安宿の乙女二人

「へえ、結構まともな部屋じゃないですか」


 午後五時過ぎ、地方のビジネスホテルにチェックインした俺を待っていたのは、二つ並んだベッドだった。……まさかツインルームに入ることになろうとは……。


「外見ボロボロだったから心配だったんですよねー」

 綺麗に整えられた室内を、妙高院静佳が物珍しそうに見回している。

「……テレビが付かない。このリモコンどう使うのかしら?」


 一日中車を飛ばした結果、俺たちは聞いたこともない山間の町に到着した。目的地はまだ先らしいが、今日はこの辺りで宿を取ろうと、町唯一のホテルに入ったのだ。


 正体を隠しているとはいえ、それでも妙高院静佳は目立つらしい。フロントでは少しだけ怪訝な顔を向けられた。援助交際と思われたかもしれない。


 初めはシングルルームを二つ取るつもりだった。しかし、妙高院静佳が『なに言ってんのよお兄ちゃん。ツインの方が安いじゃない』と勝手にツインルームを取ってしまったのだ。


「夕食はどうします? お店探しましょうか? あたしはコンビニでも構いませんけど」


 あの妙高院静佳と同部屋……なんて恐れ多い事態だ。全世界を席巻する彼女のファンのことを考えると命が縮む思いがした。こんなことが知られたら確実に刺される。エロいことなんて絶対に起こり得ないのに……。


「えっと……コンビニ行ってきます。リクエストがあれば」

「コーラぁ。コーラ買ってきてください。炭酸強い奴ー。あと飴ー」


 人目を嫌った俺は近くのコンビニで適当に買い込み。

「ただ今戻りました」

「はーい。おかえりなさーい」

 部屋に戻ると、ベッドに腰掛けた妙高院静佳が夕方のニュースを眺めていた。


 米国の空爆でテロリストの基地が壊滅したという血生臭い話題だ。死傷者も多数出たらしい。しかし、妙高院静佳は薄笑い浮かべて「平和ですよねぇ」と言うのだった。


 俺は壁際の机の上に、弁当、飲み物、お菓子やらを広げていく。


「ソロモン騎士さんはこういうのには関わらないんです?」

「人間同士が殺し合えるのは、世界が健全な証拠ですよ。あたしたちは常識が通用しないものを正しく潰していくだけ。それだけです」


 それから俺は、妙高院静佳に促されて、俺の身に起こったすべてを語り始めた。


 あの美少年と初めて出会った夜のこと。

 押し切られるように積み重ねていった美少年との対戦。

 思い出したくもない悪霊との遭遇、そして俺を救ってくれた冴月晶の活躍。

 デモンズクラフトというカードゲームの登場。

 ほとんど記憶が残っていない昨晩と、俺の人生が一変してしまった今朝のこと。

 最後に、カードにされてしまった冴月晶について。


 とりとめのない俺の話を、妙高院静佳は弁当を食べながら聞いていた。ふんふんとうなずいてコーラを飲んだ。

「カードゲームを現実に再現する呪い、ねえ。またまどろっこしいことを」


 俺の方はというと、弁当を前にして箸が動かない。空腹だと理解はしているが、食欲が湧いてくれないのだ。スポーツドリンクで腹の虫をごまかした。


 テレビはCMを流している。国産セダン車の宣伝が入った。深紅のドレスを着た冴月晶が舞踏し、最後の最後に夕焼けの海岸線を走る車が映る。いまいち意味はわからないけど、抜群に美しい映像だった。赤ドレスの冴月晶はさながら車の妖精か。


 ぼんやりベッドに腰掛けていた俺。不意の衝撃でベッドに押し倒された。何事かと思った。


 そして俺は、何が起こったのかを確認し、改めてギョッとする。

「ねえ。デッキって言うんですっけ? カード見せてもらえます?」

 妙高院静佳が馬乗りになって、俺の腹の上で妖しい笑みを浮かべていたのだ。生々しい重さだ。お尻の弾力どころか、肌の熱さまで感じ取れる気がした。


「え? え? な、なんです?」

「だからぁ、カードですよ。見せてください。今は少しでも情報が欲しいんですから」


 白々しく苦笑いした俺の身体を、妙高院静佳がまさぐり始めた。

 スーツの上から胸の内ポケットの感触を探り、ズボンのポケットにまで指を伸ばしてくる。

 放っておいたらパンツの中まで探られそうな気がしたので、「ちょっ――ちょっと! わかりましたっ! 出します! 出しますから!」速攻で降参した。


 このデモンズクラフトのデッキはただのカードじゃない。俺の命がかかっているのだ。だから、実を言うと、あまり見せたくはなかった……そんな場合じゃないことは知っているけれど。


