第2話 ハイエルフと異世界の旅(後篇)
ずらりと並んでいたテーブルの料理が、半分ほど片付いた頃か。
「で?」
金髪碧眼のハイエルフに、またこの一言で訊ねられた。
先程同様、怒られぬよう趣旨を思案していると、今度はすぐに解答が来た。
「少しはこの世界に慣れた?」
「ああ、うん。慣れたよ。なにせ日本語が通用するしね」
「日本語……ああ、
異世界では五十年ほど前から日本語が共通語となっている。
「なにせ勇者ゴトーの言語だからね。今では何処でも
爺ちゃんの本名は
異世界を滅ぼさんとした魔王を討ち倒す――爺ちゃんは世界を救った勇者である。
その勇者が操る今まで何処にも存在しなかった言語は、異世界に一大センセーションを巻き起こしたという。
「当時はね、みんな彼の言語をこぞって覚えていたわ」
まずは王族を中心に流行し、果ては全大陸の共通言語として扱われるまでになった。
「ち、な、み、に……卓越した言語能力で彼の言葉を翻訳したのは、この私だから!」
近年稀に見るドヤ顔で、アーデライードは胸を張った。
けれどその後ですぐに冷静な表情に戻ると、じっと瑛斗の目をみつめ、
「けどね、勘違いしちゃ駄目よ」
と、フォークを指し棒の様に瑛斗へ向けて、教師みたいな口調で言った。
「どういう意味?」
「勇者ゴトーの言語が、ここまで広まった理由」
アーデライード曰く、ただ単に『戦により世界を救った勇者ゴトー』の言語だからというわけではない。もうひとつの大きな理由があるという。
「勇者が世界全土に勇者として広まった一番の功績――それは『農業革命』よ」
言われてみれば、爺ちゃんの本業は農家である。
「想像してご覧なさい。戦場となり荒廃した農地を。或いは草木も生えぬ広大な荒野を。彼の知恵と努力と不屈の精神が、それらを黄金色の麦畑に変えたのよ。その光景を初めて目にした時の感動たるや、筆舌に尽くしがたいわ!」
アーデライードはすっかり流暢になった日本語で爺ちゃんを讃える。
戦中戦後、食糧難の時代を生き抜いた爺ちゃんのことだ。魔王の
爺ちゃんはただ一人、黙々と荒野を耕し続けた。酔狂と罵られ、嘲笑を背中に浴びながら、ただひたすらに大地と向き合った。
やがて努力は実を結び、荒野は豊かに穂を垂らす黄金色の麦畑へと姿を変えたのだ。
かつての荒れ果てた大地を知る人々は、その光景を前にして呆然と立ち尽くした。諦観と絶望の只中にいる人々に、爺ちゃんは奇跡のような光景を見せつけたのである。
そうして爺ちゃんの持ち込んだ農業知識と技術は、異世界に大革命をもたらした。
また、肥沃な農地へと開墾するだけではなく、平行して未だ嘗てない『治水改革』も推し進めた。それにより干ばつや洪水の人的被害を格段に減らしたという。
最前線の開拓者である彼は――勇者ゴトーは、誰よりも人心を掴んだのである。
人々は爺ちゃんに教えを請いたいと、誰もがこぞって彼の言語を覚えるようになった。その動きは王族や平民の分け隔てなく、果ては王国内に留まらず国境を越えて大陸全土に広まって、遂には大陸全土に渡って
「彼は武力一辺倒の勇者じゃない。その魅力は何よりも人望と優れた治世者として、よ」
幼少の頃、枕語りに聞かされていた冒険譚は、子供でも飽きぬよう面白可笑しく工夫されたほんの一端である。今では瑛斗もそれを分かってはいたが、生き証人である六英雄のひとりから聞かされると、ますます真実を持って迫るものがある。
アーデライードは爺ちゃんのことを語る際、とても熱心な口調に変わる。
その様子を見るに、この世界で爺ちゃんを知る一番の理解者は、もしかしたら彼女だったのかも知れない――なんとなく瑛斗はそんな気がしていた。
「それにしても、日本語は複雑で難解な言語だったわ」
そういう彼女は、ハイエルフの操るエルフ語から古代精霊語、
