第32話 ハイエルフと行く山岳地帯の旅(中篇)

 ここは山間の街・テトラトルテ。

 その街の入り組んだ路地裏に、息を切らして走る一人の女の姿があった。


「くそっ……苦手だ、こういうの……」


 簡単な仕事のはずだった。荒い息切れ声で苦々しそうに独り呟く。

 この女――スリによる金品の窃盗を、主な生業としている女盗賊シーフである。

 日々の糧を得るために、いつものように街中を歩きながら、今日の『被害者カモ』を物色していた時の事だ。

 目抜き通りへ出た所で、身なりからして羽振りの良さそうな騎士たちを見つけた。二人は大男。一人は小柄な少年で、背中に大きな剣を背負っている。


 瞬時に「これは好い『カモ』がネギを背負っている」と女は思った。


 なにせ身の丈程もあろうとかという大剣である。二人の大柄な騎士たちはともかく、背の小さなあの少年が、あんな大剣を振り回せるはずなどない。

 たまに居るんだよな、金持ちの坊ちゃん騎士の中にはあんな見栄っ張りが。

 ああいうボンクラから金を巻き上げるのが、真っ当な盗賊シーフとしての役割だ。

 そう目星を付けて標的を定めると、チャンスはすぐに訪れた。

 一番大柄な騎士が、屋台へ足を向けたのだ。残った二人も棒立ちのまま。少年の持つ財布は、背中側に回したウエストポーチの中にありそうだ。これなら後ろから忍び寄れば、間違いなくイけると思った。あんな出来事さえなければ。


 ま、なんとかかんとか色々あって。

 どうにかこうにか小さな皮袋をまんまとくすねた。それまでは良かった。


 だが今はそれどころではない。この皮袋を取り返そうと背後から追っ手が迫っている。

 追い駆けてきているのは、言うまでもない。小柄なクセに長大な片手半剣バスタードソードを軽々と振り回す、今までに見たこともないようなヘンテコな少年だ。

 荒れ狂う暴風のような膂力を持ちながら、妙に身軽でおまけに素早しっこい。これは予想外の素早さで、厭らしい程にねちっこい。

 とはいえ自分も足の速さには相当な自信がある。この俊足に追いつける者など、これまでそうはいない。現にこの少年も、今にも迫りくるといった気配は全く感じなかった。


 ――そのハズだった。


 このへんてこな追跡者は、トップスピードで追い駆けるような真似はしない。一定のスピードと距離で着かず離れず。多少距離を離されてもまるで動じない。

 角を幾つか曲がって引き離したつもりで振り向くと、何時の間にかすぐ後ろに姿を見せる。その度に女盗賊の肝をこれでもかと冷やす。

 当然すぐさま韋駄天に任せて、この追手のヘンテコ少年をすぐさま引き離す。

 もちろん追いつかれる気はしない。だが引き離せる気もしない。

 どこか妙で不思議な、ねっとりと纏わり付くような違和感。それが気になって仕方がないので、違和感の元を払拭しようと必死に思い出す。

 これは何処かで見知っているはずだった。獲物を追い詰めるような執念深い様。


 ああ、これはまるで――そうだ、これはまるで、狩人レンジャー

 この少年の追跡技能トレーサビリティは、間違いなく狩人レンジャー技術スキルだ。

 そう気が付くと、女盗賊は苦しげに顔を歪ませながら、憎々しげに呟いた。


「まるで、狩りをされているような気分だ……」


 当初は獲物を探していたこちらが狩る側だったはず。それがいつの間にか、狩られる側に回るとは。そう気付いてしまうと胸の鼓動が跳ね上がり、急に呼吸も苦しくなった。

 戦士然とした風体の少年が、何故こんな技術を身に着けているのか。

 そんな疑問はすぐに霧散するほど、余裕をすっかり失ってしまった。


 女盗賊がそう意識し始めた頃。瑛斗も同様に思い出す。


 アーデライードの指導の下、聖なる森グラスベルの森の中で培った技術のひとつ、追跡技能トレーサビリティ

 冬休み中、アーデライードから「将来必ず役に立つから」と告げられて、必死に技術スキルを磨いた、あの厳しい修行の日々。

 厳しい修業と言っても、あの能天気なハイエルフから叱咤されたり、激励を受けたりしたわけでは決してない。彼女はそういうの体育会系のノリが全然好きじゃない。そもそも修行という言葉からして大嫌いだ。