 スーツの腰ポケットから黒いカード束を取り出す。マウントポジションを取られたままデッキを差し出した。


「どうも。ま、あたしが見ても、意味わかんないかもですけど」

 そしてカードを開いた妙高院静佳。


 ――――――――


 その瞬間、俺は『脚』を見た。


 黒い脚……いや、漆黒の脚甲に包まれた、見事な美脚。スラリと長いだけではない。適度に肉が付いた惚れ惚れするような脚だった。俺は、その脚を知っている。


「冴月さん!?」


 そうだ。あれは“光亡の剣 冴月晶”の脚だ。妙高院静佳が手にしていたカードから飛び出して、彼女の顔面に前蹴りをぶち込んだのだ。


 ゾッとした。あんな人外の前蹴り……喰らったら生きてはいられない。顔がなくなる。


「……あっぶな……」

 妙高院静佳の呟きが聞こえ、俺は「静佳さんっ!」と声を裏返した。

「あー、だいじょーぶですー。びっくりしただけ」

 よかった。首を曲げて間一髪避けている。最強の一角というのはダテではないらしい。


「和泉様のデッキを覗き見しようとする輩……」

 声が聞こえた。すると黒脚甲が動き、こじるように身体の残りがカードから出てくる。


「どんな不敬者かと思えば、静佳様でしたか」


 両腕を後ろ手に拘束された美少女悪魔――“光亡の剣 冴月晶”が、妙高院静佳の手の上に降臨した。右のつま先だけをデッキに乗せて、妙高院静佳を無表情に見下ろしている。


 マウントポジションの俺は、重力を無視する冴月晶のお尻を仰ぎ見ながら――“冥府喰らいのネビュロス”が出てこなくてよかった――そんなことを考えた。


「元気そうね」

「おかげさまで」

「カード見せてもらえる?」

「ダメです。和泉様がそれを心から許可しない限りは」

「固いわねぇ。この人はカードを出したじゃない」

「そうでしょうか? 女性に不慣れな男性を押し倒すのは、いささか誠実さに欠けると思いますが」

「ふぅん…………じゃあ死ぬ?」

「それはボクの台詞です」


 はい? この二人、何言ってんの? と耳を疑った俺である。いきなり一触即発? ちょっと待って。俺の腹の上で殺し合いなんか始めないで。


 沈黙。身震いしてしまうほどの冷たい沈黙。


 俺の位置からじゃあ、二人の表情は見えない。それでも、なんとなく、彼女らがどんな顔をして向かい合っているのかは想像できた。

 多分きっと、天使のような顔をしているのだろう。口元を自然に持ち上げたほがらかな笑顔。しかしその実、目の奥はまったく笑ってないのだ。まっすぐに相手を見つめ――悪魔にトドメを刺す天使みたいなおそろしい顔をしているはずだ。


 美少女同士の意地の張り合い、降りたのは妙高院静佳だった。

「やめよっか。別にカード見れても、あたしじゃよくわかんないし」

 冴月晶の立つカード束を俺の胸に置いたのだ。

「それより晶、あなたと話したいわ」


 棒付きキャンディを囓り出しながら、いつも通りの声色で問うた。

「魔王を見た? そもそも魔王って何だと思う?」

「偉大なる王です」

 するとカードから降りてベッドを踏んだ冴月晶。その瞬間、彼女は重さを取り戻したらしく、三人分の重さにベッドがきしんだ。「失礼します」と言ってから、俺の顔の上に座る。


