第31話 ハイエルフと行く山岳地帯の旅(前篇)

 山間の街・テトラトルテ。

 峻険な王弟公国内中部山脈を越える手前の宿場街として、その歴史は始まった。

 その後、四方を自然豊かな山地に囲まれたこの街は、豊富な森林資源を利用した林業を中心として発展を遂げた。その他の主だった産業は養蚕。良質な絹糸の産地でもある。


 公国府・ヴェルヴェドを出発して半日。

 瑛斗ら一行は四人の騎士たちに同行し、この山間の街・テトラトルテへ到着した。

 彼らの馬車に相乗りできたお蔭で、昼を過ぎた頃には辿り着くことができた。


「いやー、馬車って便利ねぇ!」


 本来ならば丸一日掛けて踏破する道のりを、わずか半日。馬車のおかげで楽ができたせいか、アーデライードは上機嫌である。

 なお、上機嫌な理由はもう一つ。それは女騎士・ソフィアの存在だ。

 いつの間にか意気投合を果たしていた二人は、移動中もずっと親しげに何やらお喋りをし続けていた。元々お喋り好きなハイエルフであるから、ソフィアが聞き上手といったところか。男である瑛斗とはなかなか出来ぬ女同士の話題などを、移動中もここぞとばかりに楽しんでいたようだ。

 アーデライードには意外と人見知りな面もあるので、これはいい息抜きになったのではないだろうか。彼女の場合、人生そのものが息抜きのような気もするが。


 さて、古代の馬車は乗り心地が最悪である――という情報を瑛斗は仕入れていたが、なかなかどうして。思わぬほどに快適であった。

 どうやら馬車には様々な工夫がなされていたようだ。柔らかい木を巧妙に仕込んだサスペンションのような細工。車軸にはベアリングのようなもの。また車輪にはゴムのような樹液が厚く塗りつけられていた。

 このあたりの工夫は、戦乱の世が生み出した戦車の仕組みが応用されているらしく、ここ数十年の内に発展を遂げた技術のようだ。奴隷解放戦争の副産物といったところか。

 それでもレイシャは「おしりいたい」と呟いていた。痩せぎすな彼女の身体では、木造のベンチは堅過ぎたのだろう。厚く巻いた布を尻の下に敷いてやっていたが、それでも大した効果はなかったようだ。

 いつもだったらそんなレイシャを見かねた瑛斗が、彼女を膝の上にちょこんと乗せて抱っこしてやっていたところだ。そしてアーデライードが何故か歯ぎしりをする――という展開となっていただろう。ただし瑛斗は今回、馭者台にいたのでそれが叶わなかった。

 何故ならば瑛斗は、ドラッセルから馬車の操作を教わるなどしていたためだ。

 瑛斗は異世界での移動に関して、乗り物を操る技術の必要性を痛感していた。移動手段が徒歩のみでは、異世界中を渡り歩くことなど到底不可能であるのだから。

 異世界を救った勇者である爺ちゃんは、世界中を旅して回ったという。なれば様々な移動手段を駆使していたはずである。

 瑛斗が経験した中で言えば、初めての旅では徒歩と船。今回の旅では飛龍ワイバーンと船と馬車。その他には一般的な移動手段として、馬術なども身に付けねばなるまい。

 その一環として、ドラッセルに頼んで馬車の手綱を握らせてもらったのだ。


「で、初めての操縦はどうだったの?」

「うーん、まだまだかなぁ……」


 アーデライードに問われた瑛斗は、どうにも納得がいかぬ様子で首を捻る。瑛斗がそう答えるのを耳にしたドラッセルが、背後から声を掛けた。


「いやぁ、なかなか筋は良かったぜ、エイト」

「そりゃあ、ドラッセルがいたからだろ」

「何言ってんだ。初めてでそう上手くこなされちゃこっちが敵わんぜ」


 ドラッセルは豪快に笑いながら、無遠慮に瑛斗の背中をバンバンと叩く。


「ま、あの調子なら間違いないな。すぐに上手くなるぜ、エイト」

「だとしたら、ドラッセルの教え方が上手かったんだよ」

「うはっ、嬉しいこと言うねぇ、エイト! ……干し肉食うか?」


 そう言うとドラッセルは腰の皮袋から、大量の干し肉を差し出した。どこからか何かしら大量の食い物が出てくるのは、この大男の特徴だろうか。だからこんなに大きく育ったのかも知れない。大して身長の高くない瑛斗は、羨ましげにそう思う。