 だから瑛斗は、ただ単に「からかわれまくった」だけである。


 それは、雪深い聖なる森グラスベルの真ん中で、無邪気そうなハイエルフを追い駆けるだけ。単にそれだけの修業であった。

 ただそれだけであったが、あれほど過酷なものは他にない。森の中のエルフ程、凶悪な組み合わせはないと思い知ったものだ。

 アーデライードは一切迷うことなく、スルスルと森の中を駆け回った。藪に姿を潜ませたかと思うと、背後から竹刀で斬り掛かる。そして明るい笑い声と共に、再び何処いずこかへと姿をくらませるのだ。

 何というかアレは、鬼ごっこで運動神経の悪い子を鬼にして、からかっていような、いじめているような、アレ。瑛斗の印象としては、まさにそんな感じ。最悪である。

 そういえば随分と昔の映画で、ニワトリを追い駆けて修行するシーンがあったっけ。ニワトリの代わりにハイエルフ。と言えば、彼女は間違いなくムクれてしまうだろう。

 とはいえ、性格はともかく美貌の彼女を追いかけるのだから、ニワトリよりも幾分マシ――いや、性根が絶妙にひん曲がっていない分、ニワトリの方がマシだろうか。ニワトリが先か、ハイエルフが先か……と口には決して出せまい。瑛斗は筋肉痛に蝕まれつつ、そんなことをよく考えていた。

 ともあれ、森の中を舞うように駆けるアーデライードは美しかった。

 真っ白き雪に枝垂しだれるの木々の間を、ひらりひらりと跳び回るハイエルフの彼女。その肢体はまるで、森の一部のようであった。

 時に風が囁くかのように。時に川がせせらぐように。奏でる竪琴ハープの音色さえ聞こえてきそうな程、その姿は美に溢れていた。そんな麗しくたおやか美貌に、度々目を奪われてしまったものだ。

 それが過酷な修行中でなければ、尚良かったのだが。心からそう思う。


 鬼に金棒、虎に翼、獅子にひれ。そして、森にハイエルフ。


 そんな六英雄の彼女と手加減なしの真っ向勝負。負けん気が強く頑固な瑛斗は、決して弱音を吐かない。歯を食いしばって耐え抜いて、冬休みを全て使い切る直前だっただろうか。どうにか見失わない程度には食らいつけるようになった。そうしてアーデライードから免許皆伝のお墨付きを頂いのだ。

 その名も「まぁまぁ聖なる森グラスベルを歩き回れるようになったで賞」。その賞品として決められたルートのみ、グラスベル内を闊歩することを赦された。

 受賞したとはいえ、修行中に彼女の身体に触れることは、終ぞ叶わなかったが――


「……行き止まり?」


 山間の街・テトラトルテは、路地裏の奥の奥。

 瑛斗は遂に、高い煉瓦塀のそびえる路地裏行き止まりへと、女盗賊を追い込んだ。

 だが路地裏をすっかり把握していそうな彼女が、そんなミスをすると思えない。慎重居士の瑛斗は、罠の存在に注意する。レイシャと出会った時のような、括り罠ハングドマンだけは御免被りたい。

