意に水無瀬りんの注意が横に逸れたかと思ったら、その身体がするりと俺の腕を抜けた。そのまま彼女はかなりはっきりとした足取りで、道沿いのビル――その地下へと降りる階段へと走り出す。
ネオン看板には『DANCECLUB WILDCATS』とあった。
もう帰ってやろうかな――呆れ果ててそんなことを考えたりもするが、結局俺は同僚を見捨てることができなかった。苛立ちに頭を掻いて、階段に消えた彼女を追い掛ける。
「水無瀬さん! 待って!」
狭く暗い階段を降りながら思うのだ。クラブってあれだろ? なんか……踊ったり、ナンパ目的のチャラい若者が大集合する場所。ディスコとは何が違うんだっけか。
思わぬ初体験に気が重かった。前の職場の飲み会でキャバクラやガールズバーは経験しているが、上司連中の年齢的にクラブという遊び場には連行されたことがないのである。
……水無瀬さんを捕まえたら即時離脱だな……。
目の前に現れた黒く重厚な扉。この向こうで行われているらんちき騒ぎを想像し、しかし俺は思いきって重たい扉を引いた。騒々しいダンスミュージックが薄く聞こえた。
防音のためだろうか。クラブの出入り口は二重扉になっていて、中にもう一枚薄汚れた灰色の扉がある。室内を伺うように内扉をそっと開いた瞬間。
「う――っ」
むせ返るような異臭に喉が鳴った。
なんだこれ……ひどく生臭い……いや、吐きそうなほど鉄臭い。
明らかな異常事態だ。それで俺はてっきり、盛り上がった若者の誰かが豚の血でもぶちまけたのかと思ってしまう。ブラックメタルのライブなんかだと、そういう過激なパフォーマンスが行われることもあるらしいし……。
耳が潰れそうな大音量に怖じ気づくことなくドアを半分ほど開いたところで、水無瀬りんの姿を見つけた。緑と赤のレーザー照明が走り回る中、彼女は酒を求めて左奥のバーカウンターにふらふら向かっているところだった。
音楽がうるさすぎて叫んでも聞こえないだろう。俺はできるだけ目立たないよう身を縮めて、コンクリート剥き出しの広い空間に足を踏み入れるのだった。
なんか……足元がネチャネチャしている。油でもこぼしたみたいだ。
瞬間、俺は――この店大丈夫か? と眉をひそめた。ご機嫌なダンスミュージックは鳴り響いているのに、ダンスフロアに誰もいないのである。出入り口正面にあるDJブースも無人で……両脇の大型スピーカーはいったい誰のために空気を震わせているのだろう。
暗さと閃光に目を細めながらフロアを見渡す。
……ずいぶん荒れてるな……率直にそう思った。
バーカウンターに並んでいたはずのカウンターチェアは四方八方に倒れているし、酒瓶がフロア中に散乱していては客だって安心して踊れまい。床のところどころに真っ黒な水溜まりが広がっているのも気になる。
……クリスマスイブだってのに営業していないのか……?
