古き姫君
「ん?」
最寄り駅から自宅への帰り道――家路を急いでいた俺は、しかし前方の路肩に視線を送って足を止める。
つい今しがた隣を通り過ぎた黒セダンが、信号でもないのにいきなり停車したからだ。まるで俺の存在に気付いて慌ててブレーキをかけたようだった。タイヤが鳴るほどの急停車、さすがに誰だって不審に思うだろう。
後部座席のドアが開き。
「ありがとうございます。あとは歩いて行きます」
歩道と車道を隔てる縁石に足をかけて車から出てきた人物は、綺麗な銀髪である。
「――冴月さん」
明るい街灯の下、俺は数日ぶりに見る美少女の名前を呟き……冴月晶は人目を引く銀髪をツバ付きのニット帽で隠しながら、俺の元に駆けてくるのだった。
慌てて帽子を被ったせいで銀髪がグチャグチャだ。前髪が完全に片目を隠している。だがそれでも――冴月晶はそのまま笑った。
「和泉様。ただ今戻りました」
仕事帰りの中年男、いつもどおりの俺の顔を見て、とても嬉しそうに笑った。
一二月二六日。曇り空の水曜日。
午後九時過ぎの路上。
俺のあずかり知らぬところで人類のために命を懸けてくれた魔法少女に、俺も「お帰りなさい。クリスマス任務、お疲れ様でした」と微笑みかける。
ウインカーを出して走り出す黒セダンを見やりながら二人して歩き出した。
「もしかして私の部屋に?」
「はい。冷蔵庫の余り物で、明日の朝食を何か作れたらと」
「なるほど……いつもすみません」
「いいんです。ボクが好きでやってるんですから」
ニット帽からはみ出した髪の毛を手早く整えてから、赤フレームの伊達メガネで目元を隠した冴月晶。俺の左隣を半歩下がって静かに付いてくる。
俺はふと思い出して、「そういえば、ケーキありがとうございました」などと彼女に振り返るのだ。すると絶世の美貌は申し訳なさそうに表情を曇らせた。
「本当は……女サンタの格好でお届けするつもりだったんです……」
「ま、まあ、仕方ないですよ。クリスマスの夜に冴月さんが私といたら、人類的にはよろしくないんでしょうし」
冴月晶のサンタガール姿……平静は装ったが、本心では見てみたくてたまらなかった。
ここから俺のマンションまでは一五分以上歩かねばならない。
俺と冴月晶の話題は――俺の人生最悪のクリスマスイブでも、九州に派遣されたというソロモン騎士・冴月晶が聖夜に倒した怪物のことでもなく。
「あの、ところで………和泉様は本当だと思われますか、今日の噂……」
「有り得なくはないでしょうね。なにせ、あんなに売れまくったんですから――サウスクイーンアイドルコラボ」
今年のカードゲーム業界を大いに盛り上げたワイズマンズクラフトとサウスクイーンアイドルのコラボ――その第二弾が来年の春に発売されるという噂だった。
話の出所は定かではない。だが、今日のお昼過ぎからSNSを中心にカードゲーマーたちがざわつき始めたのは確かだ。
「……次もボクのカードあるかな……」
「それは大丈夫でしょう。先月の新曲がダブルミリオン狙えそうだし、最近の冴月さん、凄いじゃないですか」
「また、変なカード効果ならいいんですが」
「――え?」
「だって、駄目カードの方が、和泉様に可愛がっていただけますから」
「ま、まあ……どんなカードだろうと、デッキ組みますよ。ファンとして」
そして俺と冴月晶は歩きながら、サウスクイーンアイドル・冴月晶のカード第二弾が、どんなものになるのかを大真面目に議論し始めた。
「カードの色と属性は前回と同じでしょうか?」
「おそらく。“千刃の舞姫 冴月晶”とシナジーがあるとありがたいんですがね。デッキから刀剣カード引っ張って来れたり――」
俺はフィールドを制圧しつつ手札を増やすという効果を予想し、冴月晶は完全防御型のカードになるのではないかと言う。
