夜の白光

「相変わらず必要書類が多いよねぇ」


 もうすぐ午後九時三五分になろうとしている。窓は漆黒に染まり、外の大通りを走る車の数もずいぶんと減ったようだ。時折、大型トラックの走行音が窓ガラスを叩いて揺らした。


 俺はまだ仕事中で、客先にいる。


「えーと……試算表がこれで、資金繰り表がこれ。あれ? 今後の事業計画もいるんだっけ?」


 痩せ形の中年男性――佐久間さんがキャビネットからあれこれと書類を取り出していた。


 俺は革張りの応接椅子から腰を持ち上げつつ、彼に声をかけた。

「あっ、今回は大丈夫です。あと、各行からの借入残高がわかるものを――」


「ああ、はいはい。銀行借入残高表って奴ね。できたてホヤホヤのがあるよ」


 お願いした書類のすべてを胸に抱えた佐久間さんが、執務室の一角に設けられた簡易な応接スペースに戻ってくる。

 パーテーションなどない剥き出しの応接スペースには申し訳程度に観葉植物が置かれているが、葉の一部が茶色く枯れかけていた。水やりぐらいしか手入れがされていないのだろう。


「ごめんねぇ。こんな夜にしか時間とれなくてぇ」

 今日何度目かの謝罪。


 俺は愛想笑いを浮かべながら、人当たりのいい経理責任者から書類を受け取った。

「いえいえ。お忙しいのに無理矢理アポ入れさせてもらったのはこちらですから。それじゃあ書類確認させていただきます」


「尋常じゃなく人手不足なんだよね。かといって庶務担当を増やせるほど儲かってるわけじゃないし。貧乏暇なしって、まさしくうちの会社のことだよ」

「そんな――ご謙遜を。えぇと……試算表を見る限りでは、今年も順調そうじゃないですか。支店に帰ってもうちょっと読み込まさせてもらいますが…………え~…………ええ、これなら、この前お話しさせていただいた金利で運転資金をご用意できると思います」

「頼むよ。バカ社長の一存で夏のボーナス増やしちゃったものだからさ、社員は嬉しかっただろうけど、経理部門は火の車ってわけだよ」

「今時社員の方に目の向けたいい社長さんじゃないですか。うちの役員にも爪の垢を煎じてやりたいですよ」

「違う違う。そんなんじゃないんだよ。最近、社員にどれだけボーナス配ったかが、ここいらの社長連中の間で流行ってるっぽくてさ。それをSNSで偉っそうに触れ回るわけさ」

「あー、なるほど」

「まあ、バブルの頃みたく訳のわからない美術品買ったりしない分マシなんだろうけどさ……おじさん、もう資金繰りに疲れたよ……」

「元気出してください、佐久間さん。うちの信用金庫にご用命いただければ、二四時間三六五日、私、年中無休で飛んでまいりますので」

「じゃあ金利ゼロ、期待しちゃおっかな」

「それはさすがに私の首が飛んじゃいます」


 静かな執務室に俺と佐久間さんの笑い声が薄く響いた。


 ここ、藤沢産業株式会社は、俺がストレスなく訪問できる数少ない取引先だった。それもこれも、経理責任者である佐久間さんの人柄によるものが大きい。俺の前任者は佐久間さんとまったく気が合わず、出入り禁止令に近いものを喰らっていたらしいが……今のところ、俺は悪くない関係を築けているような気がする。


 いつだったか『和泉くんはあんまり金融マンっぽくないところが信頼できるよねぇ』そんなことを佐久間さんに言われたことがあった。多分褒められたのだろうが、素直に喜んでいいものかよくわからない。暗に――今の仕事向いてないよ――と言われたような気もするからだ。まあ、弱肉強食の金融業界が向いていないことは、とっくの昔から身に染みているが。


 ……なんで俺、まだ金融の世界にいるんだろう……?