「ありがたく頂戴するよ」


 苦笑いしつつ、瑛斗は一本受け取った。彼の真似をしてよく食べて、よく運動して、もうちょっとだけでも大きく育ちたいと願う瑛斗である。

 そんな様子を見たアーデライードは「いつの間にかあのデカブツと仲良くなっちゃって、まぁ……」と微笑ましげに眺めていたが、それはお互い様であろう。



 山々に包まれたテトラトルテの閑静な街中を、水に濡れたような石畳を踏みしめて歩く。

 日中のこの街は、普段から比較的閑散としているのだという。林業を主とした男たちは木を切り出しに山へ、女たちは養蚕に励むために家屋へと引き籠るからだ。

 それでも今は祭りの準備期間のせいか、ある程度は路を行き交う人々の姿があった。とはいえ、今まで訪れた街の中でも群を抜いて人出は少ない。そんな街の様子を窺いながら、特に当てもなく二人のエルフと共にのんびりと歩く。


「なーんか陰気な街ね……どうにも活気を感じない」


 アーデライードにそう言われて周囲を見渡すに、みな一様に疲れ切った顔をしているように見える。船旅の途でアードナーたちの憤り――政情不安の状況下であることを聞いていた以上、それは只の気のせいではあるまい。

 公国府・ヴェルヴェドでも感じたことであったが、重たい空気と精気マナの希薄さのようなものを、瑛斗はこの街にも感じていた。現実世界では気付かなかった人々の活気や精力のようなものを、ここ異世界ではダイレクトに感じられる気がする。

