第11話 二人のエルフと春の旅

 グラスベルの玄関街・イラを離れて十二日目。

 アーデライードが目指す目的の街へは――いまだ到着していない。


「この丘を越えれば見えてくるはずよ!」


 先頭を進むアーデライードが元気よく一行の士気を煽った。

 しかし彼女がそう言うのは、今日で何回目だろうか。


「ねぇアデリィ」

「なに?」

「レイシャの視線が背中に刺さって痛かったりしない?」


 無表情なレイシャの瞳が、いつにも増して鋭く尖っている。気がする。

 ダークエルフ特有のつんとした視線が、今にも飛んでって刺さりそうだ。


「ホ、ホントだって、ホント! 次こそホントだから!」


 ずっと視線を泳がせていたアーデライードが、くるりと瑛斗の方へ向き直った。


「あっ、なにそれ? なによ、それ!」


 するとハイエルフ特有の猫のような吊り目を真ん丸く見開いて、ようやくこちらの状況に気が付いたようだ。

 アーデライードの指差す先は、瑛斗のバックパックにサブ装備で取り付けられていた、極軽量アルミ製の背負子しょいこ。その上に座るのはレイシャである。

 ちょうど瑛斗の腹側の方に、後ろから抱っこするような形で座らせている。


「ああーっ、ズルだ! ズルいわ!」

「仕方ないだろ。アデリィに騙されて丘の上まで何回走ったと思ってるんだ」

「それは、ホラ。騙される方が……」

「悪くないよね」

「ごめんなさい」


 レイシャは偵察部隊よろしく、率先して丘の向こう側を確かめに行った。だがその度に首を振って健気に戻ってくる。少なくとももう三回はやっている。

 やがてレイシャが歩くのを辛そうにし始めたのを見た瑛斗は、この背負子に乗せて座らせてやることに決めたのだ。

 レイシャの身体は綿毛のように軽い。よって瑛斗としても苦になる重さではない。


「もうそろそろなのは、間違いないのだけれど……」


 アーデライードの表情だけは、真面目そのものである。


「丘の数が増えたのかしら?」

「それはないよね、アデリィ」


 代わりに口にすることは、存外に無茶苦茶である。


「ね、それよりもエイト」

「なに?」

「それ、次は私ね!」


 と、背負子を指差した。むろん瑛斗はその申し出を丁重にお断りした。

 さてそんなことよりも、瑛斗の不安は別のところにある。


「アデリィ、本当に大丈夫なんだろうな?」


 なにしろ約十四日間を予定していた旅の行程が、今日でもう十二日目。

 何事もなく折り返したとしても、イラの街まで十日はかかる距離である。


「任せなさい!」


 と、アーデライードの口だけは頼もしい。

 どういう計画でいるのか。彼女は「楽しみにしているといいわ」と言うばかりで、決して内容を教えてはくれない。何らかの確証があって口にしているとは思うが、それが分からない瑛斗は不安になる一方である。