ハイエルフの住む森で、言語学の天才児と称されていた十六歳の時。閉鎖的だった故郷の森を飛び出して、研究者として旅をし始めたのだそうだ。
そういうだけあって彼女は数多くの言語を知っていた。いや、知っていたつもりだった。
「あの人と旅をして、私は井の中の蛙だと思い知らされた」
そう言うと、指でとんとんとテーブルを叩いて瑛斗を詰問し始めた。
「日本語って五十音って言うけれど、あれって嘘じゃない?」
アーデライードに言われて、五十音順に指折り数えてみる。
「えーっと、あ、か、さ、た……あれ? 四十六文字しかないから?」
日本語の仮名はよく「五十音」と言われている。だがそれはあくまで昔の話。いろは歌四十七文字を経た現代では、学習指導要領上で「ゐ、ゑ」を加えて四十八文字だ。
「そうね。でも、それだけではないわ」
「……ああそうか、濁音か!」
「それに半濁音もあるわよ」
アーデライードの言う半濁音とは「ぱ」行のことだ。他にも「が、ざ、だ、ば」行の濁音もある。これを加えて七十三文字。
更に「ぁ」行と「っゃゅょゎ」という、促音や拗音で使う「捨て仮名」を含めると、ひらがなだけでも八十三文字ある。カタカナでは「ヴ」なんていうのもある。
「それに加えて漢字という表意文字の多さといったらないわ」
常用漢字は二千百三十六字、音訓では四千三百八十八。また同じ発音をする言葉でも、どの文字種を使うかで微妙に意味を変えられる。
「例えば、あついという言葉だけでも、熱い、厚い、暑いで微妙に意味が違うのよ。翻訳作業に取りかかった当初は、本当に気が狂うかと思ったわ」
当時のアーデライードが知り得る、どの言語よりも複雑で多様な表現を持っていた。
「けれど、解読する内にかなり精錬された言語だとも理解できた」
「というと?」
「そうね、兄という言葉だけでも、お兄さん、お兄ちゃん、お兄様、兄貴、兄上、兄者、おにい、にいや……なーんて、呼び方は多種多様にあるでしょ。場合によって巧みに使い分けられるなんて、素敵じゃない」
正直、アーデライードの例えはどうかと思ったが、異世界での言語表現は、前時代の異世界よりもずっと多彩に、ずっと豊かになったのだということだ。
それ以降、盛んになった語学研究により異世界全体の知識レベルが上がったのではないか、とアーデライードは考えているそうだが、これはまた別の話である。
「ところで知っているかしら?」
秀麗な顔をどこか悪戯っ子のように歪ませて、唐突に異世界クイズを出してきた。
「この世界には三大魔道書や三大聖典の他に、三大辞典と呼ばれるものがあるのだけれど、そのうちの一冊は、何でしょう? それはあなたも知っているはずよ?」
「へぇ、なんだろ……?」
「それは『コージエン』と呼ばれているわ」
「広辞苑!」
「未だ存在しえない技術で綴られた書物で、
そう言って手近なチーズフォンデュを引き寄せると、ちぎったパンにたっぷりととろけたチーズを乗せて口の中へ放り込む。
「まぁ、そのうちの一冊は、当然私が持っているのだけれど」
口元に付いたチーズをペロリと舐めとって、得意げな顔を見せた。きっとそれは爺ちゃんがアーデライードのために持ち込んだものなのだろう。
「それなら今度こっちへ来る時に、一番新しい広辞苑を持ってくるよ」
「えっ、本当に!? 嬉しい! ねぇ、絶対、絶対に約束よ!」
珍しい。いつもはツンと澄ましたアーデライードが、飛び上がらんまでに両手を上げて歓喜した。こうまでして喜んでもらえるのならば、プレゼントするだけの価値があるというものだ。
「それにね、勇者ゴトーの功績はこれだけに留まらないわ!」
すっかりご機嫌になったアーデライードは、嬉々として勇者ゴトーの英雄譚を語り始めた。瑛斗としても爺ちゃんの山ほどある伝説は、幾らだって聞いておきたいものだ。