 冴月晶が俺の顔面をまたいだかと思ったら、そのまま腰を下ろしたのだ。


「そうね……なら、質問を変えましょう。これまで魔王は悪魔の一種って予想されてきたわけだけど、結局そのとおりだったわけ?」

「道端の花一輪を指差して、これが大いなる宇宙すべてなのだと言い張るのならば」


 なにが起こったのかわからなかった。弾力のある人肌が顔に当たっている。咄嗟に顔を横にしたおかげで呼吸はできるが、混乱と緊張でそれどころではない。


「古神の類ならどう?」

「たかだか自然現象の擬神化が、あの方にふさわしい言葉だと、本気でお思いなのですか?」

「そう……なら、魔王は既知の存在ではないのね。騎士団の研究、何百年間分が無駄になったわね」


 いや、駄目だろ。この状況で息なんか吸ったら駄目だ。性的に昇天してしまう。

「ちょ――ちょっと、冴月さん……? ちょっと、どいてくれません……?」

 弱々しい俺の声。しかし冴月晶は身じろぎして股間を俺の顔に押し付けただけ。


 このままじゃ窒息すると思ったから、なるべく匂いを嗅がないように薄く口呼吸した。“光亡の剣 冴月晶”のエロ衣装――黒ビキニ――だけを挟んで彼女に触れている。それを意識すると血が燃えた。意識しないというのは無理だ。俺だって男なのだ。


「ところで、あなたは冴月晶なのよね? どういうことになってるの?」


 冴月晶の脇腹を掴んでどけようとする。しかし――彼女は俺の指に「あんっ」と吐息を吐いただけで、まったく動いてくれない。まるで人肌の巨岩だった。


「どういうこともなにも、見てのとおりです。人の身を変質させ、偉大なる王と和泉様に忠誠を誓った女」

「ソロモン騎士ではあるのかしら?」

「もはや教義は捨てました。永い永い責め苦の中で、冴月晶という剣は砕けたのです」

「……あなたが消息を絶って、まだ一日と経ってないのだけれどね」

 妙高院静佳の呆れ声に深いため息を吐いた冴月晶。


 直後――腹のあたりが軽くなった。


 多分、回し蹴り……冴月晶が妙高院静佳に攻撃を仕掛け、妙高院静佳が抜群の反射神経で飛びすさったのだろう。


「ボクがどれだけ騎士団の助けを願ったかも知らないくせに」

 冴月晶の声はかすかに笑っていたが、俺が感じたのは静かな怒気だ。


「あらゆる時間、空間から隔絶された王城でボクが受けた陵辱……純潔を保ったまま子宮に烙印を施されるのは、なかなか鳥肌ものですよ?」

 それを聞いて、俺は心臓を凍らせる。突発的な極大ストレスに視界が消え、耳が遠くなって、喉が張り付いた。冴月晶の不幸は俺のせいだと思った。


「晶は――何をされたの?」


「およそ人類史には存在し得ない苦痛と恥辱を。どれほど倒錯した暴君でも、実現不可能な、悪逆非道を」

 そう苦笑しながら、俺の顔から立ち上がる冴月晶。いつの間にか俺の胸からずり落ちていたカードたちを魔法で空中に浮かせ、一カ所にまとめたそれを口にくわえた。


 俺もよろよろと身体を起こす。罪悪感で身体の使い方を忘れそうだった。


 冴月晶が俺の隣にひざまずいたので何事か思ったら――口にくわえたデッキをスーツの胸ポケットに入れてくれた。両腕が拘束されているから口を使うしかないのだろうが、愛玩動物みたいな所作だった。……嬉しくはない……ただただ申し訳なかった。胃が痛い。


「ソロモン騎士とあろうものが、戦って死ななかったんだ」

「死にましたよ、何度も。一矢報いることができればとあがき――そのたびに命を弄ばれたのです。獣に喰い荒らされ、串刺しにされ……もう許してくださいと懇願しても、何度も何度も、踏みにじられたのです。抵抗する気力を失った後は、もっぱら、この世ならざる快楽を」


 ああああ……なんてことだ……。

 俺が、この人に憧れていたばかりに……俺が、魔王なんざに勝ってしまったばかりに……。


「やがて偉大なる王は、ボクの身体を造り替えられました。細胞の一つ一つを丹念に堕天させ、一切の穢れを許さず、“光亡の剣 冴月晶”という名をお恵みくださった」


 立ち上がった冴月晶。まるで新しく買った洋服を見せびらかすみたいに、ベッドの上でくるりと回った。

「いかがです? 生まれ変わったボクは」


 妙高院静佳はこめかみを押さえて、ため息混じりの声を絞り出す。

「ヘドが出るわね。それで今はカードになって、和泉さんのシモベってわけだ」


 そりゃあそうだ。妙高院静佳から見れば、俺の側に付くってことはソロモン騎士団への背信だろうから。簡単に納得できるはずがない。


 しかし冴月晶は、鼻で笑って妙高院静佳を挑発した。

「ボクを救ってくださったのは騎士団の教義ではありません。和泉様です」

 うやうやしく俺の懐に潜り込むと、もぞもぞ動いて猫みたいに丸くなってしまった。


「ちょ、ちょっと――冴月さん……」

 困ったように視線を落としたら――冴月晶の紫の瞳とまっすぐ目が合う。


「どうせ人でいられなくなるのなら、せめて上手く使ってもらいたい。ボクという存在を使い尽くしてもらいたい。だからボクは、和泉慎平様を愛し、敬うのです。この人なら、“光亡の剣 冴月晶”をちゃんと使ってくれるって知っていますから」


