冬の夜に来たる

 今の住まいは職場から車で一五分。


 今日はやはり残業となった。尋常じゃない枚数の請求書を処理していたせいで盛大に日をまたいでしまったのだ。


 終電を逃した俺は、タクシーを使って這う這うの体で自宅に辿り着く。

 ここまで遅くなった日はいつも事務所に泊まり込むのだが、今日は特別だ。なにせ何時間か後には冴月晶とのカードショップ巡りが控えている。始発を待つよりは無理矢理にでも帰宅すべきと判断したのだった。


「ほい。四〇円のお釣りと領収書ね。遅くまでご苦労さん」


 愛想のいいタクシーから降りた俺は、一二月の寒さにコートの襟首をかき集めながらマンションのエントランスに入った。


 単身者用マンションの九階――アイドル事務所サウスクイーンが借り上げてくれた1DKが今の住み処だ。


 エレベーターを待つ間、さっきのタクシー代の取り扱いを考える。

 とりあえず領収書は切ってもらったからタクシー利用報告をすれば次の給料日には返ってくるが……その報告を処理して給料に反映させるのは俺自身なんだよなぁ……。

 自分の仕事を増やすぐらいなら二〇〇〇円ちょっとぐらい……と、俺はポケットに入れた領収書を握り潰すことにした。


 思いっきり深夜だ。近所迷惑にならぬよう玄関ドアを静かに開閉して、鍵のサムターンもそっと回す。


 室内はどこもかしこも冷え切っていて、蛍光灯が俺の白い息を照らした。


「さむ……」


 中年男の一人暮らしにしては意外と片付いている室内。

 冴月晶がちょくちょく遊びに来たり、魔王の奴が勝手に入り込んだりするから、できるだけ綺麗にしているのだ。水回り、特にトイレの掃除は入念に行っている。


 一〇畳の寝室に入るやいなや、エアコンを付けて、電気こたつのスイッチを入れた。

 コートとスーツの上下をハンガーに掛けると、ワイシャツの上から部屋着を被る。上着を羽織れば家モードへの移行は完了だ。


「……なんか、食うもの……」


 間食もせずに残業に励んだせいで俺の空腹はもう限界。こたつに足を滑り込ませる前に冷蔵庫を覗いた。

 作り置き料理の入ったタッパーの数々が神の祝福に思える。


 かぼちゃの煮物やら、じゃがいも大きめの肉じゃかやら、きんぴらごぼうやら、ピーマンの肉詰めやら、手作りのチーズケーキやら――俺が作ったものではない。俺に料理の心得はない。せいぜい肉と野菜を炒めてソースで味付けすることぐらいしかできない。

 これらはすべて、一昨日遊びに来た冴月晶に渡されたものだ。ともすればカップラーメンで夕食を済ませてしまう俺を心配して、ちょくちょく手料理を持ってきてくれるのだった。