 わかっている。辞め時を見逃してズルズル続けてきてしまったから、その延長で今の職場にしがみついているだけだ。出来損ないの三四歳。簡単にやり直しできる年齢じゃない。


 不意に、佐久間さんがぼそりと言った。

「……この間は、本当にすまなかったね」


 俺は広げていた経理資料を脇に避けつつ、何のことだろうか? と考える。


「あ――えーと、設備投資の……」

「機械担保の付いた八〇〇〇万円だからね。君もずいぶんと絞られただろう。本当に悪かった。和泉くんのところで借りると約束してたのに、直前で他の銀行に乗り換えたりして」


 苦渋の表情で深々と頭を下げてくれた佐久間さんに俺は恐縮するばかり。

「全然ッ。全然大丈夫でしたから! 前にも言いましたけど、ノルマの方は別の隠し玉でなんとか事なきを得ましたし。まあ、課長はグチグチ言ってましたけど、社長さんの御意向じゃあしょうがないです。そりゃ、第一地銀がうちと同レートって融資するって言ってきたらそっちに乗り換えますよ。全然ネームバリューが違いますもん。あの銀行からあの低金利を引き出したって言えたら、きっと、社長会とかでも自慢できるでしょうし」


 嘘だ。全然大丈夫じゃなかった。八〇〇〇万円の大型融資が直前でポシャったせいで、俺は上半期のノルマを達成できなかった。直属の課長には散々怒鳴られたし、怒り狂った支店長にも土下座して許しを請うハメになった。

 多分、冬の業績考課では最低点に近い成績が付けられるだろう。この一〇月から来年三月末までの半年間――下半期のノルマを達成できなければ、降格もありえる事態だ。


 ……クビは……さすがにないとは思いたいけど……。


「でもさすが地元トップの銀行さんはやり方が容赦ないですよね。まさか佐久間さんを通さずに、社長さんに直談判するなんて」

「もう二度とないけどね。向こうの銀行には正式に抗議を入れさせてもらったし、うちの社長にも勝手な真似すんなってきつく言っておいたから」

「えっと……従兄弟同士になられるんでしたっけ、佐久間さんと社長さん」

「そうそう。僕があんなに激怒するとは思ってなかったんだろうね、あれもシュンとしてたよ」

「へぇ……あの社長さんが……」

「いや、別にさ――君んとこの信用金庫がどれだけ困ろうが別にいいんだ。うちのメイン銀行じゃないし。ただ、和泉くん個人に信義にもとる行為をしてしまったのが、本当に情けない」