 決して彼女の事を信頼していないわけではないが――戦闘と精霊語魔法以外で頼りになることがあったか? と問われて、すぐに思い出せないのが辛い所だ。


「あーあ、それにしてもすっかり春の陽気よねぇ!」


 急に気分を変えたくなったのか、アーデライードは「うーんっ」と声を上げてひとつ伸びをすると、スキップしそうな勢いで歩き出した。

 言われてみれば春の日差しはポカポカと暖かく、先月までの冬の寒さが嘘のようだ。

 春の陽気は、冬の間に感じる何処か閉塞感めいたものを解放してくれる。この辺りの感覚は、現実世界でも異世界でもまるで変わることはない。


「だいぶえーえに春が来りゃ~♪」


 突然、アーデライードがなんだか妙な歌をイェイイェイ言いながら歌いだした。

 旅の間、いい陽気の日には「ふんふん」と鼻歌を歌うことがあったが、こんなにハッキリと声を出して歌うのは、初めてかも知れない。

 昭和の懐メロなんかでありそうな歌だな、と瑛斗は思ったが、実際には今まで聞いたことのない曲だった。


「ねぇ、アデリィ」

「なによ?」

「だいぶえーえってなに?」

「知らない。けれどなんと言うか、こういう街道のことよ?」

「そんな日本語はないよ……」


 どうやら爺ちゃんが口遊くちずさんでいた歌を、アーデライードがうろ覚えて手前勝手なオリジナルソングにして歌っているらしい。

 一緒に旅をしていた頃の歌だということだから、半世紀は昔ではなかろうか。

 爺ちゃんっ子だった瑛斗でも、さすがにこの歌は聞いたことがない。


「なんて歌?」

「わかんない」


 なんだかよく分からなくても、お構いなしのようだ。

 とにかくこの曲は、気持ちよさを優先して歌うものらしい。


「クーラウーン、クラウン、クラウン、オサレでシックなクラウン娘がぁ~♪」

「ねぇ、アデリィ」

「なによ?」

「クラウン娘って何?」

「知らない。クラウン娘なんだから、王様の娘……姫じゃない?」


 いつもは言葉を大事にしている言語学研究者のアーデライードが、随分と乱暴なものである。しかし折角気持ちよく歌っているものを、わざわざ水を差すこともあるまい。


「わんさか、わんさ、わんさっさぁ!」


 もうこの辺になると、アーデライードが何を言っているのか分からない。


「イェーイ! イェーイ! イェイイェーイ!」


 歌い終わったその時に、背負子に座るレイシャが声を出した。


「あ、まち……」


 いつの間にか丘を越えて、見渡せば目の前に広大な海……いや、これは湖だろうか。そしてその湖の淵には、多くの船が並ぶ港街となっているのが見えた。

 今度こそアーデライードの目指す街。旅の終着点が見えたのだ。

 ますますご機嫌になったアーデライードは、更に続きを歌い始めた。

 瑛斗ら一行は街へ着くまでずっとこの調子で、ラストの街道をひたすら歩むことになった。



 レイシャと出会った宿場町を旅立って二日ほど東南の街、漁港リッシェル。

 漁港といってもこの街に海はない。聖なる森グラスベルより流れ出た、母なる二本の大河と様々な支流が流れ込む大合流点。巨大な湖のような川辺にリッシェルはある。

 肥沃な土壌を持つ大森林から流れ出た大河により、豊富な栄養素を含むこの周辺で育った川魚は質量共に良質で、陸の鮮魚市場として有名だ。

 かつて蛇行していた名残であろう。周辺には三日月湖が至る所に点在する。

 そのため街全体が川や湖の上に建設されている場所が数多く、街の散策は橋の上を歩くような感覚に近い。これら珍しい建築物群は、観光資源としての需要が高いという。

 よってこの街は漁港としての機能の他、様々な商店立ち並ぶ人気観光地スポットとしても人気を誇っている。


 リッシェルの街へ辿り着く、ほんの二週間足らずの間に様々なことがあった。

 チルダとの出会い、レイシャとの出会い。今も思い出すだけで胸が躍る。

 あっという間に駆け抜けた想いもあり。密度の濃い日々だった想いもあり。幼い頃から夢見てきた異世界へ来てよかった。瑛斗は心の底からそう思う。

 初遠征で目指した最終目的地・リッシェル。

 初めて異世界の旅に於いて終着点を迎えた瑛斗としては、丘の上から眺めたあのリッシェルの街並みは、非常に感慨深い記憶となった。

 ただし、この街並みをゆっくりと楽しむことはできそうにない。旅の途中に起こった冒険で当初の行程より二~三日の遅れとなったためだ。よって残された滞在時間はそう多くなかった。

 当初予定していた観光ができなくなった代わりとして、三人は市場で買い物ショッピングを楽しむことにした。


「だってこの子、そのままの服ってわけにはいかないでしょ」


 キッカケはアーデライードのこの一言からだった。

 レイシャの服は相変わらず、瑛斗のTシャツを腰紐で結んだだけの簡素なもの。ここまでの道のりで、服屋など一軒も存在しなかったためだ。

 色々工夫は施してみたものの、サイズの合わない服と似合わないデザインばかりは、これ以上どうしようもない。水浴びは可能な限り毎日させているが、切り揃わない前髪やボサボサの後ろ髪は、成形しないと瑛斗には手の施しようがなかった。