「ほら水無瀬さんっ。行きますよ!」
ガラの悪い従業員が出てくるかもと思うと悠長にしていられない。焦った俺は水無瀬りんの右腕を捕まえ、ついつい力いっぱい引っ張ってしまった。
それが間違い――
「ふえ?」
泥酔した水無瀬りんの足元は危うく、少し引き寄せるだけで簡単に動いたのだ。俺が思い切り引っ張れば、当然、勢いそのままにぶつかってくる。予期していなかった俺は彼女の体重を支えることができなかった。
――――――
二人、絡み合ったまま倒れる。
「す……すみません水無瀬さん。大丈夫ですか?」
何はともあれ俺が下でよかった。これで彼女に怪我をさせては申し訳が立たない。冬の厚着のおかげか、俺の方もたいしたダメージはなかった。
しかし。
「ちょ――寝ちゃ駄目ですよ! しっかりして!」
中綿ジャケットの襟首辺りをよだれで濡らしながら水無瀬りんが寝息を立てていたから、俺は彼女をどかそうともがき――そして見てしまう。
「………………へ?」
バーカウンターの下――俺の顔の隣に、『人間の腕』が一本転がっているのを。
「おっ、おおおおおおおおっ!?」
本気で驚いた。驚愕のあまり火事場の馬鹿力を発揮したらしく、眠りこけた水無瀬りんを抱きかかえたまま反射的に立ち上がった。
俺は「マジか!? マジか!?」と後退りながら、肩口から強引に引きちぎられた『男の右腕一本』の真贋を確かめる。
……はっきりと浮き出た紫色の死斑……。
……血の気を失った青白い肌……。
……吹き出した鮮血が固まって赤黒くなった、ズタズタの傷口……。
レーザー照明が走り回る薄闇の中、その『腕』は生前の生々しさを残したまま静かに横たわっていた。この場所で行われたであろう残酷な所業を、無言で俺に伝えていた。
「……マジかよ……ここ……」
俺は惨憺たるフロア全体をもう一度見回し――床に広がる真っ黒な水溜まり――俺と水無瀬りんが入り込んだのが、凄惨な事件現場であることを確信するのだった。
今すぐ脱出しなければ――
そう思った俺だが、次の瞬間にはバーカウンターの内側に水無瀬りんを連れ込んでいた。
「クッソがっ、あのババアども!! しつけえんだよクソが!!」
出入り口が開く気配に気付いたからだ。
運が良かった。二重扉の外側が乱暴に閉められたおかげで、その振動が室内にまで伝わってきて――内扉が開くまでのわずかな時間で隠れることできた。
「……っ」
バーカウンターの陰からダンスフロアを覗き。
「毎度毎度、オレの食事を邪魔しやがって!!」
俺は心臓が止まりそうになる。開け放たれた内扉からゾロゾロとフロアに入ってきた連中……奴らにはっきり見覚えがあったからだ。
特に、先頭を大股で歩く――顔中にピアスをぶら下げた金髪の男――吸血鬼集団ブラッドストローの首魁、ギルゴートギルバー。
俺はバーカウンターの中に戻り、じゃあさっきの腕は……!! と、あれが吸血鬼の犠牲になった哀れな人間の末路であることを思い知るのである。
そして、ふと――しゃがみ込む俺と俺が抱き締める水無瀬りんの隣に、こんもりとした山があることに気が付いた。嫌な予感がした。もの凄く……嫌な、予感が……。
おそるおそる目を向けて、「――ひ――」小さく小さく喉を痙攣させる。
それは、人間の死体の山だった。
いや――八つ裂き死体たちの廃棄場。
いったい何人分の肉塊が積み上がっているのか……派手にちぎられた胴体からは赤黒い内臓が飛び出し、どこからどこまでが誰の内臓かすらわからない。肉山のあちらこちらに手足が生え、まるで地獄の針山のように見えた。そして、もぎ取られた頭部が――見て取れただけでも五つ――山から転がり落ちて生気のない眼を俺に向けているのだった。
バーカウンターの内側が血の海と化していないのは、『彼ら』に流れていた鮮血のほとんどが吸血鬼たちの腹に収まってしまったからに違いない。
「――――――」
俺は、思わず漏れそうになる恐怖の悲鳴を、口を押さえて必死に耐えた。
平静をたもっていられるわけがないが、動転してもなんにもならない。すぐそばに吸血鬼どもがいる。ここで叫んでも自分を追い詰めるだけだ。
呼吸を――とにかく息をする。
恐怖に涙が滲む瞳を見開き、両手で力いっぱい口を押さえたまま。
――――――――――――――――
鼻だけで、速く、深く、息をする。全身全霊で肺に空気を送り込んだ。理性が動揺に負けてしまわぬよう、脳への酸素供給だけは途切れさせなかった。
落ち着け、落ち着け和泉慎平。もう動かない死体を――哀れな犠牲者を怖がってどうするのだ。恐れるべきは、憎むべきは、あの人喰いの化け物どもだろう?