 彼女の腹を探る様に、瑛斗は慎重に問うた。


「どうした。観念したか?」

「フン、誰が観念するものさね」


 女盗賊は自信満々に鼻で笑って、憎まれ口を叩く。だがその顔は焦りに満ち、余裕などまるで消え失せているように見える。では、彼女は一体どうして。

 この女盗賊の顔付き、瑛斗はどこかで見たことがある表情だと思った。

 それは追い詰められた時の獣の目。野生生物が最後の切り札カードを切ろうとした時に見せるような、そんな瞳をしているように見えた。


「だがお前にはもう、逃げ道はないぞ」

「逃げ道? いや、違うね……こっちが追い込んだのさ!」


 女盗賊が無駄な憎まれ口を叩くくらいは、瑛斗も予測の範囲内である。その程度の脅しに屈するような、軟な鍛え方をした勇者の孫ではない。

 だが、その予測を大きく上回る出来事が、目の前で起ころうとしていた。


 ざわり……ざわり……


 女盗賊の腕が、肩が、身体が、ざわざわと風に揺れる草原の様に波打った。

 彼女は獣の様に呻きながら背を丸めて俯くと、背中の僧帽筋がみしみしと音を立てて盛り上がる。全身が獣の金毛に覆われて、顔が人らしからぬ野性味を帯びる。やがて顔の横についていた耳が大きく突き上がり、頭頂部へと移動した。


 これは獣人族ライカンスロープ。その半獣人化メイクオーバーである。


 ドルガン曰く、グレイステール山脈に数多く住み、鉱山の街・ラフタにもよく現れるという獣人族ライカンスロープ

 名前は聞き知っていたが、瑛斗が実際に目にするのは、これが初めてのことである。


 獣人族ライカンスロープの半獣人化。これは戦闘態勢へ移行した証だ。

 彼女が薄着だった理由――それが今、はっきりと分かった。獣人化に備えての事だ。

 太く逞しく変化した獣身では、服を台無しにしかねない。半獣人化で最低限必要な個所を服を破かず身に纏えるように、もしもの時に備えて薄着を着用していたのだ。

 そしてこの行き止まりを選んだ訳は、変身を誰の目にも止まらぬ様にするため。

 一連の状況を鑑みて、瑛斗はそう考えた。だが考えてばかりではいられない。


「……ふっ!」


 片手半剣バスタードソードを抜き放ちつつ、瑛斗は間合いを一気に詰める。構えた剣を最速のスピードで真一文字に振り抜いた。何しろ半獣人化をしている途中の今こそが、彼女一番の隙なのだ。ぼーっと獣人化を眺めているだけの瑛斗ではない。


 ズドッ!