不意に――あれ? と思った。
「あとは専用のマジックカードとかあれば面白いですよね」
会話の最中、防寒手袋に包まれた左手に妙な重さを覚えたのだ。
それで、「冴月さんが場に出てたらノーコストで撃てる、みたいな」言葉を切ることなく視線を落とせば――冴月晶の右手が、俺の小指の先をこっそり掴んでいる。
俺のことを見上げていた冴月晶と目が合い、彼女は恥ずかしそうに目を伏せたが、それでも俺の左小指は離そうとしない。
……この何日か、寂しかったのかもな……俺は一人でそう納得し、何も言わず冴月晶の好きにさせてやることにした。俺の小指なんかでこの子が満足するなら安いものだ。
指先を繋いだまま冷え切った冬の町を歩く。
指先など繋いでいないかのように、ワイズマンズクラフトのことを話しながら歩く。
やがて――俺の住まうマンションまであと少しといったところで。
「ちっ」
冴月晶が珍しく舌打ちなんぞをするのだ。
見れば、雲に覆われた夜空を見上げて何かの気配を探っているみたい。
「和泉様。少々お時間よろしいでしょうか?」
「え――? ええ、まあ。大丈夫ですが」
俺の答えを待ってからニット帽を脱いで頭を振った冴月晶。
街灯を反射した銀髪がキラキラと輝き、俺はそれを流星群のようだと思う。銀色の瞬きに気を取られて、彼女の頭から伸びた山羊の角に気付くのが遅れた。
――往来での悪魔化――
――魔王の奴が、冴月晶の肉体に残した残照――
俺は慌てて周囲を見回し、「……っ」通行人が俺たち二人を無視して通り過ぎていったのに胸を撫で下ろす。『認識阻害の魔法』を使うなら前もって言って欲しかった。
「冴月さん……これは、いったい――」
見れば、冴月晶のキャラメル色のブーツが黒い炎を上げて燃えている。
そして現れた――漆黒の脚甲。
魔王の手に堕ちた魔法少女、“光亡の剣 冴月晶”のトレードマークとでも言うべき、つま先から太ももまでを覆う流麗な防具だ。万物を切り裂く刃のようにも見えた。
俺は眉をひそめつつ、少しだけ懐かしいと感じてしまう。わずか二ヶ月前のあの事件が、ずっと昔のことのように思えた。多分、ここ最近、毎日がやたら忙しいせいだろう。
「跳びます。目をお閉じになった方が良いかもしれません」
「は――え? 跳ぶ?」
そして俺は冴月晶にぎゅうっと抱き付かれ――直後、彼女の意図を理解した。視界が縦方向にブレた瞬間、咄嗟にまぶたを下ろして歯を食い縛る。
強烈な垂直加速。
一瞬の浮遊感と風の音。
思ったほどではなかった着地衝撃。
「ちょ……っ」
地面の存在を感じて目を開ければ……おそらくはどこかの高層マンションの屋上だろう。大きな貯水槽とそこから伸びる銀色の配管が見えた。
周囲の建物よりは幾分か背が高い。手すりや鉄柵など屋上を取り囲むものは何もなく、冷たい風がびゅうびゅうと俺のコートのすそを揺らすのである。
「おぉ――」
転落したら一巻の終わり。そんな高さに俺は声を漏らした。たまらず膝を付いてしまいたくなる。そうしなかったのは冴月晶に抱き付かれたままだったからだ。
悪魔の脚力で一足飛び。こんな場所に俺を運んだ彼女は、随分名残惜しそうに身を離し、「失礼しました。ちょっと、手を貸した方が良いかもと思ったもので」と苦笑。
「ボクのそばが一番安全とご同行いただいたのですが、いらぬ心配でしたね。あれには、ボクから逃げれるだけの力もない」
俺は何のことかわからず、角が生えたままの冴月晶の視線を追いかけた。
そして暗がりの中に見た。
こんな、普段から人の出入りがあるわけでもないマンションの屋上に、先客がいるのを。
貯水槽のちょうど反対側、だだっ広い屋上の東端だ。
上半身裸――青白い肌だが筋骨隆々の大男が、何か黒いものを押さえつけている。