熱を帯びるアーデライードの講釈に、負けないくらい熱心に耳を傾けることにした。
「実はこの建物だって、彼の大きな功績のひとつよ」
「この建物って、この『悠久の蒼森亭』のこと?」
「もちろん!」
ここ『悠久の蒼森亭』は、樹齢数千年を超える古代樹の内部を巧みに改造して、生きた樹木と構造物が一体となっている稀有な建築物であることは、前述のとおりだ。
この構造と仕組みの核心。それは樹木を殺してしまうどころか、決して衰弱させることすらないところにあるという。
「この技術は人類の技ではないわ。人知を超えたこの建物は、樹木の特性と造形知識を極めた
人類である爺ちゃんを筆頭として、エルフ族の樹木に関する豊富な知識と、ノーム族の精緻な工芸力、ドワーフ族の質実剛健かつ繊細な技術力。これらの叡智を全て集結させて完成させたのだという。
「つまり、どういうこと?」
「まず私たち亜人類って、人類とは元より種族間の仲が凄く険悪だったの」
未知の存在に対して共有の情報を持たぬ時代の世界である。それぞれの種族にとって、自らと異なる強大な能力を持つ他種族というものは、単なる脅威でしかない。
各種族は他の種族に偏見を持ち、時に忌み嫌い、時に嘲り、時に恐れる。
「お互い険悪だった人類と亜人類ら双方から、勇者ゴトーは実績と人望で、様々な種族から信頼と敬愛を勝ち得た」
「そうか、だからこそ成し得た功績、か……」
人類と亜人類らが手と手を携え、語らい、共存できる場所を爺ちゃんは願った。
各種族らは勇者の願いに応えるべく、種族の垣根を越えて彼のもとに集い、力を合わせて前人未踏の建築物を完成させたのだ。
そうして出来上がったシンボルの一つが、この『古代樹の塔』であった。
「とても画期的で、素晴らしい出来事だったわ!」
この世に双並び無いこの勇壮な建物を、爺ちゃんは何の躊躇なく人々に開放した。
旅人たちの憩いの場となるように酒場が開設されると共に、大広間や会議室、遠方からの来客を想定して宿屋を併設していった。
そうして今に姿を残すのが、この『悠久の蒼森亭』なのである。
「だからこの建物も、勇者ゴトーの立派な功績の一つなのよ」
数千年の時を経た古代樹そのままに創建された勇壮な姿形。一度訪れた旅人の心を掴んでは、決して離さないだろう。だが、創造した者たちが施した魔法と精霊の加護により、勇者の理念とその思想から外れた者は、決して辿り着くことのできぬ場所。
よってこの名店を訪れることが出来る者は、幸運と精霊に愛された極少数に限られるのだ。まさに知る者ぞ知る、旅人たちに羨望される隠れた名店なのである。
ちなみに、この建物の入り口に立つ店の看板は、爺ちゃんの手書きなのだそうだ。
「そうか……」
異世界へ訪れる度に、さも当然の様にアーデライードに引っ張ってこられたこの酒場が、爺ちゃんの残した痕跡の一つだとは。さすがに思いも寄らなかった。
そう知り得た上でこの酒場の内部を見渡すと、感慨もひとしおである。
「アデリィは、ただお酒を飲みに来たかっただけじゃなかったんだね」
「んん、何か言った?」
アーデライードはちょうど葡萄酒の入った木樽ジョッキを手にしたところであった。
「いや、なんでもない」
どうやらお酒はお酒で大変お好きなようである。
ほんのりと桜色に染まった頬をしたほろ酔いの美少女は、金色の長い睫を揺らしてチラリとこちらを見た。
「何か言いたそうね」
「そんなに飲んでよく酔わないね」
「私は精霊使いよ? 酔うのは精霊の仕業。だから私には関係ない」
アーデライードのいう通り、いくら飲もうといつも澄ました顔をしている。
彼女曰く、水の精霊が常に体内を駆け巡っているのだという。それにより酒酔いや狂気の精霊を近づけさせない。よって酔い潰れることはない。最高位の精霊使いとは、そういうものだ――という説明であった。
「それが
「そうよ」