 ……と、肉を殴打する低い音が響く。

 だが、女盗賊かのじょは吹き飛ばされても、倒れることはなかった。


 何故ならば、獣人族ライカンスロープには通常の武器が効かない。

 獣人族に有効な打撃は、銀の武器、魔法剣、魔法のみ。

 これが目抜き通りでアードナーの殴打と瑛斗の鳩尾打ちに耐えた理由である。


「ふふん、獣人族に刃物は利かないよ」

「そうかい?」


 瑛斗は当然、この獣人族ライカンスロープの特性を知っていて仕掛けている。だからこそ攻撃の手を休めるつもりはない。

 小柄な身を上手く回転させつつ、二撃目を上段から打ち込むと、流れるような動きで三撃目を叩き込む。瑛斗の重い攻撃に、流石の獣人族も吹き飛ばされて尻もちをついた。


「いぐっ……!」

「どうだ?」

「ど、どうもこうも、獣人族に刃物は利かないと……」

「でもちょっとは痛いだろ?」


 瑛斗が剣を振り上げ、唸りを上げるほどの容赦ない攻撃を仕掛けた。

 獣人族の女盗賊は為すすべなく、幾度もの攻撃をその身に浴び続ける。その度に彼女は、宙をくるくると回転するほど吹き飛ばされた。

 その様子を目にしつつ瑛斗は、トドメとばかりに地を蹴って宙を舞うと、今までの旅の中でも最大最高の打撃を脳天目掛けて振り下ろした。

 女盗賊は「ひぃっ」と小さく呻いて遂に頭を抱えるが――それを見た瑛斗は、彼女の頭部へ打ちこむ直前で、ぴたりと片手半剣バスタードソードを止めた。


「やっぱりな。確かにダメージを受けて死ぬことはないようだ」

「フ、フン! そうだ! 損傷ダメージは皆無だ。死ぬことはないぞ!」

「だがまぁ、上空一万メートルから墜ちても生きていられるなら信じるよ」


 その言葉に、女盗賊はうすら寒さがゾッと背中を通った。

 確かに、獣人族には通常の武器が効かない。ダメージは一切通らない。痛みも人類・亜人類らの半分以下に抑えられると言われている。だが触覚や痛みは、生物として大切な感覚だ。生物である以上、一切の痛みを感じぬことなど到底不可能である。

 通常の打撃が効かぬからといって、瑛斗の言うように、上空一万メートルから墜ちて生きていられる保証などどこにもない。むしろ山頂から滑落して死んだ仲間を知っている。

 その時、死んだ仲間の身体に傷は無かったという。では何故その者は何故死んだのか。それは、全身を突き抜けるほどの激烈な痛みで死んだのだ、と言われている。


 その事を知っている女盗賊は、心底震え上がった。

 この少年、常識より逸脱した打撃力を持つ。脅しには屈しない。ハッタリも通用しない。

 もしや、決して通常の武器では死なぬ身へ人並み外れた攻撃を仕掛け、尋常ではない痛みを食らわせて、それによって死へ至らしめようとしているのではないか。

 それはとても恐ろしいことである。そう考えたのだ。


 何としてでもこの場から逃げ出すしかない――獣人族の脚力を生かして、このヘンテコな少年の脇をすり抜けねば。

 こうなると、自ら行き止まりへと導いてしまったことが悔やまれる。

 女盗賊は意を決すると、ひとつ呻りを上げて瑛斗へ向かい突進した。

 瑛斗は既に気付いているが、この女盗賊は戦い方を知らない。

 恐らく今までは、器用度デキシティリティ俊敏度アジリティのみで、ここまでスリを続けてきたのだろう。よって盗賊シーフの身でありながら、強盗や襲撃といった戦闘とは無縁で過ごしていたようなのだ。

 それ故に戦闘に関しては、素人と言っていい程に場慣れしていない。

 瑛斗はタイミングを計ると、的確に狙い澄ました横撃を女盗賊の腹部へと叩き込む。またしても瑛斗の一撃を避けることなくその身に受けることとなった彼女は、無様なまでにゴロゴロと地を転がった。だがそれこそが、彼女にとって一瞬のチャンスとなった。

 痛みを堪えて間髪入れず、瑛斗の背後へ向けて全力で駆け出す。


「しまった……!」


 これが功を奏した。見事に瑛斗の背後へ抜けることができたのだ。

 スピードを緩めることなく、直前の街角を曲がろうとした時である。


「ぎゃん!」


 何者かが常軌を逸したスピードで飛び出すと、女盗賊の右腕の皮膚を引き裂いた。


「うぐっ……う、嘘でしょ……?!」

「やはり獣人族だったか」


 その攻撃の主は、くすんだ赤毛の騎士・アードナー。

 剣技鋭いその突き技は、船上での戦いとは比にならぬ俊敏さであった。


「はっ! 予想通りだ、そうだと思ったよ!」


 彼の言う予想通りとは、どうやら先程の目抜き通りでの戦いでビクとも倒れない女盗賊の姿を見て、彼女が獣人族であると気付いていたことを指しているようだ。

 それならそうと、もっと早く言ってくれないと困る。今や周知の事実なのだから。

 そうこうする内、自らの身を傷つけた剣に怯んだ獣人族の女盗賊は、アードナーから大きく距離をとる。その結果、またしても瑛斗に回り込まれてしまった。すっかり元の木阿弥である。


