敬虔なる凡夫へ

「ただいま戻りました、偉大なる王」


 漆黒の脚甲が緑の地面を踏んだ。

 さぁっと抜けていった風が銀髪の前髪を揺らす。


 そして、大いなる超越者は――和泉慎平と妙高院静佳が戦う異世界――その空を遊ぶ何百という浮島の一つに悠然と存在していた。


「はーい。おかえりー」


 乾いた草の上であぐらを組んだ褐色美少年。膝の上で頬杖を突いて、帰ってきた美少女悪魔をニヤニヤと眺めた。

「で、どうだった? かつてのお仲間に倒された感想は?」


 しかし“光亡の剣 冴月晶”は実に涼しい顔で答えるのだった。

「特段の感情はありません。ボクを殺され慣らしたのは、偉大なる王でございましょうに」

 そのまま少年の前まで進み出て、綺麗な所作で正座する。


「ボクの手札覗いてませんよね?」

「はあ? この僕を疑うとは不遜な下僕だねぇ。ズルなんかしないよ。僕ってそういうとこは凄く誠実なんだぜ? ほら、晶のターンだ。逆転してみなよ」


 二人の間にはワイズマンズクラフトのカードが並んでいた。

 両腕を拘束されたままの冴月晶だが、念動力のような魔法を用いてカードを操ってみせる。


「それでは、七コスト払って“粛正の大天使ウルスラ”を召喚いたします」

 宙に浮いた冴月晶の手札の一枚が、草の上に投げられた。


 その瞬間、少年の目の色が変わった。牙を剥いて笑う。

「へえ――この僕のデッキをメタってきたわけだ。下僕のクセに、生意気な」

「お褒めいただき光栄でございます。それでは、偉大なる王、フィールドを空にしてくださいますか? 悪魔と魔神はすべて破壊です」

「ぐぬぬ……見てなよ、次のターン、ひどい目に遭わせてやるから」


 人外のカードゲーマーが地球産のトレーディングカードゲームに興じている間にも、和泉慎平の生存のための戦いは続いていた。

 ふと――冴月晶と少年が座る浮島のすぐ隣を強烈な炎が吹き上がっていった。和泉慎平のマジックカード“氾濫する焔”だ。


 炎を見送った冴月晶が、なんとはなしに言った。

「和泉様は大丈夫でしょうか?」


 自身の手札を睨みながら少年が答えた。

「さあね。彼が勝てば生き延びるだろうし、負ければ死ぬでしょ」


「……静佳様が相手では、かなり分が悪いでしょうね……」

「頼みのお前もやられちゃったしね。まあ、僕の予想よりはだいぶがんばったけどさ」

「お救いにならないのですか?」

「なんで?」

「あの方を気に入っているのでしょう? このまま殺されてしまえば、もうカードゲームもできません。それは、ボクも悲しいと思います」


 静かに響いた冴月晶の声。

 少年がカードを一枚ドローする。新しい手札を確認して、小さくため息を吐いた。珍しくカードの引きがいまいちだったらしい。無言でカードを並べ、冴月晶を見た。


「晶」


 少年の表情は、達観した微笑みだ。それはどこか、我が子を愛する優しい母のようであり、子供たちを見守る力強い父のようでもあった。


「もっとお前の使い手を信じてあげなよ。大丈夫、和泉慎平は意外としたたかな男さ」


 草の上に手札を置くと、あぐらを崩して仰向けに寝転がった。

「フルボッコにされているように見えて、生意気にも逆転の準備を進めている。その時が来るのを必死に待っている。そのまま押し切られる時もあるけれど……今回は、どうかな」


 大きく伸びをした少年。すがすがしい草の香りに鼻を鳴らし、小さなあくびを一つ。


 冴月晶は正座を崩さない。まっすぐに背筋を正したまま問うた。

「どうしてあのような方を選んだのですか? 和泉様に好意を持つボクが言うのもなんですが、あの人は取るに足らない人間です。普通の、どこにでもいる」


「…………普通、か……」

 答えはすぐに返ってこない。しかし冴月晶がそれを催促することはなかった。


 穏やかな風が吹く。

 遙か天空から光槍の群れが降り注ぐのが見えた。妙高院静佳の魔法だろう。


 やがて少年が小さく呟いた。

「少し、いいかな――って思ったんだ」

 力のこもらないその声は、すぐさま風にまぎれてしまって、冴月晶以外には届かない。


「確かに、和泉慎平の人生には華なんてないよ。生まれは平凡で、賞賛されるような才能もなく、未来に期待できる時間も終わってしまった。かといって、異世界に召喚されて、一から人生をやり直せる機会が与えられるわけでもない。普通に生まれて、普通に苦しんで、何を残せたのかわからないままぼんやりと死んでいく」


 草が揺れる。音もなく浮島は流れていく。


「毎日必死に働いて、自分自身を磨り減らしているのに、たいして報われることもない……そんな取るに足らない凡夫の人生――」


 冴月晶は、伏し目がちになって少年の言葉に耳を澄ませていた。


「でも……そんな男のために、この僕が祈ってやってもいいかなって思ったんだ」


 不意に、寝転がったままの少年が大空へと手を伸ばした。

「彼に幸あれと」

 少年は、降り注ぐ陽光をまばたきもせずに見つめている。超然とした笑みを浮かべていた。


「光あれ、と――」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る