救世の宮
美しい夕焼けが始まろうとしていた。
秋晴れの土曜日、その午後四時過ぎ――俺は、石造りの階段にぼんやり腰掛けている。
――――――
今朝は七時三〇分に妙高院静佳に起こされた。彼女はコンビニで買ってきたらしい朝食を広げて、俺のためにドリップコーヒーを淹れてくれた。かなり苦いコーヒーだった。
それからはずっと車の中だ。妙高院静佳に指定された『聖域』を目指して、ひたすらアクセルを踏んだ。助手席の妙高院静佳は大体眠りこけていた。
町を離れ、山間の集落を抜け、木漏れ日の山道を走ること数時間――古ぼけたトンネルを抜けた瞬間、突如として、その光景は現れた。
荘厳なる大神殿群。
見たこともない様式の神殿が、山の中に立ち並んでいたのだ。平らな場所はもちろん、急峻な山肌のあちこちにも円柱状の石造建築が見えた。
神殿は、箱形の底部に細めの円柱が乗った形状。円柱の半分を囲うように、底部から壁が高くせり上がっている。細かな造形の差はあるが、どれも似たようなシルエットと巨大さだった。
一〇……二〇……とても数え切れない。いったい何棟あるのか……。
尋常ではない光景に息を呑む俺に、「ふぅん……やっぱり、見えるんだ」と妙高院静佳。
「笑えますね、こんな簡単に隠匿魔法が看破されるんだから。さすがは魔王様」
車は神殿の足下を縫うように進んで、やがて中央神殿に至った。
中央神殿は他の神殿と趣がかなり異なる様子。
どことなくギリシア建築っぽいのだが、馬鹿でかい石造の虹を背負っていたのだ。むしろ、虹のモニュメントの真下に神殿を造ったというべきかもしれない。
午後三時二五分。抜けるような青空。光輝く白い雲。
車を降りた俺は、この場の静けさに息を呑む。視界を埋め尽くした神殿群――今さらながらに、こんなものを造ってしまうソロモン騎士団を心底おそろしいと思った。
妙高院静佳は思い切り伸びをしてから。
「それじゃあ聖域を起動してきます。いい子で待っててくださいね」
そう言って中央神殿の奥に消えてしまった。
残された俺はというと……手持ち無沙汰ではあるが、得体の知れない神殿群を見て回る度胸もない。中央神殿に上がるための階段の端に腰を下ろしてから、スーツのポケットに手を入れた。
デモンズクラフトのデッキを取り出すと、カードを一枚一枚眺めて時間を潰すことにする。
――――――
「ん?」
そして、カードをめくる俺の手が止まったのは、一枚のカードに気を取られたためだった。
――切り札――
神々しい姿形。大仰なカード名。誤植を疑ってしまうほどの攻撃力と防御力。ゲームを壊しかねないド派手な特殊能力。チート能力に比例した厳しすぎる召喚条件。
“光亡の剣 冴月晶”ではない。あれは使いやすいカードだが、切り札と呼べる性能ではなかった。ゲームの序盤から中盤で輝くタイプだ。一方の『こいつ』は、終盤も終盤、最終局面でしか使い道がない。だが、召喚に成功してしまえば、ゲームエンドまでまっしぐらだ。
「……捨て札除外で……無効……」
俺は、頭のおかしい効果テキストを何度も読み返す。
「効果対象が限定されてない…………捨て札がある限り、なんでもいいってことか……」
瞬間――「あ」――天啓にうたれた。
グチャグチャにもつれた紐が一気にほどけた気がした。「……そうか……」と見上げた夕空があまりにも美しくて、心臓が強く強く脈を打つ。
「そうか」
湧き上がる興奮に力一杯拳を握った。
妙高院静佳に『このこと』を早く伝えたかったが――俺の足を止めたのは、突如として光を帯び始めた大神殿群だった。
奇妙な形の神殿たちが青白い光を放ち始めたのだ。夕焼けの赤と混ざり合って、不気味な紫色があたり一面に広がっていく。超自然的な光景に身がすくむ思いだった。
……これか……? これが『聖域の起動』っていう奴か……?