彼女は異世界に於いて、最高位に位置する精霊使いであるという。
瑛斗はそれをよく知っている。何故ならば幾度となくアーデライードの召喚術を目にしてきたから。そうして彼女の実力を、その身を以て実際に味わっているからだ。
それというのも、瑛斗は異世界へ足を踏み入れたあの日より半年間ずっと、アーデライードによる剣と魔法の稽古ばかりで、冒険らしい冒険を一切させて貰えないでいる。
まずは異世界で生き残るための修業を――それが彼女の言い分だった。
だがそう言うだけあって、アーデライードのつける稽古は素晴らしい。
自身の巧みな剣術、身軽な体術。そして精霊使い最高峰の召喚術。彼女による
何よりも豊富な経験から生み出される
「思えばあの日、最初に出会ったのがアデリィだったね」
「ん、そうね……」
アーデライードはつまらなさそうな表情で頬杖を突きながら、木樽ジョッキのフチを人指し指でそっとなぞる。
瑛斗が異世界へ最初の一歩を踏み出したあの日――長いトンネルを抜けると其処は、昼なお暗きグラスベルの森の中。だが洞窟出口の正面、ただ其処のみが木々の隙間よりぽっかりと光が射し、奇跡的に小さな花畑を作っていた。
眩い光に目を細めながら歩み出ると、小さな祠が一つ。その隣には石碑らしきものがあり、その前には大きな花束を抱えた美少女が、茫然とした表情で立っていた。
「ゴトー……」
彼女がそう呟いて花束を取り落とすと、足元に多種多様な色彩が散らばった。突然、森の中へ吹き込んだ一陣の風が、色とりどりの花弁を舞い散らす――
グラスベルの深き森の中、光溢れる小さな花畑の真ん中で、二人は出会った。
「聖なる森の祠。あの洞窟の先……あなたたちにはその先があるけれど、私たちには岩壁の行き止まりしかない」
防空壕のその先へ。爺ちゃんの掘り当てた洞窟を通り抜けて、瑛斗は異世界へと辿り着く。だが、アーデライードたち――つまり異世界の人々たちにとっては、単なる岩壁の行き止まりになっているだけなのだという。
「次元が違うのだ、と、古き友は言っていたわ」
そう口を尖らせるアーデライードは、置いてけぼりの子供みたいな表情をして「詳しいことが分からないのだけれど」と前置きした上で、簡単に説明してくれた。
瑛斗の世界とこの異世界。共に同じ三次元ではあるが、三次元は一つのようで、一つの次元ではなく、コンマ以下の多種多様な次元が存在し、別れているのだという。
例えば、三次元コンマ零零零零……一、と紙一重の次元が違うだけで、あの世界の法則は、この世界と様相が大きく異なった世界と成る。
そして不文律がもうひとつ。低次元のものは高次元へ移動できない。だが高次元のものは低次元へと移動することができる、らしい。
「ほんの零コンマひとつ次元が違うだけで、私は貴方の世界へ行くことができない」
何処か遠い瞳で、アーデライードがぽつりと呟いた。
それは瑛斗に向けての言葉だったのか。それとも、ここにはいない誰かに向けたものなのか。その判断はつかなかったが、瑛斗には思うことが一つある。
「でも本当に良かったよ、アデリィ」
「なにが?」
アーデライードは小さな舌先でジョッキを舐めつつ、さも心当たりがないという目で瑛斗を見返した。
「初めてこの世界で出会えたのが、君で」
瑛斗はそう言うと、屈託のない満面の笑顔でニッコリと微笑んだ。
彼女の導きがなければ、異世界で路頭に迷っていたかも知れない。そう思い当たることが幾つかある。もしかしたら天国の爺ちゃんが彼女に逢わせてくれたのではないか。日頃から感じていたことを、瑛斗は素直に口にした。
言われた当のアーデライードといえば、への字口で固まったまま身動き一つしなくなった。その時、彼女の頭の中では、色んな気持ちがぐるぐると渦巻いていたのだ。
全く本当に、一体どうして……ああ、油断した。なんてことなの!