 そのあたり、魔法や怪物といった不確定なものの存在する世界故だろうか。

 エルフたちと旅に必要な消耗品を買い揃えて、馬車を止めた馬場へ戻る。

 丁度アードナーとドラッセルが台車から馬を外す作業を終えて、木箱に腰掛けて一休みをしているところだった。


「どーよ、この街は?」

「あまり活気を感じないね」

「まぁ……今は何処もこんな感じさ」


 苦々しげに吐き捨てる相棒アードナーを、ドラッセルは苦笑いしてなだめる。そうして無造作に散らばっていた木箱を引き寄せると、瑛斗らへ隣に腰かけるように勧めた。


「不況の波は、地方都市を狙った様に疲弊させる」


 そう切り出すとドラッセルは、街の現状を瑛斗に説明をしてくれた。

 公国を襲っている不況は、各都市の発展を妨げ、木造建材などの需要を激減させているようだ。そうなれば林業で発展を遂げた街、テトラトルテを直撃する。

 しかしそういった不況の嵐は、何もテトラトルテの街だけに限らない。どこの地方都市であろうと、同じような状況に晒されているといえよう。

 ドラッセルは自らを冷静に律ながら、中立的な立場で公国の現状を丁寧に解説してくれた。だが一通り話し終えると、耐えきれぬ様に深く嘆息する。

 外様騎士としてこの地に深い愛着を持つドラッセルである。やり場のない怒りとやるせない気持ちを、酒に頼って吐き出していた理由を垣間見た気がする。

 そこへ騎士屯所へ立ち寄っていたエアハルトとソフィアが戻ってきた。


「どうにも悪い話ばかりだ」


 エアハルトまでもが開口一番、状況の良からぬ噂を口にした。


「景気は悪化の一途を辿り、失業する者は後を絶たんそうだ」

「中には山賊や、盗賊へ身を落とす者もいるらしいわ」


 エアハルトと口を揃える様に、ソフィアまでもがそれに続いた。

 景気の悪化は、治安の悪化を招く場合が多い。各都市の警護や要人の護衛を務める騎士団として、それは由々しき事態であり、避けなくてはならない懸案だ。


「くそっ! どれもこれも、今の公国議会による悪政のせいだ!」

「騎士はそういうことを言うものじゃないわ」


 悪態をつくアードナーを、ソフィアがやんわりとたしなめる。


「目下、我らの任務は、テトラトルテの催事における警護にある」


 エアハルトは銀の皿騎士団が担う今回の任務を冷静に言い放つ。


「まずはこの任務を成功させねば、上奏どころか申し開きもできんぞ」

「わかってるさ、エアハルト」


 アードナーがそっぽを向きつつ、尻を払って立ち上がった。


「今はやれることをやるしかねー。あんな失態は二度とゴメンだ」


 その言葉を聞いたドラッセルは「うっし!」とひとつ唸ると、真一文字に口を結んだままアードナー同様に立ち上がった。

 それを見たエアハルトは端正な顔を緩めてフッと笑い、ソフィアはちょっぴり嬉しそうに口元へ指を当てる。

 もう二度と、諦めることはない。やれることはやり尽くす。

 四人の騎士たちの間に、そんな気概が見て取れた。



 午後も引き続き、騎士たちと行動を共にすることとなった。

 もちろん瑛斗に異議はない。元々彼らと知り合わなければ、丸一日かけてここまで辿り着き、泊まるだけのつもりだった街だ。予定がなければ、用事なども特にない。折角意気投合したのだし、ここで別れるのも名残惜しい。そんな思いがお互いの心にあったのだろう。どちらが言いだすわけでなく、自然とそういう流れとなった。

 こうして総勢七人のパーティは、遅い昼食を摂るために食事処バルへと入る。


「申し訳ないが、すぐに終わりますので」


 瑛斗たちにそう告げて、エアハルトは任務について騎士たちと打ち合わせをし始めた。

 今しがたテトラトルテ駐屯所の騎士長とおこなった簡単な打ち合わせにて、今回の任務はエアハルトが中心となり指揮を取ることとなったという。内務や事務に関しては、この若き騎士が騎士団の中で最も長けているから、というのがその理由だ。