下界から湧き上がるような町の光に浮かび上がった大男の肉体……そこには一本の毛も存在していなかった。綺麗な禿頭で、その皮膚は両生類のごとくぬらぬらと濡れて見えた。
「……冴月さん……あれは……」
「ご安心を。取るに足りません」
俺と冴月晶が大男を見つめるのと同じく、彼もそのままの態勢でこちらを見つめ返す。
やがて――かぁぁぁっと口を広げて牙を剥いた。
やはりそうだ。ブラッドストローの吸血鬼だ。なんかそんな気がしたんだ。
人類に仇なす怪物が、無粋な闖入者を見逃すわけがない。
瞬間。
「ゴアアアッ!!」
大男の筋肉が躍動する。
四つん這いのままマンションの屋上を蹴ると、無毛の肉食獣が飛びかかってきた。
速い。俺の反応速度では回避行動はとても間に合わない。
とはいえ。
「失せなさい」
俺自身が対処する必要はなかった。悪魔化した冴月晶が、その黒き脚を一閃させたから。
――――――
無造作な横蹴り。しかし彼女の一撃には、吸血鬼を葬り去るに十分すぎる威力がある。
鉄靴のヒールが大男の顔面を捉えたかと思ったら、上半身が丸ごとなくなったのだ。
「……え……?」
あんまりな結果に俺は呆然とするしかない。
その場に崩れ落ちた大男のジーンズから大量の灰がこぼれたのをまじまじと見つめ、ごくりと唾を飲み込んだ。
「あ――冴月さん」
冴月晶は吸血鬼の死体など眼中になく、『大男が押さえつけていた黒いもの』に向けてもう歩き出している。暗い足元に気を遣いながら俺も続いた。
冴月晶の後ろ姿が人間に戻っていく。
山羊の角と漆黒の脚甲が黒い霧と化し、冬の夜風に流れていった。
そして彼女は、コンクリートに大きく広がった黒色の前で、静かに足を止める。
「無様ですね」
辛辣というよりはとても冷静な一言。
俺は冴月晶の横に立って、この黒い布みたいなものはいったい……と首を傾げた。
「ソロモンの巫女か」
いきなりの日本語。次いで黒い布の中央が大きく盛り上がったかと思ったら、まるで夜の沼から上がってきたみたいに白肌の美女が現れた。全裸で、だ。
北欧系の上品な顔立ち。
青みがかった長い黒髪。
…………あれ…………この人…………?
俺は、黒い布の上で横座りになった幽玄な美女に見覚えがあった。いつかの夜道でほんの一瞬邂逅した吸血鬼のお姫様、アルメイア王国騎士団に属する正義の吸血鬼。……妙高院静佳が言っていた名前は、確か、マリアベーラだったか。
「…………」
マリアベーラは俺のことを一瞥したが、それだけだ。裸を見られたことを意に介する素振りは何もなく、冴月晶に視線を移してこう言った。
「何の用だ?」
「随分なお言葉ですね。死んでもらっても困りますし、手を――いえ、脚を貸しただけです」
「われが負けそうに見えたと?」
「ええ。申し訳ありませんが」
吸血鬼とはいえ女性の裸をずっと見ているわけにもいかないだろう。俺はその場を離れることにして、彼女らに背を向けた。
「他の騎士たちはどうしたのです? もう死んだのですか?」
「さて、どこにいったのやら、な。ギルゴートギルバーを追っている者、魔法を使う妙な子供に手こずっている者……われの元に来られぬほどには、難儀しておるのだろうよ」
「そうですか」
「……逆賊どもが魔法使いの童女を手に入れたとは聞いておったが、まさかあそこまでとはの……あれはぬしらの同類ではないのか?」
「さあ。今回の件については、ボクはあまりタッチしていないので」
屋上の縁には近づかないようにその辺をウロウロしていたら、何か金属片のようなものを蹴り飛ばしたらしい。カランカランと澄んだ音が響いた。
「もう引き下がる頃合いでは? いいかげん、見ていて痛々しいです」
小さく冴月晶の声が聞こえる。いつも優しい彼女だが、今晩ばかりはあまり言葉を選んでいないようだ。クリスマス任務の疲れが原因だろうか。
「しかしソロモン寺院には任せられぬからの」