何故この一族は、自分の心をいとも容易く射抜いてしまうのだろう。
そうだ、瑛斗が初めて異世界の洞窟を潜り抜けてきたあの日――
四季の折々で勇者ゴトーの記念碑に花束を欠かさぬアーデライードは、かの勇者の面影をよく残す少年と出会った。
全身に雷撃が走った。あの時の、初めてあの人と出会ったあの時の、あの過去の思い出が鮮明に蘇る。あまりの出来事につい「ゴトー……」と声を漏らす程に。
「君は……この世界の人かい?」
そう自身へと発せられた声は、まさにゴトーそのもののように感じられた。
あの出会いもそうだ。怯えて動けない私に何事か尋ねたのを思い出す。
ああもう、ずるいずるいずるいずるい!
あの人によく似た、浅黒く焼けた肌に顔立ちに背格好。それだけでも、ずるい。
彼の中に色濃く残るあの人の思想に、柔らかだが強い意志を感じる物腰。
何よりも、時折彼から紡ぎ出される思いがけない言葉の数々。
ふとした瞬間に訪れる、私の心を捉えて離さない、
まだ幼かったあの頃では決して気付けなかった、胸の奥に秘めていた気持ち。
今だったらきっと分かることだろう。いや、分かり過ぎて胸の奥が痛い。
でもこんなこと誰にも言えない。決して誰にも言えるものか!
齢八十を超えてようやく思春期に到達する、長命なエルフ一族の宿命だとしても、だ。
かの勇者の孫を前にして、恥ずかしい姿など見せられるはずがない。
いつだって背筋を凛と伸ばして、尊敬される先達になろうと心に決めたはずだ。
鎮まれ、鎮まれ、心臓の鼓動!
アーデライードの固まった表情は、必死に冷静さを取り戻そうとした結果だった。
その間、瑛斗はアーデライードの気持ちを露知らず、ぼーっとしていた。突如、身動き一つしなくなった彼女を前にして、やることを失ってしまったからだ。
仕方なしに手近なミートボールを
諦めた瑛斗は頬杖をつくと、その固まった彼女の表情をぼんやりと眺めた。
白磁のように滑らかな白い肌。ガラス細工の様に繊細な鼻筋の曲線。仄赤く色づき始めた果実のような口唇。白銀に蜂蜜を一滴落としたような金色の長い髪――
じっとしている彼女の造形は、芸術作品でも眺めているような気持ちになる。
そうしていると、さすがのアーデライードも瑛斗の視線にはたと気付いた。
「……なによ?」
美術館に飾られた芸術作品のように固まっていた彼女が、瑛斗の視線に気付いて不満を漏らす。その抗議を受けて、瑛斗はつい莫迦正直に思ったままを口にした。
「いや、綺麗だなぁって」
「なんだ、そんなこ……ふっ、ふえっ? ふええっ?」
一瞬聞き流しかけたアーデライードだったが、もう駄目だった。口籠った。
まだ口元は何やらもぐもぐと動いているようだが、何を言うわけでない。そうしているうちに、ハイエルフの特徴である長く尖った耳が、ふるふると震えてみるみる赤くなってゆくのが見て取れた。
如何に鈍感な瑛斗でも、その姿を見ればアーデライードを不本意に辱めてしまったことくらいはわかる。瑛斗は慌てて、頭を掻きつつ詫びた。
「その、ごめん……爺ちゃんから『エルフ族はとても美しい種族だ』って聞いていたから、つい見とれちゃったんだよ」