俺は、その場に突っ立って事の成り行きを見守るしかない。
やがて……なんだあれ? と思って目を凝らした。
紫色が深くなっていくにつれて、俺の前に広がる世界が滲み始めているように見えた。まるで、すべてが陽炎であるかのように、景色の輪郭がぼやけていく。
眉にしわを寄せて、更に目を凝らした。陽炎の向こうに別の景色が見えた気がしたからだ。
「ひし形?」
そうだ。俺は――陽炎の向こうに、宙に浮かぶひし形の群れを見ていた。
ゆっくりと時間が進む。元々の世界がゆっくりと陽炎に溶けていく。
『聖域』とやらの中に引きずり込まれたのだと確信したのは、あかね色だったはずの空が完全に蒼さを取り戻した時だった。美しい青空を気味が悪いと思ったのは初めてのことだった。
凄い。昨日、高杉・マリア=マルギッドたちが俺に使った結界よりも大仰な気がした。
さっきまで俺が見ていた現実は、陽炎と共に薄れて、跡形もなく消えてしまった。背後にあったはずの巨大な中央神殿さえもだ。
そして、俺の前に現れた広大な異世界――それは地平線まで続く荒野。
ここが地球のどこかでないことはすぐにわかった。
地球ならば天空に島が浮かんでいるはずがない。そんな自然現象が許されるわけがない。
地上は見渡す限り灰色の岩ばかりだ。ところどころにオベリスクのような建造物が見える以外は、実にさみしいもの。草木の一本だって生えていなかった。
その代わり、空はごちゃごちゃと騒がしい。
まず一番上層に見慣れた雲があり、その下には幾らかの島が浮いている。大きいものは何百メートルとあるようだが、多くは直径数十メートル級の岩の塊だった。どこか自然豊かな場所から流れてきたのか、島は、深い緑に覆われていた。大樹を生やした島もある。
島群は一様に同じ高さを流れていて、更にその下層では、明らかに人工物と思わしき『赤銅色のひし形――正八面体』がずらりと並んでいた。正八面体が浮かぶ高度は一〇〇メートルぐらいだろう。陽光を反射しているからおそらくは金属製。
不意に、大きな島が俺に影を落とした。
呆然と立ちすくむ俺。
ソロモン騎士団の聖域――その形容しがたい異世界の様相に圧倒されていた。
そして。
「………………静佳さん…………?」
そして、妙高院静佳は遠くからやってきた。
かすかに見えた人影。俺は初め、こちらにやってくるそれが、妙高院静佳だとは気付かなかった。
橙色に揺らいでいたからだ。轟々と炎が立ち上っているように見えたからだ。
まさか妙高院静佳が、本当に炎に包まれながら俺の元に歩いてくるとは思いもしなかった。
「静佳さん……」
妙高院静佳の服が燃え落ちる。赤色が白い肌を包み込む。
いつものように棒付きキャンディをくわえた彼女。俺の前に到着した時には、すでに丸裸だった。炎は彼女の肌を焼いておらず、俺の視線を彼女が気にすることもない。
「それじゃあ、始めましょうか」
言葉が出なかった。橙色の光だけをまとう極上の裸体に、ではない。妙高院静佳の冷たい顔に、俺は言葉が出なかった。無理矢理に唾を呑み込んでこう言った。
「……それじゃあって……火、大丈夫なんですか? それに、裸……」
「ご心配なく。これから死にゆくあなたに見られて不快に思うほど、狭量な女じゃありませんから」
突き放すような妙高院静佳の態度。俺は、あああぁ……と頭を抱えたかった。
「た、助けてくれるはずでは……?」
弱々しい問いかけ。
妙高院静佳の裏切りを悟った俺の顔がどれだけ情けなかったのか……。
「あっは! まさか本当にあたしを信用していたわけじゃあないでしょうに!」
彼女は真顔を維持できずに、本気で吹き出してしまう。
こういう展開――味方だと思っていた妙高院静佳が敵になるという展開を予想していなかったわけではない。だから俺は、昨晩、彼女にデッキを見せることをためらったのだ。
もう三四歳だ。
社会に出た後は辛いことばかりだった。だから当然知っている。旨い話が俺なんかに回ってくるわけがないと。この世は、甘言、威迫を弄す輩ばかりだということを。
それでも。
それでも俺は――それを知っていて、妙高院静佳に頼るしかなかった。
妙高院静佳なら本当に俺を助けてくれるんじゃないか――そう思い込むしかなかったのだ。
声が震える。
「……だったら……どうしてわざわざこんな所まで。私を殺すなら、別に昨日の夜だって……」
すると妙高院静佳は「はあ?」と顎を持ち上げて、冷たく俺を見下ろした。
「ただ殺すだけなら、あたしが出る必要ないじゃん。誰か綺麗所でもけしかけて、首を落とすって。童貞つっても勃たないわけじゃないし、ヤッてる最中は無防備なんだから」
熱を感じた。肌を焼くヒリヒリとした熱さに、俺は一歩後ずさる。
熱源が何であるかは考える必要がない。
「媚びを知らない潔癖症たちは、馬鹿正直に戦って無様に負けたけどさぁ」
見れば、妙高院静佳がまとう炎が色を変えていた。明るい橙色から眩しい純白へと。炎の温度が上がった証拠だ。彼女を見つめる眼球が熱気にやられて涙ぐむほどだった。
白い炎が更に火力を増す。いよいよ妙高院静佳の全身を包み込み――しかし、彼女が右手を大きく振った瞬間、閃光となって消えてしまった。
………………。
おそるおそるまぶたを上げた俺は。
「……う、ぉ…………」
眼前の美しさに息を呑む。
純白の戦乙女が、氷像のごとく凜と直立していたのだ。
白のハイレグレオタード、白ストッキングという扇情的な衣装に、大きな襟の付いたボレロを羽織っていた。金糸による縁取りが実に見事だ。
シンプルな胴体とは対照的に、妙高院静佳の四肢は光り輝く重装甲に包まれている。
白光を柔らかく反射する手甲、脚甲――鋭く光る銀ではない。プラチナだろうか。大きく広がった意匠は、どこか天使の翼に似ていた。
「和泉慎平――人類史上初めて魔王に触れた男。こんな僥倖、普通に始末したらもったいないって思いません?」
そして、流星。
何か大きな物体が俺と妙高院静佳の間に落ちてきた。岩の地面を深く砕いて、墓標のように突き刺さった。赤銅色に光る細長い金属に、俺はうめく。
「……杖……?」
杖らしき物体は妙高院静佳の背丈ほどもあった。
赤銅色の金属を適当に叩き延ばし、なすがままに形を付けた奇妙なそれ。俺はそれをジッと見つめ――天高く燃え上がる炎のようだ――と思った。
当たり前のように杖を取った妙高院静佳の姿を、『炎を手にした天使』のようだと思った。
「あたしはねぇ、魔王を知りたいんです。どうせいつかは戦うことになる化け物。木っ端のあなたからでも彼の力の一端を知ることができたら、人類のためになるじゃないですか」
精緻な鉄板に包まれた指が俺に向いた。
いつのまにか俺の右手付近に現れていた『デモンズクラフトの箱』を指差して、妙高院静佳は静かに微笑む。
「つまりは、なぶり殺すから必死に抵抗してくれ――ということですよ」
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