そう考えると、恐怖が少し薄らいだ。と同時に、心の底にかすかな火がついた気がした。
奴らは、『生きるために彼らの血を飲んだ』のではない。『弄んで喰った』のだ。人間並みの知能と人間を遙かに凌駕する力を有していながら、か弱い人間で遊んだのだ。
吸血鬼どもの倫理観なんて知らない。俺は人間だ。人として怒りに燃えるべきだろう。
もう一度死体の山を見て、そっと手を合わせた。
こういう形で出会ってしまったのも何かの縁だ。哀れな彼らの、安らかな冥福を祈る。
八つ裂き死体の中にバーテンダーの制服らしきものが見えた。それで俺は、殺された彼らがこのクラブの従業員ではないかと推測する。
そして多分……多分、客は殺されていない。
クリスマスイブのダンスクラブ――もしも客が入っている時に、吸血鬼どもの襲撃があったのならば、こんな死体の量じゃあ済まないだろうから。
……奴ら……まさか、人避けの魔法でも使ってるのか……?
それならば客が殺されていないことに説明が付く。俺と水無瀬りんが入り込めたのは、魔王召喚者と元ソロモン騎士だからだろう。ソロモン騎士は当たり前だが、俺の目も『ソロモン騎士団の聖域』にかけられている隠匿魔法ぐらいは看破してしまうみたいだし。
「おい!! 全員ちょっと並べ!! 田舎者どもは一番前だ!!」
俺は右手付近に視線を送り、『デモンズクラフトの箱』が現れていないか確認する。
……いない。
ギルゴートギルバーの声が掻き消えてしまうぐらいの大音量で音楽は鳴り響いている。それに、室内に充満したこの臭い――血の臭い――だ。
吸血鬼といえば人間より耳も鼻も良さそうだが、さすがにこの音と臭いの中、俺と水無瀬りんの存在に気付くことはないだろうと思った。このまま大人しくしていれば……。
「お前ら島国の吸血鬼がカスだから、あんなクソババアに手こずんだよ!!」
俺はポケットからスマートフォンを取り出し、そっと起動した。
電話帳を開き、総務省社会維持局の課長・刀根勇雄の携帯電話番号を表示させる。魔女バーバヤガー討伐の際にもらった名刺の番号を、念のため登録しておいたのだ。
「このオレにはアルメイアの血が流れてんだ!! 始祖なしの出来損ないがオレの下で働きたいんなら、命懸けてババア殺ってこいよ!!」
ガラスの砕ける音。
俺は何事かと思って、再びバーカウンターの陰からダンスフロアを覗き見た。
すると。
「それともできねえか!? てめえは始祖が殺されて、こんな島国に落ち延びた腰抜けどもの血族だからなあ!! そうかそうだったなあ!!」
一〇〇近い吸血鬼たちがギルゴートギルバーに整列させられ、最前列の一人が空の酒瓶でこっぴどく殴られている。
ギルゴートギルバーは酒瓶が粉砕する度に新しい瓶を拾い、それで黒髪の美形吸血鬼を傷付けていくのだ。しかし憤怒が収まる気配はなく、やがて本当の意味で手を出した。
大きく広げた五指を、黒髪吸血鬼の脳天に叩き付けたのである。
――――――
その結果に俺は目を見張る。
黒髪吸血鬼の上半身がなくなった。ギルゴートギルバーの一撃に耐えきれず、肉の雨と血の霧になって吹き飛んだ。
……再生はない……吸血鬼と言えば、心臓を杭で打たぬ限り不老不死というが、殺された吸血鬼はそこまでの化け物じゃなかったらしい。
血まみれになったギルゴートギルバーが、その隣の吸血鬼の頬を軽く叩きながら言う。
俺は耳を澄まして。
「あーあ。また兵隊が一匹減ったぞ。どうしてくれんだよ、これ」
ダンスミュージックの中に混じる流暢な日本語をすくい取るのだった。
「お前……オレの目的を言ってみろよ。おら、言ってみろ」
暴君ギルゴートギルバーの威圧にすくみ上がる茶髪の吸血鬼。
……あれも日本の吸血鬼なのだろうか……?