 もう一度大きく頭下げた佐久間さん。

 反射的に俺は佐久間さんよりも深くお辞儀するのだった。


「これからも精一杯やらせてもらいます。御用聞きと思ってもらって構いません。ちょくちょくうかがわせてください」

「春先にはまた運転資金の調達をするつもりだから、その時は真っ先に和泉くんに話を入れさせてもらうね。金利はあんまりうるさく言わないから、よろしく頼むよ」


 本当に……佐久間さんとは良い関係が築けていると思う。


 シンプルな壁掛け時計に目を移せば――午後一〇時前。


「あっ、それじゃあ私そろそろ引き上げます。早めに支店に帰らないと……上司や同僚も仕事を終える頃合いでしょうし」

「あっ、そう? ――そうだ。和泉くん、このビルを出る時は、幽霊に気を付けてね」


「は? 幽霊、ですか?」


 俺は受け取った書類を渉外カバンに入れてから、チャックを閉めた。

 革張りのソファから立ち上がると、相変わらず嫌になるぐらい渉外カバンが重い。重さの原因は金融商品のパンフレット群だろう。


「なんか知らないんだけどね、ここんところ若い連中が噂してるんだよ。夜、残業してると、背の高い女の幽霊が出るって。一番残業してるはずの僕は見たことないんだけどね」

「へえ。かわいい女の子の幽霊なら会ってみたいです」

「一昔前には、このビルに開かずの部屋があるって話もあったよ。一部改装してるとはいえ、古いビルだからね……先代社長の妾の死体が隠してあるんだってさ」

「それはショッキングな――で、真相はどうなんですか?」

「あるわけないじゃん。ただでさえ手狭なのに、余ってるスペースがあったら今すぐ書類倉庫にしてやるって」

「はははっ。いつの時代もそういう話は尽きませんね。そういえばうちの支店にもありますよ。今までに過労死した職員の幽霊が、二、三人、金庫室の奥に出るとか」

「怖い怖いッ。幽霊よりも和泉くんの職場の方が怖いって!」


 扉を開けて深々と一礼する。

 本当に佐久間さん様様だ。運転資金とはいえある程度まとまった量の融資ができそうで、俺は安堵していた。これで明日は朝一番から課長に叱責されることはあるまい。


「下まで送っていかなくても大丈夫かい?」

「大丈夫です、ここで。今日は本当にありがとうございました。契約の用意ができましたら、またお電話させていただきますので」

「ああ、了解したよ。ノルマきついだろうけど、無理しちゃ駄目だよ」


 俺はもう一度礼をしてから扉を閉める。


 藤沢産業株式会社の廊下はかなり狭く、実に薄暗かった。

 佐久間さんの他に残業している社員はいないのだろうか。社内に人気はなく、佐久間さんだけが残る経理室から漏れてくる灯りが俺の足下を照らしていた。


 エレベーターに乗り込み、一階のボタンを押す。

 黄色い照明の下、ぼんやりと階数表示を見つめていた。

 チンッとこもった音がして、扉が開いた。


 一刻も早く帰らないと課長に怒鳴られるな……丸一日働きづめだった身体を引きずって、ほとんど無意識にエレベーターを降りると――


「あれ?」


 ここは一階ではない。狭く、暗い廊下が続いている。

 ……確か一階はエレベーターを降りるとすぐにエントランスホールだったはずだ。

 俺は首を傾げて、しかし、単にボタンを押し間違えただけだろうと思うことにした。実際、疲労困憊の日々が続いているせいか、こんなことは日常茶飯事だった。


 エレベーターに戻ろうと振り返ったが。

「あっちゃあ……」

 すでに扉は閉まっている。誰かが上階でエレベーターを呼んだのだ。

 佐久間さんか、それとも別の誰かか。


 もう一度エレベーターのボタンを押そうとして――やめる。

 佐久間さんだったらバツが悪いなと思ったのだ。さっき別れの挨拶を済ましたばかりなのにエレベーターの中で鉢合わせたりしたら、ちょっとだけ気まずいじゃないか。


 だから俺は、エレベーターが降りてくるのを待つのではなく、階段を使うことにした。

 残りの気力を振りしぼって歩き出す。この廊下を突き当たったところに階段があるはずだ。


 ――暗く、不気味なくらい静かだった。


 この階は誰も残っていないのだろう。音といえば俺の足音ぐらいで、はめ殺しのガラス窓から入ってくる街の光が唯一の光源だった。


 とはいえ、あまりにも暗すぎてなにかに蹴躓きそうだったので、スマートフォンのライトを点灯させる。


 ――トイレの出入り口。

 ――廊下の端に積み上げられた段ボール。

 ――資材保管室と印字されたA4紙が引き戸に貼り付けられている部屋。

 ――腰までの高さしかないサビの浮かんだ鉄扉。 

 ――様々な資格試験の告知ポスターが所狭しと並ぶ掲示板。


 そういったものを足早に通り過ぎた俺は、思ったとおり廊下の突き当たりに階段を見つけた。


 …………ズッ…………


 階段は、淡い緑色の光によって薄く照らされている。どこのビルでも見かける避難口誘導灯が光を放っているのだった。緑色のキャラクターが逃げているお馴染みの表示だ。


 …………ズズズッ…………


 人工の光を見つけてどこかホッとした俺。不意に廊下の方から物音が聞こえたような気がして、なんとはなしに首を回した。


「はぁ?」


 惚けた声を漏らしてしまったのは、スマートフォンが放つ光の中に『斜めの白い棒』が映っていたからだ。

 『棒』は、俺がさっき横を通った資材保管室と掲示板の間から突き出ているように見えた。


 何だアレ? あんなもの、さっきはなかっただろ。


 近づこうとして――俺は、咄嗟に、『棒』の正体に気付いてしまう。バクンッと心臓が跳ね上がり、いきなり呼吸が上手くできなくなった。


 長い長い腕だったのだ。


 資材保管室と掲示板の間にあった鉄扉が開いており、そこから人間の腕が伸びていたのだ。

 信じられぬほどに長い腕は、廊下を横断して窓枠にまで届いている。節ばった青白い指が、窓枠のわずかな出っ張りをつまんでいた。


 おい…………身長……何メートルあんだよ……?