 深い紫色から目が離せなかった。冴月晶がゆっくりゆっくりまばたきした。


「ボクは、涙をこぼしながら、ずっとそれだけを考えていました」


 俺は何も言えない。何か言葉をつくろうとしても、すべて安っぽい慰めになる気がして、音にすることができなかった。


 そして――不意に、だ。

「まあ、仕方がないわね。今さらどうでもいいや」

 えっ? と思って顔を上げると、妙高院静佳が白シャツのボタンを外しているところだった。


「お風呂入ってきまーす。のぞいたらブチのめしますのでー」


 彼女のベッドに白シャツが放られ、黒いインナーに包まれた背中が現れる。ほどよく鍛えられた背中越しに乳房の形が見えた。世間一般的にも、妙高院静佳はかなりの巨乳だ。


「晶を失ったのは痛手ですが……まあ、魔王が相手ですしね……あっ、風呂上がりに童貞と悪魔のセックスなんて見たくないんで、セックスするなら他所でお願いしますね」

「やりませんよ! アイドルが何言ってんですか!?」


「――晶」


「はい、なんでしょう?」

「軍門に下ったとはいえ、あなたは魔王と戦ったただ一人のソロモン騎士……なんでもいいわ、助言をもらえる? 和泉さんを助けるための」

「……静佳様も、偉大なる王と戦うのですね。勝利するつもりなのですか?」

「そりゃあ負けたくはないわね。晶と同じ、裸みたいな格好……そういう格好をさせられるのは、すごく恥ずかしいから」

「……でしたら一つだけ」

「助かるわ」

「和泉様をあまりあなどらないことです。ソロモン騎士団がどれだけこの方の経歴を洗おうとも、見えない実力もあるのですから」

「あはっ――なにそれ。意味わかんない」

 話にならないと笑った妙高院静佳がバスルームへと消える。


 すると、それを見届けた冴月晶がゆっくり俺から離れ、ベッドの上でうやうやしく片膝をついた。深く深く頭を下げる。


「それでは、ボクはこれで失礼します」

「あっ、はい――あの、もしかして私のデッキを守るためだけに……?」

「はい。優秀なシモベですから。できればこのまま一晩お守りしたいのですが……あまり長い時間顕現して、和泉様のお身体に障ってもいけませんし……ボクはもはやこの世ならざる者。仕方がありませんね。デッキの中からいつも見守っております」

「……すみません……」

「……和泉様……?」

「……すみません……色々と。本当に、どうお詫びしたらいいか……」

「大丈夫。いいんです」

「……俺、なんでこんな……こんなこと、一度だって望んじゃいないのに……っ」

「……和泉様。新しいボクはいかがですか?」

「え?」

「カードです。カードになったボクは、どうでしたか?」

「え? えーと……」

「教えてください。和泉様から見た“光亡の剣 冴月晶”は、どんなカードだったのか」

「そ、そりゃあ……そうですね……上手く調整された、いいカードだなぁ、とは。攻守にバランスが取れてるっていうか」

「でしたらよかったです。ボクはあなた様のカード、また使ってください」


 悪魔・冴月晶の優しい微笑み。


 気付けば彼女の背後に『両開きの扉』があり、現れたのは巨大な手だった。

 白い手袋に包まれたとてつもなく大きな左手……まるで人形を握る子供みたいな乱暴さで、冴月晶を扉の中へとさらっていってしまった。

 別れの言葉を伝える暇すらない。


 ただ一人残された俺は、しばらくの間呆然として動けず、バスルームから聞こえてくる水音にじっと耳を澄ました。


 やがてナマケモノ程度の速度でゆっくりうずくまる。最終的に、ひたいをベッドに擦り付けて、そのままの姿勢で眠ってしまった。ひどく疲れていたのだ。


 とてもとても、疲れていたのだ。

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