この国の外からやってきた吸血鬼ギルゴートギルバーが、わざわざ日本語でコミュニケーションを取っているということは、多分、そういうことなのだろう。
「――――――――」
茶髪の吸血鬼が何か言ったようだが、音楽が邪魔で全然聞こえなかった。
ただ――ギルゴートギルバーの望まぬ回答ではあったらしい。さっきの吸血鬼同様に脳天から叩き潰されて殺されたからだ。
「この国のソロモン騎士をオレのもんにするためだろうがぁ!!」
その怒号に俺はハッとする。いったい何のことか知りたくて、地団駄を踏んで騒ぎ回る吸血鬼の一言一句に意識を集中させた。
「あいつが来んだよ!! あいつがぁっ!! クリス・キネマトノーマぁ!! あのっ、イカレたクソ女が俺のところによぉおっ!!」
そう言いながらギルゴートギルバーは自らの衣服を破り始める。
「昔っからのダチ殺られたあげく……っ、『こんな印』まで付けて遊ばれてよぉ……っ!! どんだけ苦労してあれから逃げたと思ってんだお前らはぁああ!!」
あらわになった鶏ガラのような貧相な上半身――その左胸には大きな傷跡がある。目を凝らせば、吸血鬼の胸骨に黒い矢尻が食い込んでいるように見えた。
「ぶっ殺してやる……!! アルメイアの力で、ソロモン騎士を俺の血族にしちまえば戦力は五分だ。全員で囲って、あの女ぁ血祭りにあげてやる……!!」
そしてギルゴートギルバーは渾身の力を込めて天井に吠えるのだ。
「せいぜい大陸中の怪物を殺していい気になってろ!!」
握り拳がブルブル震えていた。
「その間にオレぁ、この島国で勝手させてもらうからよぉ!!」
それから――夢遊病者のようなおぼつかない足取りでバーカウンターへと近づいてくる。
俺はとっさにバーカウンターの内側に身を隠し、息をひそめた。
半裸のままカウンターにもたれかかったギルゴートギルバーが「くひひっ。悔しかったら東の果てまで来てみろや」引きつったような笑いをつくる。
――俺は極度に緊張していた――
吸血鬼の暴君とカウンター一枚を隔てて背中合わせだ。この距離ではダンスミュージックの響きよりもギルゴートギルバーの呟きの方がはっきり聞こえた。
「にしても、この国のソロモン騎士どもはなってねえ。未来のご主人様がせっかく姿を見せてやったのに、つれねえ態度取りやがって…………特に、あの赤髪と金髪の二人だ……あいつらは、オレの下僕にした後、しっかり可愛がってやらねえと――」
そこから先の独り言は俺の知らない言葉だ。
「――――――――――――――――――――――――――」
英語ではない。吸血鬼の国があるというハンガリーの言葉だろうか。いくつもの音が複雑に連なり、単語一つもまともに聞き取れなかった。
「おいクソガキ。酒持ってこい」
ギルゴートギルバーが不機嫌そうにそんなことを言うが、俺は隠れるのに必死で事態の把握ができない。
だから。
「…………」
ボロボロのTシャツ一枚――みすぼらしい身なりの幼女が、ギルゴートギルバーの酒を取るためにバーカウンターの内側に入ってきても。
「…………」
「…………」
カウンターの中に隠れる俺と完全に目が合っても。
「…………」
「…………」
幼女が俺の存在を無視して適当なウイスキー瓶を選び、そのまま行ってしまっても。
「…………」
俺にできるのは、『決して声を出さない。ひたすら黙っている』そのぐらいだった。水無瀬りんは、俺の苦労も知らないで、俺の腕の中で安らかに眠りこけている。
幼女から酒を受け取ったらしいギルゴートギルバーが唾を吐いた。
「なんだクソガキ。奴隷の分際でムカつく目ぇしやがって」
ウイスキーを瓶のまま思いきりあおったのだろう。熱っぽい息を吐き出しながら吸血鬼はバーカウンターから歩き離れていくのである。
それで俺は胸を撫で下ろし、フロア観察も再開した。