「あの時に見た剣と違うな。その剣はなんだ、アードナー?」


 彼が持つ剣は、船上で振るっていた細身剣サーベルとは全く違う、幅広剣ブロードソードである。


「あれは姫に謁見するための、儀礼用の細身剣サーベルだからな」


 そう答えつつ、自らの持つ剣を掲げてアードナーは誇らしげに見せつける。


「こいつは一味違うぜ。我が家宝の魔法剣・ファイアソードだ!」


 魔法剣――なるほど、だから獣人の肌に傷をつけられたのだ。


「へぇーっ、ファイアソードか。カッコいいな」

「おう、だろう! な、そうだろう!」


 瑛斗の発言を受けて、アードナーはとても嬉しそうである。


「ところでその剣、火は付かないんだね」

「まぁな……でもここは赤いし、こっちに炎の刻印があるだろう?」

「で、火は?」

「いや、これは魔法剣ってだけで、名称がファイ……って、掘り下げて聞くなよ!」

「ああ、それはすまなかった」


 どうやら火は付かないようだ。ちょっとがっかりする瑛斗である。


「それにしても、よく追いついたね」

「ったりめーだ。エイトの後なんか追い駆けてられッかよ!」


 瑛斗は船上でアードナーへ向かって「風穴なら俺がけてやる。お前らは俺の後ろから着いてくるがいい」と言ったことを思い出す。恐らくそのことを言っている。

 それにしても、アードナーは軽装な瑛斗と違って重厚な全身甲冑に身を包む。流石に追いつけないであろうと想定していた瑛斗は、アードナーのその根性に恐れ入った。

 後々聞いた話だが、街の人に聞き込みながら必死で捜索した賜物だそうだ。

 アードナーとしても、あの時に船上で誓った「絶対に諦めねぇよ」という言葉を不言実行、騎士として護り通している証だろう。


「さて、と……やってやんぞ、エイト!」

「おう、やろうか」


 全身甲冑で威風堂々たる姿のアードナー。人並み外れた大剣を構える瑛斗。

 足並みを揃えて並び立つ両雄は、両肩をも並べて剣を構え直す。堂に入ったその様は、まるで双璧の如し。女盗賊の目には、向かうところ敵なしのように見えた。


「うっ……ううう……」


 その姿を目の当たりにした彼女は、今度こそ心から挫けそうになった。観念しそうになった。ガチガチと震え、歯の根が合わぬ。気を抜けば涙も零れそうだ。

 だが諦めるにはまだ早い。そう簡単に挫けられぬ理由がある。


「う、うぅおおぉぉあああぁぁぁーっ!!」


 死に物狂いだった。それ故の獣の本能であろうか。

 獣人族の女盗賊は、瑛斗たちはと真逆の方向――背の高い煉瓦塀の方へ向かって走り出した。人の身では決して不可能な獣の跳躍力で、二度三度と路地裏の壁を蹴り上げて走る。そうして傷ついた腕を押さえつつ頭から飛び込むと、遂には行き止まりの煉瓦塀を乗り越えてしまった。

 これは瑛斗にとって予想外の行動であった。すっかり心がへし折られていたであろう彼女は、てっきり降参するものだと思っていたからだ。

 もちろん、そうなるように十分に追い込んだつもりだった。だが彼女は逃げ延びることを選択した。ならば、何があろうとこの場を逃げ延びなくてはならない理由、もしくは、命を賭してでも捕まるわけにはいかない理由が、何かあるのだろうか。

 瑛斗は女盗賊が乗り越えた行き止まりの煉瓦塀へ素早く取りつくと、片手半剣バスタードソードを立て掛ける。それを足場にして跳躍し、一気に背の高い煉瓦塀上に乗り立った。塀の上にて、鞘に取り付けた革ベルトを引っ張リ戻し、剣を再び手にすると、