そう苦笑交じりに提案を拒絶したマリアベーラ。
俺は、今しがた蹴ってしまった金属片を暗闇に探し、「なんだこれ?」と取り上げる。
そして、それは……本当によくわからないものだった。町の光に照らしてみても、やはり「……なんだこれ?」という疑問の言葉しか出てこない。
「ぬしら、ギルゴートギルバーをどう見ておる?」
「――? ただの吸血鬼ですが」
「やはりな。ぬしらにとっては、始祖アルメイアもその辺の木っ端吸血鬼も同じ……強いか弱いかという程度の差しかないのだな」
俺の手の中にある金属片――形自体は、犬の首輪を半分にカットした感じと言えば、一番それっぽいだろう。湾曲した両面には見知らぬ模様がびっしり刻み込まれていた。
「逆賊は必ず生きて捕らえねばならぬ。アルメイアは我らの父であり、母でもあるのだ。血を奪い返し、あの人を生き返らせるのが、善良な子供の役目というものであろう?」
いや……刻み込まれているのは模様ではない。
多分、文字だ。
学生の時に習ったメソポタミア文明の楔形文字にも見えたが、あれよりはずっと簡素で前時代的な印象を覚えた。
「いつの時代もソロモン寺院は苛烈が過ぎる。勢い余ってギルゴートギルバーを滅せられては、な」
果たしてこの金属はいったい何なのか。
鈍色に曇り、相当に古いのは確かだが、その用途については見当も付かなかった。せいぜい置物ぐらいにしかならない気がした。
正体不明の金属を眺めながら歩き出した俺。しかし「うわ――と」いきなり柔らかい感触に胸元を押し戻され、足が止まる。
何事かと視線を回せば。
「失礼した」
真っ黒なイブニングドレスに身を包んだマリアベーラが俺の前に立ちはだかっていた。どうやら俺はこの人の豊満な胸に突っ込んで跳ね返されたらしい。
いつの間に服を……と思って振り返る。先ほどまでマリアベーラがいた場所、コンクリートに広がっていた黒い布が丸ごとなくなっていた。冴月晶がこちらを見ている。
「返してもらえるか? それはとても大事なものなのだ」
吸血鬼の姫君が青白い右手を俺の前に差し出し、少しだけ困ったような顔だ。
「あ――ええ。すみません」
謎の金属を返却することにためらいはない。
すると彼女はそれを胸に抱き、俺に微笑み直してくれる。
「これはな、かつてアルメイアがソロモン寺院への恭順を示すために用いた装具よ」
冴月晶がやってきて俺の隣に並んだ。
それと同時にマリアベーラのイブニングドレスのすそが翼のごとくに変化し、強く宙を叩く。艶っぽい肢体がふわりと夜空に浮き上がった。
なるほど――冴月晶とのおしゃべりもほどほどに、再び戦いに赴こうというのだろう。
「気を付けるがいい。あの悪童の狙いは、ぬしらソロモンの巫女らしいぞ」
「お気遣いありがとうございます。そちらも、くれぐれも決断を誤らぬように」
マリアベーラのドレスがもう一度空気を叩く。
すると彼女の姿はあっという間に見えなくなってしまった。鳥というよりは弾丸のごとき速度で夜の曇天に舞い上がったのである。
夜空に線を引いた漆黒を目で追いかけた俺。
「…………なんか、行っちゃいましたね……」
「はい。行きました」
一方、冴月晶は、空なんて見上げもせずに俺の左腕にそっと肩を寄せてくるのだった。
「……あれ……大丈夫なんですかねえ……」
「さあ。ボクは、だいぶ嫌な予感がしておりますが」
苦笑交じりのその言葉に、奇遇だな……と思う。
実は俺も、果てしなく嫌な予感を覚えていた。
東京を舞台にした吸血鬼同士の闘争……守護者たるソロモン騎士団が手出ししないところで色々進んでいたこの事件……その結末が、あまり良くないものになりそうで。
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