 瞬間、佐久間さんが言っていた『背の高い女の幽霊』と『開かずの間』の噂が、俺の頭にフラッシュバックする。別々の話として語られた二つだが、実のところ、同一の怪異にまつわるものだったのかもしれない。俺の前に、今現れたこの『長い腕』……。


 ふざんけんなよ、ふざけんな。開かずの間じゃないのかよ。普通に開いてるじゃねえか。

 心の中でそう悪態をつきながら、腕の持ち主が部屋から出てこないことを祈った。


「ひっぃ!!」


 しかし次の瞬間には、天井に顔面を擦り付けた女が俺の前に立つ。


 女が開かずの間から這い出てくる光景は見ていない。その女は、俺がまばたきをした次の瞬間には、いきなり廊下に立っていたのだ。


 真っ赤なワンピースだった。足下まで届く真っ黒な髪だった。

 あまりにも背が高すぎて、まっすぐに立てていない。ほっそりとした長い首をねじ曲げ、横に倒した顔面を天井にくっつけている。

 吐き気を催す奇形だった。異様に長いのは両腕と胴体、それと髪の毛だけで、あとは常識の範囲内……やせた肩も、鶏ガラみたいな脚も、人間のモノだ。


 だから恐怖した。だから確信した。

 ……悪霊だ、こいつは……。


 俺は、スマートフォンのライトに照らされて微動だにしない女の前に立ちつくす。


 逃げた方がいいのだろう。

 そりゃあ、一目散にこの場から駆け出した方がいいのだろう。

 だが、俺が逃げれば女が追いかけてくるような気がして、一歩たりとも動きたくはなかった。

 願わくば……この悪霊が、何事もなく『開かずの間』に帰ってくれることを……!!


 まともに呼吸ができない。凍えるほど寒いのに、次から次へと冷たい汗がにじんでくる。極度の緊張に視野が狭くなっていくのを感じた。


 どうしたらいい……!? 俺は、どうしたら……!?


 顔があった。

 悪霊から目を離したつもりはない。だが気付いた時には、俺の目の前に、黒髪に隠れた女の顔のどアップがあった。ドブ川のような嫌な臭いがした。


「う、わあああっ!?」

 上擦った悲鳴と一緒に手が出た。

 反射的にスマホを握っていた左手を振ったら、女の顔面に当たったのだ。


 ――パキャ。


 笑いたくなるほど軽い音がして、女の頭部があらぬ方向にねじれた。ほとんど一八〇度回転。顎が天井を向き、長い前髪が床にバサリと落ちる。


「――――――――――――――――――――――――――――――」

 今度の悲鳴は音が出なかった。


 真っ黒な穴が…………真っ黒な穴が、俺を見つめている。

 あらわになった悪霊の顔には目も鼻も口もなく……ただ、真ん中に大きな穴が空いているだった。……真っ黒な……スマホのライトで照らしても何も見えない、真っ黒な穴が……。


 限界。

 考えることを放棄した俺は、悲鳴のような雄叫びをあげて床を蹴る。

 唯一の逃げ道である階段に飛び込んだ。

 半分転げ落ちながら、この階段が無事に一階のエントランスホールに続いていることを必死に祈りながら、とにもかくにも脚を回し続けた。


 だがしかし……やがて、深い絶望感に涙と鼻水が溢れてくる。

 諦めで下半身から力が抜けそうになる。

 いつまでたっても階段が終わらない。間違いない。いつの間にか、俺は、人の世ならざる『異界』に迷い込んでいるのだ。あの悪霊の世界に引きずり込まれているのだ。


 俺はこんなところで死ぬのか。

 どんなむごたらしい最期を遂げるのか。


「嘘だろう!? あんなのの仲間になりたくない!!」


 振り返ったらそこにあの女の顔面がありそうで、足下だけに意識を集中する。

 まだ身体は動いた。

 身体の動く限りは、階段を下り続けるつもりだった。

 俺は霊能力者じゃない。幽霊とか呼ばれる怪異に出くわしたのも今夜が初めてだ。だから、この場を切り抜ける方法など知ってるわけがない。


 あがくだけだ。あがくことしかできない。あの悪霊に取り殺される瞬間まで――


 いったいどれだけの暗闇を突っ切った頃だろう。

 ふと、声が聞こえた。


「カヤールを奪う古き盗賊 群衆の指は青銅に染まり 往古より続く金色に触れた 大帝よりの命 不敵たるイディオナール 名誉無き簒奪者は秘密を殺す――」


 幻聴か。それともあの悪霊が何か言ってるのか。奇妙な響きを持った言葉だった。まるであちらこちらに設置したスピーカーから同時に流しているみたいに、何重にも重なって聞こえた。