「奴隷様が腹減ったとよ。食わせてやるから何か持ってこい」
ギルゴートギルバーがウイスキー瓶を傾けながらそう言うと、たった一人リュックサックを背負っていた吸血鬼がコンビニで売っているメロンパンを暴君に献上した。
ギルゴートギルバーはウイスキー瓶を右脇に挟むとメロンパンの包装を開き――剥き出しのメロンパンを汚れた床に落とす。そして、あろうことかそれを踏みにじるのだ。
その時ちょうど音楽の切れ間がやってきて。
「ほらよ、食え」
支配者の言葉がダンスフロアに冷たく反響した。
すると――ぺたんと地面に座り込んだ幼女、グチャグチャに潰れたメロンパンを一心につまみ始める。
俺は、無惨に扱われてそれでも懸命に生きようとする小さな背中に、はらわたが煮えくり返る思いだった。陰から吸血鬼どもを睨み付けて――こいつら全員……ネビュロスで焼き払ってやろうか――と本気で思う。
しかし咄嗟にカウンター裏に戻って深呼吸した。落ち着け、そう自分に言い聞かせた。
次の瞬間、違和感を感じ。
「――って、あれ――?」
思わず声が出た。俺が自分自身の激情に気を取られた一瞬に、今の今まですぐそばで眠りこけていたはずの水無瀬りんがいなくなっているからだ。
まさかと思ってダンスフロアを覗くと。
「我が名はりん……ソロモン騎士、水無瀬りん……人類の安寧を見守り、叡智の光当たらぬ不条理を屠る者。“茨断ち”の天啓を戴きし女」
バーカウンターから千鳥足で歩み出た水無瀬りんが、吸血鬼たち全員の視線を集めていた。
しかし元ソロモン騎士はまともに立つこともできないないようで……いきなりその場にうずくまると、激しく嘔吐き始めた。かなりの量を吐いたらしい。
おい――ちょっと待て酔っ払い。
俺は真っ先に自身の右手付近に視線を落とす。すると、人間の左手を組み合わせた箱が浮かんでいる。『デモンズクラフトの箱』が発現していた。
――――
即座に五枚のカードを抜き取る。
最高速度で手札を把握すれば、“燃え盛る聖女レディ・フランメ”がいたので迷わず召喚した。召喚条件の手札二枚破棄は適当だ。カードを選んでいる時間はなかった。
直後、広いダンスフロアに吹き上がる業火。
金髪女性をくくりつけたまま水無瀬りんと吸血鬼の間に立ち上がる十字架。
それと同時に俺はバーカウンターから飛び出していた。
吸血鬼たちが“燃え盛る聖女レディ・フランメ”に気を取られている隙に、水無瀬りんを横から抱き上げて出入り口へと走った。
全力タックルで水無瀬りんの身体をさらったせいか、「気持ぢわる――」彼女の吐瀉物が俺の頭と背中を濡らすが――この際かまうものか。
ひたすら逃げの一手を貫き、吸血鬼たちにも振り返らなかった。
あれは俺が相手すべき存在ではない。
弄ばれて喰われた犠牲者と不憫な幼女のことを考えると虫唾が走るが、それでもやはり悪の吸血鬼は正義の吸血鬼に倒されるべきだろう。
俺も勤め人だ。職場の上位組織の決定に刃向かい、義憤だけを頼りに悪党一〇〇人皆殺しにするほど若くないし、浅慮の結果ソロモン騎士団とアルメイア王国騎士団の間にどんな外交問題が噴出するかも知れないのだから。
そして、なにより――命は惜しい。
こうして“燃え盛る聖女レディ・フランメ”を召喚していても、吸血鬼たちの眼前に身を晒す恐怖に腰が抜けそうだった。あの死体の山を見てしまったから、なおさらだ。
二重扉を抜け、地上に出る階段を駆け上がる。
片手でスマートフォンの画面を叩いた。
恋人たちで混雑する渋谷道玄坂の路上を水無瀬りんを抱えたまま走り抜け――――俺は耳に押し当てたスマートフォンに叫ぶのである。
「和泉です! 刀根さん助けてください!」
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