「一五歳のアイドルに、食生活を心配される――か」

 自嘲気味に独り言ち、皿に料理を移していく。

 かぼちゃの煮物も肉じゃがもピーマンの肉詰めも、皿に載せた量はかなり少なめだ。禁断とも言える就寝直前の食事……中年男の胃腸に無理は禁物。

 レンジで軽く加熱して、こたつの上に並べた。


 こたつに入り込み、背中を丸め、テレビのチャンネルに手を伸ばしたら。

『私のペットになりなさい。逆らうことは許さないわ』

 液晶画面の中で、絶世の美少女――妙高院静佳が妖しく舌なめずりしていた。


 何かと思えば本日封切りの恋愛映画の宣伝番組だった。

 タイトルは『僕と会長』。気弱な男子高校生が妖しくも美しい生徒会長に見初められるという人気漫画、その実写映画化だ。


 映画の前評判は実に好調。特に、実写キャストが発表された時の衝撃は凄かった。

 漫画の実写化は不平不満が噴出するのが世の常だが……この映画の場合、妙高院静佳に罵倒されたり甘やかされたい人がネットに溢れ返ったのだ。

 長い黒髪、切れ長の双眸、この世のものとは思えぬ美貌と、メインヒロインである生徒会長のビジュアルが妙高院静佳を彷彿とさせるものだったのも大きい。


「原作再現度すげぇな」


 かぼちゃの煮物を噛みながら、俺は思わず苦笑していた。

 笑ってしまうほど似合いすぎている。そのうえ俺は、男子高校生の頭を踏んで愉悦に浸る妙高院静佳の仕草がすべて演技じゃないことも知っているし……むしろあれが地の性格だ。