「アードナーは、後から追い駆けてきてくれ!」


 そう言い残すと、瑛斗までも煉瓦塀の向こう側へ乗り越えて行ってしまった。


「何だよエイトの野郎は……まるでニンジャだな!」


 アードナーはまた、瑛斗に「後から追い駆けろ」と言われてしまった。本人エイトは意図していなかろうが、非常に気に障る台詞である。

 ただ行き止まりの路地でぼうっと突っ立っているのも馬鹿馬鹿しい。


「ちっくしょう、待ちやがれエイト!」


 置いてきぼりはもうゴメンである。急いで迂回路を探すため、元来た道を駆け戻るアードナーであった。



 背の高い煉瓦塀の向こう側――そこは小道のある水路となっていた。

 異世界は現実世界に比べてまるで重力が軽いかのように感じられる。よって通常よりも身軽な動きが可能だ。ほんの些細な動きでも、それが有効であることを思い知る。

 例えば、先程の様に高い壁を乗り越えた時。

 例えば、今の様に獣人族を追いかける時である。

 異世界でかなり修練を積んで鍛えこんでいるとはいえ、現実世界であれほどの動きが出来ていたかといえば怪しいものだ。

 アードナーや追跡中の獣人女には悪いが、異世界での特性をフル活用させて貰おう。

 当初に比べ、彼女の動きは目に見えて明らかに落ちている。瑛斗との戦闘では損傷ダメージが残らないとはいえ、あれほど豪剣でこっ酷く引っぱたかれたのだ。

 損傷ダメージは残らずとも、疲れや動きを悪くする要素は数多く考えられた。

 追い駆ける彼女の先に、水路のトンネルが見えた。

 あそこに逃げ込まれれば厄介だが、その並びには橋へ上がるであろう煉瓦積みの階段が見える。普通に考えれば、階段の方を選択するはずだ。ならば、階段に取りつく寸前でスピードを緩めるはず。その直前にトップスピードで彼女に飛び掛かれば、捕えることができるのではないか。

 瑛斗がそこまで考えて、実行しようと試みた、その時だった。


「えねるぎー・ぼると」

「あ、莫迦……」


 キュン! という音と共に矢のような光弾が、女盗賊の脇腹を引き裂いた。


「ぎゃん!」


 光弾の方向を眺め見れば、レイシャ。そしてそのすぐ後ろにはアーデライード。ドラッセルからの連絡を受けて、ここまでやってきたのであろう。

 アーデライードの感知能力は、他の精霊使いシャーマンに比べ、何よりも群を抜いている。正確性は格段に高く、感知範囲は断トツに広い。

 使役する精霊の数、精霊との交信により知りうる情報量。それら全てを駆使すれば、街中の瑛斗如きすぐさま見つけだすことができるのだ。

 脇腹を撃ち抜かれた女盗賊は、負傷箇所を押さえつつよろりと欄干へ身を寄せた。だが痛みからか身体を支えきれず、バランスを崩すと水路へと身を落としてしまった。

 大きな水飛沫と共に彼女の身体は水中へと消え、遂には姿が見えなくなった。

 瑛斗は目と耳、全ての感覚を研ぎ澄まして女盗賊の姿を探した。しかし数分間見つめ続けようとも、その痕跡を見つけ出すことは出来なかった。


「魔法の選択を誤ったわね、レイシャ」

「ん、どこがわるい?」

「瑛斗の努力を、全て水の泡にしたところ」

「……それは、はんせい」


 その間、アーデライードは何やらレイシャへ教授レクチャーしていた様である。


「大丈夫かな」

「大丈夫よ」


 アーデライードはあっさりと根拠のないことを口にした。


「だって、まだ死んでないもん」


 この発言の何処が大丈夫なのか、瑛斗にはさっぱり分からない。

 生きている、ではなく死んでない。死んでないだけじゃマズイ気がするのだが。

 それでもアーデライードの声は、明るく呑気そのものである。


「さて、水路の出口は水の精霊たちに聞けばいいわ。さ、行きましょ」

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