 不気味だ。日本語のように聞こえたが、ほとんど意味がわからない。


 そして俺は――『白』を見た。


 いきなり目の前に白フードの人物が現れたのである。

 真っ白なフード付きマントを着た何者かは階段の中央でうつむいており、俺の心境は――また変なのが出てきた!!――それだけ。

 もう何が出てこようがどうでもいい。思考する余裕なんかあるわけなかった。


 ただ、一つだけ覚悟した。

「おおおっ!」

 このまま白マントの人物に体当たりすることを覚悟した。全力疾走中だ。止まれそうにない。


 しかし衝撃に歯を食い縛った俺は、次の瞬間、拍子抜けすることになる。

 よけてくれたのだ。

 実に人間的な動きで、すぐには止まることができない俺のために、道を空けてくれたのだ。


 すれ違う瞬間。

「よくぞ、ここまで――」

 物凄く綺麗な声がそう言ったような気がして、俺はハッとした。


 白マントが立つ場所から七段下ったところでようやく停止する。

 そして、勢いよく振り返って――見た。

 まるで俺を守るみたいに再び階段中央に躍り出た白マントの背中を。その奥で俺と白マントを見下ろしていた巨大な女の悪霊を。


 この世ならざる者に少しも臆することなく、平然と悪霊と対峙した白マントが言った。

「申し訳ありません、遅くなりました」


 女性――それもかなり若い……いや幼い声だった。中学生ぐらいだろうか。どこかで聞いたことがあるような気もしたが、気のせいだろう。女子中学生の知り合いなんていない。


 俺は「あ……いや……」と応えるのが精一杯。

 誰だこの子…………生きてる人間、なのか……? 俺を助けに来た霊能力者とかか?

 ゼーゼー呼吸しながら、美しく直立する白マントをぼんやりと見つめた。まずいな、空気が足りてない。目がかすむ。肺の感覚がない。思考するのがひどく億劫だった。


 だから俺は、最低限の言葉だけで白マントに問いかける。最低限、これだけは確認しておきたかった。

「あの……はあ、はあ……あの、あなたは……?」


「ボクですか? 味方です」

 あっさり返ってきた言葉は、俺が最も期待していた回答。しかもこの子、ボクっ娘だ。


 視線を少し動かすと悪霊の姿が目に入る。

 悪霊は、俺にしたのと同じように、白マントに顔面を突き付けていた。腰を深く曲げて……あれは威嚇か、それとも獲物の品定めか……。

 端から見ていても実におそろしかった。行動の意味不明さが恐怖をかき立ててくる。


「…………………………」


 しかし、そんな不気味の最前線にあって、白マントは背筋も震わせていないようだった。直立不動で、まっすぐに悪霊に顔を向けている。


 ふと――

「ふふっ」

 白マントの失笑が聞こえたような気がした。


 そして俺は気付く。だらりと下ろした白マントの両手の先で、何かが鋭くまたたいたのを。

 ……何だあれ……? 細く……長い……? ……剣、か……?

 それは、目立った意匠のないシンプルな十字剣だった。刃渡りは七〇センチぐらいだろうか。細身の両刃は曇り一つなく、そっと触れただけでも指なんか簡単に落ちそうな気がした。

 儀礼用の剣などではない。

 敵を打ち倒すために鋳造された明確な武器だ。

 白マントは、そんな物騒な代物を両手に一本ずつ握っていた。


 ――――――


 双剣使いが、何のためらいも予備動作もなく、極々自然に右の十字剣を振り上げる。

 白銀の軌道は俺の目にもかすかに映った。悪霊の顔面の中心を通って、天井へと抜けた。


 ……あまりにも気の抜けた一撃……さすがにあれでは悪霊は倒せまい。


 しかし、次の瞬間。

「んな――!?」

 俺の予想はあっけなく外れることになる。

 攻撃とも呼べぬような一太刀は、悪霊はおろか、世界までも両断する奇跡の業だった。


 ――星が見えた。

 ――冷たい夜風を感じた。

 ――街を走る車のエンジン音が戻ってきた。


 瞬殺というのだろう。白マントの人物は、あんな小さな剣一つで、悪霊の身体を完全に真っ二つにしたのだ。断末魔の叫びを残すことさえ許さなかった。


 そして十字剣は、俺が迷い込んでいた『異界』すらも、ついでとばかりに斬り裂いていた。

 まるで天幕を断ち切ったかのように、頭上から景色が一変する。

 終わらない階段が消え、どういうわけか、俺は屋外にいた。


 …………どこだここ……? 