「……妙高院、静佳ねぇ……」


 そんな日本最強の魔法少女は、今頃どこぞの悪魔崇拝組織を壊滅させていることだろう。

 今日のトレーニング中、悠木悠里が教えてくれた。

 古い魔剣に封印されていた悪魔が復活したらしく、復活の儀式を行った地下組織を悪魔もろとも滅ぼすため“聖痕の獣”妙高院静佳が派遣された――と。


 ブブブッ。

 その時、不意にスマートフォンが震えて、俺はメールの到着を知る。


「こんな夜中に?」

 誰だ? と思ってスマートフォンをつつくと…………差出人は妙高院静佳。


『来週こそ殺す』

 絵文字もない、ただそれだけの文章が送られてきていた。


 俺は不快に思うでもなく――今、任務が終わったのか。こんな遅くまで大変だな……スマートフォンの画面に表示された時刻を見て、逆に感心するのだった。

 手早く『どうかご勘弁を』とだけ打って返信しておいた。


 妙高院静佳のこれはおやすみメールのようなものだ。俺が彼女に勝った日以来、時々、『明日は必ず殺す』みたいな内容のメールが深夜に届くことがある。

 何が目的かはよくわからないが、執着されていることだけは確かだろう。


 次の瞬間、またスマートフォンが震えた。妙高院静佳から二通目のメールが届いたのだ。


『まだ起きてるのか。早く寝ろ』


 俺はテレビに映る妙高院静佳のセーラー服姿を眺めながら、ピーマンの肉詰めを口に運ぶ。


 一人さびしい食事はあっという間に終わり……俺はもう動けなかった。

 空の食器をこたつの上に置いたままその場に突っ伏し、ウトウトし始めた。

 まるで気絶のような入眠。


 ――夢を見ることはなかった。


 ――――――――――

 ――――――――――


「……う、お?」


 そして俺は不意に目を覚ます。

 何か……巨大な獣に頭を甘噛みされたような気がしたからだ。


 変な態勢で寝たせいかすぐには首が回らない。首筋がつらないように慎重に顔を回した。


 そして。

「……はい?」

 まじまじと見てしまう。

 部屋の壁から、怪獣のように馬鹿でかい黒犬が首を伸ばしているのを。

 真っ赤な舌と三列に並んだ異形の乱杭歯が俺の前に広がっているのを。

 長さ二メートルを超える頭部。ティラノサウルスよりも遥かに巨大な犬が、目の前で大口を開けているのだ。


「なっ――なに!? なになになにっ!?」


 近所迷惑も構わずこたつから飛び退いた。

 巨大な犬の首が伸びる壁とは逆側の壁に張り付いて胸を押さえる。寝起きに驚きすぎて心臓がおかしくなった気がした。


 心臓の鼓動を痛いと感じながら、一つ、二つ、三つ呼吸。

 そして、この辺りで俺はこの黒犬が何であるかに気付き始める。もしもこれが人喰いの化け物であるならば、今の十何秒かで俺は噛み千切られているだろうから……。


「あのう。もしかして、あなた……魔王の関係者?」


 するとバスケットボールのような大きな眼がゆっくりまばたきした。

 そしてもう一度、俺に見せつけるように口を開く。


 神様さえ殺せそうな禍々しい牙がびっしりと並ぶ口内。

「こ、これを……受け取ればいいのかな?」

 その牙の一つに花柄の巾着袋が引っかかっていた。


 恐る恐る腕を伸ばす。

 頼むから口を閉じないでくれよと祈りつつ、袋のひもを牙から外した。


 巾着袋の中にはシンプルなカードケースが一つだ。

 不気味なほど裏面が真っ黒なカード――デモンズクラフトのカードが七種三枚ずつ、合計二一枚入っていた。


「……もしかして新しいカードを届けに?」

 黒犬がグルルルと唸る。

「そ、そう。いつもはあいつが直接持ってくるのに……こんな夜更けに、どうも」


 壁掛け時計を見れば午前三時四五分を回ったところ。


 俺がカードを受け取っても黒犬の首が帰ってくれないので、手の中でカードを広げて効果を確認することにした。


「“神々の夜”? なんだ、このマジックカード……発動条件がおかしい。ダイスを三つ振って全部一だった場合発動って…………二一六分の一かよ。無条件で相手のモンスターを破壊して、ライフポイントを四つ持っていくのは強力だが……」

 こんなカードを使えるのは異常に運がいい魔王ぐらいだろう。

 少なくとも俺に扱えるカードではない。今後カードの種類が増えて、ダイス目操作系のカードやマジックカードを確定発動させるようなモンスターが登場するまでは、俺のデッキに入ることはないはずだ。

 ただ……いかにもあの魔王が好みそうなカードデザインだな、とは思った。


 もう一枚カードを見る。

「“命懸けの報復”。自分のモンスターを破壊することで、破壊したモンスターの攻撃力の二倍以内の防御力を持つ相手モンスターを一体破壊、か。発動も二分の一だし……これはいいな。ちょっと強すぎる気もするけど、悪くない」

 すぐにでも今のデッキに入れられる――そう思って俺がうなずくと、黒犬がまた小さく唸った。


「魔王の奴に言っておいてもらえます? “命懸けの報復”は気に入ったって。あと、新しいカードを持ってくるときはもう少し心臓に優しく、と」


 俺の感想を聞いて黒犬は任務を達成したのだろうか。

 巨大な顔がスーッと壁に引っ込んでいった。

 あとに残ったのは俺の手の中のカードと、見慣れたいつもどおりの白壁だけ。


「でかい犬だったなぁ……」


 俺は犬の頭が飛び出していた壁に触れ、壁紙やその奥の建材に異常がないことを確認する。ふと思いついて血の気が引いた。

「……まさか、あれ、フェンリルとかじゃないよな……」

 北欧神話を出典とし、数々のゲームや漫画に登場する“終末の狼フェンリル”。

 俺は「まさかな」と空笑いして、新しく手に入れたカードにもう一度目を落とした。


 “神々の夜”

 “命懸けの報復”

 “死者並ぶ朝”

 “天使の殺し方”

 “常夜の軍勢 黒騎士”

 “常夜の軍勢 灰騎士”

 “常夜の軍勢 白騎士”


 魔王の奴がこうやって熱心に新しいカードを創るものだから、デモンズクラフトもだいぶカードの種類が増えた。

 すべてのカードを合わせれば、二四〇種類に及ぶ。

 最初の頃はどれだけ迅速に強力なモンスターを召喚できるかが鍵となるゲームだったが、今は戦い方の幅もだいぶ広がった。

 それは同時に、俺が魔王に押し付けられた能力が強化されていることにもなるのだろう。


「今なら――」

 今なら、以前ほど苦戦することもなくソロモン騎士だって倒せるかもしれない。


「……そんなに甘くないか……」


 俺はあくびと共に頭を掻いた。

 すっかり目が冴えてしまったが、今からでも少しは寝た方がいい。

 やがて朝と共に冴月晶がやって来るだろうから。

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