 エアハルトはこの街へ到着するまで、ずっと背負っていた銀の筒を外す。

 中身を取り出して広げるそれは、テトラトルテの周辺地図であった。詳細な地図ほど国政に於いてあらゆる局面で貴重な情報となる。よって国の重要機密と言えよう。

 故に慎重派のエアハルトは、その身から離さぬよう大切に扱っていたのだ。

 その様子を見ていたアードナーが、余計な茶々を入れる。


「相変わらずエアハルトは几帳面だな」

「当たり前だろう。お前が大雑把だから仕方がない」


 この若き騎士は、出会った当初から妙に落ち着き払っていたが、常に物事を俯瞰し、冷静沈着に取り仕切る癖がついているようだ。

 それもこれも全てはこの、くすんだ赤毛の幼馴染に起因しているのだろう。


「ふーん」


 そのやり取りを見たアーデライードが、小生意気な態度で鼻を鳴らす。先付けに出された炙ったバケットを、誰よりも真っ先に摘み上げて、


「よっぽどアードナーがヤンチャだったのねぇ」


 と呑気に呟くと、隣のソフィアがクスクスと笑う。どうやら図星のようである。

 相変わらず一言多いお気楽なハイエルフを、ぶっきらぼうなアードナーが三白眼でジロッと睨んだが、すぐに地図へと目を落とす。


「それで、オレはどの地区を視察すればいい」

「そうだな……」


 地図とともに過去の資料と合わせ、当日警護を行う場所をすり合わせてゆく。

 アーデライードがバスケットから二つ目のバケットを摘みつつ、ふんふんと鼻を鳴らしてテーブルに広げた地図と資料を覗き込む。そうして形のいい顎を撫でながら、


「この目抜き通りと各十字路へ重点的に人員を配備しつつ、人波の移動と共に配置を柔軟かつ速やかに変更して、見物客をそれぞれの順路へと誘導するのがいいみたいね」


 広げた地図と資料の内容を一目で看破して、何食わぬ顔でバケットに齧り付く。

 これ以上の説明はもうないのだろう。瑛斗は声を失ってしまったエアハルトへ、


「彼女は、文章や地図を読み解く熟練者エキスパートなんだ」


 と、アーデライードの正体をぼかしつつ、簡単なフォローを入れる。

 確か彼女は、六英雄パーティの中で地図製作者マッパー担当であったはずだ。初めての旅の中、レイシャのたどたどしい説明ひとつでさらさらと地図を作製していたことを思い出す。

 暫し呆気にとられていたエアハルトが、意を決したように口を開く。


「……失礼だとは存じますが、この浅学非才の身にご教授頂けませんか?」

「そうね、ここの昼食の支払いは?」

「当然、私が」

「呑み込みは早そうね。いいわ、次の料理が届くまで教授レクチャーしてあげる」


 教師アーデライードの教え方が上手いのか、生徒エアハルトの呑み込みが早いのか。次の料理が届くまでに、すっかり打ち合わせを終えてしまった。

 おかげで、全員が揃って昼食と会話を楽しんだのは、言うまでもない。



 昼食後、腹ごなしに視察と称して街をぶらりと歩くことになった。

 瑛斗と視察を共にするのは、ソフィア曰く「バカコンビ」ことアードナーとドラッセル。地味で地道な内勤は、エアハルトに全て託した。今頃は屯所で書類や資料と格闘しているところだろう。彼が器用貧乏の貧乏くじ、苦労性と称する理由の一端を、少し垣間見た気がする。

 アーデライードはといえば、ソフィアに誘われてメイプルシロップがどうとか言いながら、さっさと何処かヘ行ってしまった。食後のデザートは別腹、という女の子特有の内臓器官が成せる技だろうか。その団体行動にレイシャも付き合わされている様である。

 ちなみに、アーデライードがソフィアに誘われたのか、ソフィアから聞いたアーデライードが行きたいと駄々をこねたのか。その真偽の程は定かではない。

 さて、瑛斗を先導して案内するはドラッセル。相棒のアードナーと共にバカな話に興じながら、懇切丁寧に街の中を説明してくれている。見処の少ない閑散とした街であったが、見知らぬ土地を巡り歩くのは、それだけで楽しいものだ。

 異世界を観光中に瑛斗はいつも思うのだが、名所など何もなかろうが物珍しく感じた場所ならば、つい写真を撮りたくなる。それは日本人的な発想と行動だろうか。

 当然だがデジカメなどの機器類は、異世界へ持ち込んでいない。だから電磁的記録を残すことが出来ないが、それだけはどうにも惜しいことだ。

 騎士たちの案内で目抜き通りへ出てみると、流石に人通りが多くなった。

 目抜き通りメインストリート――と呼ぶにはやや殺風景な街並みであったが、それなりに商店が立ち並び、疎らではあるが所々に人だかりもできている。

 それらの人込みは祭りの準備であろうか。日用品ではない資材を買い入れたり、運搬する人々の姿などがそこここに見えた。

 今まで巡ってきた街と違って、決して華やかさのある風景ではない。

 だがこれは、むしろチャンスではないか。観光地や名所ではないからこそ、普段の街の様子を窺い知ることができる。瑛斗はそう考えたが、もちろんそれには理由がある。

 運命の森に於いて出会った盲目の皇女・イリス。瑛斗はそのイリス姫の瞳に代わり「俺は俺の冒険でこの国を見極める」という約束を彼女と交わしている。だからその約束は絶対に守りたい。見極めねばならない。