爺ちゃんの話してくれたお伽噺のような英雄譚――そこに登場した亜人類の中でも、とびきり出会いを待ち侘びた種族・ハイエルフ。その夢にまで見たハイエルフの中でも、特に飛び抜けた美貌で知られるアーデライードが、目の前でじっとしていたのである。
失礼とは分かっていても、ついつい見とれてしまう。瑛斗としては、実に正直な気持ちだった。だがそれは、火のついたアーデライードの頭へと油を注ぐ行為に等しい。
「あっ、アデリィ……怒った?」
彼女は音を立てて椅子を引くと、急に立ち上がり何も言わず後ろを向いた。そして唐突に彼女が口にした言語は、ハイエルフ族のみに伝わるという古代精霊語――
「ゴトーの莫迦ッ!! ……一度だってそんなこと言ったことないクセに、孫にはそんなこと言っちゃって……ずるい! そんな台詞、ずるいずるいずるい!」
口から零れ落ちそうだった台詞をようやく吐き出した。ハイエルフ以外は知り得ぬ言語だから、瑛斗には理解できなかった筈だ。
勇者の孫は鈍感で正直。大胆で無邪気。そんな瑛斗の性格に、時折振り回される。
「あのさ、こっちを向いてくれないかなぁ……?」
そう言われても、アーデライードはもう振り向けなくなっていた。
今、いったいどんな顔をしているのだろう。
彼女の顔の体温は、既に限界値を突破している。だから多分……いや、間違いなく顔は
ちなみにその日のことだ。酒場一階の窓の外では、お調子者の花の妖精たちが、春の到来を祝うが如く狂喜乱舞していた、という目撃談が多数残っている。だがそれはまた別の物語である。
ふわり、ふわりと春の到来を予感した花の妖精たちが、二階のウッドデッキまで到達する前に、アーデライードはなんらかの行動を起こさなくてはならない。
「ちょ、ちょっと、ア、アーデライ……アデリィ!?」
一切振り向く事無く、細い右腕を伸ばして木樽ジョッキを手荒く掴むと、もの凄い勢いで一気飲みし始めた。
「それ、葡萄酒……」
この細い身体のいったい何処へ葡萄酒は吸い込まれていくのだろう?
ごくごくと飲み干すと、だぁんと音を立ててジョッキを置いて、ぷはぁっと大量の酒気を吐き出した。
「そんな一気飲みしたら、悪酔いしちゃうよ?」
「しっ、しないわよっ!
やっとこっちを向いた彼女の顔色が、見る間に赤く色づいてゆく。
乱れに乱れきった精神では、精霊たちへの支配力も当然に低下している。いつも使役している精霊たちもすっかり浮かれきっていて、きちんと仕事などすべくもなかった。
真面目な高校生の瑛斗には酔っぱらいの仕草など分からないが、どう傍目に見てもゆらゆらと身体が揺れ、視点が定まっていない――ような気がする。
「なぁ……やっぱり無理をしたんじゃ……」
もう酔いがすっかり回ってきているんじゃないだろうか。
「はン? まさか精霊使いの私が――酔いへずらいららい!」
「らいららい?!」
ああ、もうダメだ。完全にアデリィの呂律が回っていない。
今日一日は、このテーブルトークで終わってしまうことになりそうだ……
期待の血湧き肉躍る冒険はいつになることやら。瑛斗は深い溜息をつくのであった。
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