 ビル用エアコンの大型室外機が並んでいる……出入り口と思われる一角には、据置型の灰皿が置かれ、喫煙スペースとして利用されているみたいだ。

 据置型灰皿の側面には見たことのある社名ロゴが貼られていた。それでここが藤沢産業株式会社の屋上であることがわかった。


 俺はいつから悪霊に化かされていたのだろう? 佐久間さんと別れた直後か? エレベーターに乗ったところか? ……よくも現実世界に帰って来れたもんだ……。


 夜風に白いマントが揺れている。


 俺の視線に気付いたのだろう。俺を助けてくれた女性――おそらく少女――が、俺の方に身体を向けた。コンクリートの地面をブーツで叩きながら、まっすぐに俺に近づいてくる。


「お仕事の帰りですか? とんだ災難に遭われましたね」


 真冬の月のような澄み切った声だった。

 やはりどこかで聞いたことがあるような気もしたが、気のせいかとも思う。こんなに冷静で、こんなに優しげに話す女の子とか、この世にいるのか?


 双剣をどこかに隠した白マントの少女が、呆けていた俺の左手を取り上げた。

「手を見せてください。あの闇に触れたでしょう?」

 柔らかく、冷たい指。

 驚いた俺は反射的に手を引っ込めようとしたが、信じられぬほど力強い少女の指がそれを許してくれない。ふりほどくこともできずに、なすがままに左手を触られた。


 生まれてこの方、生身の女子とは縁遠い人生を送ってきた俺に、この状況に対応する能力はない。深く被られた白フードをドギマギと見下ろしながら、言葉をつくるのが精一杯だ。


「……あの化け物は……いったい……?」

「この街の霊的エネルギーがよくない形で滞ったモノ、だと思います。ごめんなさい。ボク、あまり幽霊には詳しくなくて」

「……それで、私は今、何をされているんでしょうか?」

「除霊です。取るに足らぬ存在とはいえ、アレの障気は人にとって良くありませんから。体調を崩される方もいらっしゃいますので」


 俺の親指の付け根を丁寧にマッサージしてくれる幼い両手。


 ……ずいぶんと若い霊能力者さんに助けられちゃったなぁ……と思った。ちょっと恥ずかしい。危機が過ぎ去った今、大人という立場が首をもたげ、俺に気まずさを与えている。


 結局、あの悪霊の詳しい正体と目的はわからずじまい。

 俺があんな目に遭って、佐久間さんが無事かどうかもわからない。

 それでも――

「よく気丈に振る舞われました。もう心配ありません」

 白マントの少女にそう言ってもらえて、ようやく人心地ついた気がした。


 そして、俺が大きく息を吐いた瞬間だった。下半身の感覚が丸ごとなくなったのは――


「お――」


 完全に腰が抜けた状態。支えを失った身体は重力に従って崩れ落ちるだけだ。


 尾てい骨をコンクリートに打ち付けて、目から火花が出た。

 鈍い痛みにうめくこと三〇秒弱。腹の上の重さに気付いて小さく首を動かす。


 そうしたら。

「――はぁ――?」

 とんでもない美少女と目があった。


 ――短めの銀髪。

 ――紫色の瞳。

 月明かりと街灯りしか光源のない薄暗い屋上でも、決して美しさを損なわない。

 その美貌が持つ情報量に俺の網膜は焼き切れんばかりであった。目が潰れるとはこういう事かと思いながらも、俺は、白フードの下の素顔から目が離せなかった。


 腰が抜けた時に引き倒してしまったのだろう。俺の腹の上でうつ伏せになった少女はきょとんとした顔をしていた。それがまた息を呑むほどに美しい。


 ……あれ……? ……でもこの子、どこかで見た気が…………。


 ……………………。


 思考停止時間一〇秒。その後、驚天動地の重大事実に心臓が止まりそうだった。


「――冴――」

「も――もしかしてっ! もしかして“いずみん”様ですか!?」


 俺の叫び声を遮ったのは、俺の上でパッと花咲いた少女の笑顔。


「は……?」

「やっぱり! どこか聞いた声だと思ってたんです! 『ボク』を使ってくれた“いずみん”様ですよね!? カードゲーマーの!!」

「……へ……?」


 本当にわけがわからなかった。なんで美少女が俺なんかのことを……?


 というか――あなたの方こそ冴月晶さんですよね、サウスクイーンアイドルの。

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