 折角の機会だ。ぶらぶらと歩きつつも、街の様子をつぶさに観察することに決めた。

 行き交う人々からは、相変わらず活気や活力といったものを読み取れない。どことない気怠さや無気力感、意気消沈し、疲れきっている様子が見て取れる。

 ただ一方で、皆一様にどこかそわそわと浮き足立って、心ここに在らずという空気も感じられた。これはきっと来月に迫った祭りの季節到来と関係がありそうだ。

 不景気な状況でも祭りの開催は、陰鬱な気持ちを一刻いっときでも忘れさせるものだ。街中で着々と進んでいく祭りの準備作業は、待ち侘びていたその瞬間を人々に予感させるのだろう。誰しもが来たるべき祭りの瞬間に思いを馳せている。きっとそんな感じだ。

 現実世界に当て嵌めるならば、例えばクリスマスの前夜。寒空に凍えつつも、どことなく心躍らせながら街を行き交う人々の、その風景とよく似ている。

 そこまで考えたところで瑛斗はふと立ち止まる。思えば街を行き交う人々の心情を窺い知ろうだなんて、今まで試したこともなかったことだ。もしかしたら魔力を持たぬ瑛斗でも、異世界では感覚が鋭敏に研ぎ澄まされているのかも知れない。

 元より異世界どころか現実世界で試したことなどないが――そんなことをぼんやりと考えていたら、ドラッセルから声を掛けられた。


「おうエイト、どうしたぼーっとして」

「いや……なんだ?」

「ん、フライドチキン食うか?」


 ドラッセルの指差す先を見てみると、一軒の商店が香ばしい良い匂いを漂わせている。熱した油に満たされた大鍋で、明らかに何らかの揚げ物をしている様子だ。

 確か今は、腹ごなしの為に散歩……否、視察中ではなかったか。ここで食ってしまっては、腹ごなしの意味はないと思うのだが。


「うーん、そうだな。五本、いや十本くらい買ってくるか?」

「よく食うなぁ。食うとしても、俺は一本でいいよ」

「そうか? エイトは少食だな」


 不本意な事を言われた。負けず嫌いを発揮して何本か食べてやりたくなる。

 のしのしと商店へ向かうドラッセルの大きな背中を眺めつつ、アードナーと二人で買い終わるのを待つことになった。

 ぶっきらぼうなアードナーは、腕組みをして口をへの字に曲げたまま、何も言わずにその場で突っ立って待つ。瑛斗もそれに倣ってすぐ傍に立ち、アードナーを眺めた。

 この男も長身で、如何にも武門の騎士らしいがっしりとした体格をしている。いつも巨漢のドラッセルと並んでいるので、なかなかそうは見えないが。

 その横に並んだ瑛斗はと言えば、小柄でまだ少年の域を出ない身体つきと言える。だから二人並べば、どうしてもアードナーの陰に隠れてしまう。

 瑛斗の持つ理想の勇者像とは、堂々たる体格で先頭に立ち、パーティを率いるに相応しい風格を漂わせている――そんなイメージがある。

 四人の騎士の中で最もそのイメージに近しいのは、このくすんだ赤毛のアードナーだろう。ぶっきらぼうで無鉄砲な彼であるが、国を憂う熱血漢であることは間違いない。

 つい先走ってしまったり、多少抜けているところもあるが、それでも常に先陣を斬って突っ走る、そんな姿がよく似合いそうだ。戦隊ヒーローモノでいうところの、レッドのようなポジションだろうか。

 背の高いアードナーの隣で彼を見上げつつ、そんなことを考えている時だった。


「おっと、ごめんよ!」


 突然路地から飛び出してきた、ひょろりと背の高い女にぶつかられた。

 瞬間、瑛斗は腰の辺りをぐいっと背後へ引っ張られる。


「あっ、スリか!」


 女の手にある物――それはウエストポーチに入っていた瑛斗の革財布だ。

 その財布はしっかりと細めの鎖で結びつけてある。瑛斗の世界から持ち込んだ細めだが頑丈な鎖。用心深く慎重な瑛斗が、万が一に備えて付けておいたものだ。

 盗賊に身を落とす者は多いとエアハルトから聞いてはいたが、こんなにも早く遭遇することになるとは。備えあれば憂いなしということわざが脳裏を過る。

 スリの女盗賊は「チィッ!」と舌打ちして、引きちぎらんばかりに財布を引っ張った。だが細身とはいえ硬度の高い現実世界の鎖である。そうそう引きちぎれるものではない。

 そんな揉めている二人の真ん中に、小さな皮袋が宙を舞った。

 ウエストポーチに入っていたそれは、激しく引っ張られた鎖に弾かれて飛んだのだ。瑛斗が手を伸ばすよりも素早く、女盗賊がタッチの差で皮袋を掻っ攫う。


「ウルァッ!」


 雄叫びと共に放たれた拳による鋭い殴撃。アードナーがスリの女へボディブローを食らわせたのだ。重量級の彼の拳が容赦なく横っ腹へぶち込まれると、彼女は数メートル吹っ飛ばされた。

 だが女盗賊は倒れない。いや、まるで全くダメージを受けてない様子だ。

 小さな皮袋を掌の上で弄びながら「へへっ」と嘲嗤あざわらった。どうやら二人に見せつけて挑発しているのだ。余程腕に自信があるのだろうか。

 奪われた小さな皮袋の中には、チルダから受け取った金貨が入っている。それだけはなんとしても取り返さねばならない。

 間合いはやや遠かったが、瑛斗は一切の躊躇を見せず。一足飛びに彼女の懐へと飛び込んだ。


「うっ、早ッ……!」


 身を捻って横に躱そうとした女盗賊を、地を蹴って追尾する。背負っていた片手半剣バスタードソードを抜き放ち、くるりと器用に回転させると、その柄を腹部中心へ目掛けて突き入れた。船上の決闘でアードナーを一撃の下に悶絶させた攻撃である。

 それでも彼女は倒れない。十分な手ごたえを得ていた瑛斗は驚いた。ニヤリと嗤った女盗賊は、後ろへ飛びのいてより十分な間合いをとる。


「ああん? まさかてめぇ……」


 この状況を見たアードナーには、何らかの心当たりがあるようだ。

 一連の出来事に異変を感じた周囲の聴衆から、徐々にざわめきが巻き起こる。すると女盗賊が聴衆の目を気にしてか、首に巻いていた長布を顔に巻いた。

 隠した顔の代わりに、長布に隠れていたボディラインが顕わとなった。細いウエストの割に豊満な胸。へそが見える丈の半袖に短パン。理由は分からぬが、まだ夏には早いと思われる程の薄着である。

 周囲のざわめきを受けて、ドラッセルもようやく気が付いたようだ。


「うん? おい何事だ、アードナー?」


 受け取った品物の料金を支払いながら、巨体を揺らして振り向いた。

 こうなると勝負相手は三対一となる。


「おっと、こりゃあいけないねぇ。退散させてもらうよ!」


 流石の女盗賊も俄然不利を悟ったか。獣の如く素早く踵を返した。

 瑛斗も間髪入れず、負けず劣らぬ素早い動きでその後を追う。


「うおぉい、ドラッセル! 他のみんなへ連絡入れとけ!」


 アードナーはドラッセルに向けてそう叫ぶと、一歩遅れて二人の後を追い駆けた。

 大量のフライドチキンを抱えたまま、一人ぽつんと残されたドラッセルは、状況をまるで掴めていない。ただ何か事件に巻き込まれたことだけは、はっきりと分かった。

 頭をボリボリと掻きながら、揚げたてのチキンを一本咥えると、


「ああ、全く……せっかちな連中だな!」


 と独り言ちて、アーデライードたちの向かった甘味処パティスリーへ向け、ドスドスと走るのであった。

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