 瑛斗は十六歳で、センスと甲斐性のない父親の気分を味わった気分だ。


「それとね、アデリィ」


 いつも歯切れがよい瑛斗が、珍しくもごもごと口籠る。


「なに?」

「うん、その……」

「なによ。ハッキリと言いなさいよ」

「レイシャのパンツも買わないと……」

「……もしかしてこの子、穿いてないの?」


 奴隷の時に着ていた服の時からレイシャは穿いていなかった。いや、穿いていたのかも知れないが、行水させて服を着せる時にはもう存在しなかったのだ。

 レイシャは特に気にする素振りもなく必要なさげな雰囲気だったので、そのまま少女のペースに飲まれてしまった格好だった。


「い、いや、穿かせていないわけじゃないんだ」


 もちろん瑛斗も工夫はした。自分の白いシャツを破いて作った褌の様な紐パンツを何着か作ってみた。しかしレイシャを水浴びさせる時には、もう穿いていないのだ。

 なので、瑛斗には手の打ちようがなかったのである。……言い訳である。


「今朝は穿かせてみたけど、今はどうなのか自信がないな」

「……買い物行くわよ、エイト」

「ん?」

「今日はガッチリ買い込んで、エイトの手間を一つなくしてあげようじゃない!」


 どちらかと言えば、これはアーデライードたっての要望のような気がする。それに旅の途中で荷物を増やすのはどうなんだろうな、と瑛斗は思った。

 しかしレイシャをこのままにしておくわけにはいかないのも事実だ。


「さぁ、行くわよエイト!」

「わかったよ……これは、戦争になるな」


 瑛斗はごくりと喉を鳴らした。なにしろお洒落元帥コーディネーターアーデライードの買い物戦争が、今ここに高らかに宣戦布告されたのだ。

 いつも母の買い物に付き合わされてはぐったりする父の背中を見て育った瑛斗である。即座に絶望と諦めという名の覚悟を完了させるのだった。



 瑛斗にとって、異世界で最も長い午後を過した後のこと。

 両手に「俺……どうやってこれを持っているのだろう?」と瑛斗自身が思う程の荷物を持たされて、とある店舗の前へ来ていた。


「……治療院?」

「そうよ。大きな街では治療院に併設されてることが多いの」


 買い物を終えて次に辿り着いたのは、レイシャの髪を切る為の理髪店のはずである。

 だが異世界にはまだ専門の理髪店がない。殆どの場合は髪を伸ばしっぱなしか、家族同士で切り合うことが多いためだ。

 治療院に理髪師の様な専門家を置くのは、頭部の治療や衛生管理の観点からである。

 この制度も勇者ゴトーが持ち込んだ……という噂があるが、定かな説ではない。


「ほら、行ってきなさいな」


 アーデライードが半ば強引にレイシャの肩を押す。レイシャはまるで動かないどころか、瑛斗の腰にしがみ付いてしまった。


「ちょっと待っててね」


 人見知りが激しいこの少女を一人で行かせるのは、まず無理な話だろう。一通りの荷物を治療院の端へ運び終えると、瑛斗が院内からレイシャへ手を差し伸べる。


「それじゃ行こうかレイシャ。終わるまで一緒にいてあげるからさ」


 そう瑛斗が促すと、レイシャは素直にこくりと頷いた。


「……本当にエイトのいう事は聞くのね」

「アデリィが強引すぎるんだよ」


 それでもアーデライードは、不機嫌そうに口を尖らせる。


「だから子供って嫌いよ」

「大人とか子供は関係ないよ。自分だって子供の時はあったじゃないか」


 そう言って瑛斗は笑う。老成しているような、達観しているようなことをたまに口にするが、お爺ちゃんっ子だったせいもあるのかしら。アーデライードがぼんやりと考えている隙に、瑛斗から何気ない調子でとんでもない台詞を放り込まれた。


「アデリィだって、いつか子供産んだ時どうするのさ?」


 数秒の間を置いて、アーデライードの長い耳が「ぴゃっ」と跳ね上がった。


 え? え? え? え? え? え?


 様々な質問・疑問・難問・奇問が、ぐるんぐるんと頭の中を駆け巡った。

 漠然と考えなかったことがないこともないことはないないあるない。けれど実際に面と向かって言われると、物凄い威力を持って迫ってくるのだ。

 瑛斗によく似たハーフエルフの赤ちゃんを抱く自分の姿が、不意に頭に浮かんでしまって即座に打ち消す。いやいやいやいや、そんな、まさか、ないないあるないない。

 アーデライードはあっという間に大混乱に陥ると、彼女の周囲を囲むように混乱の精霊がカーニバル真っ盛りとなった。


「へんなの」


 硬直して動かなくなったアーデライードを目にしてレイシャが呟いた。

 魔力オド精気マナが乱れきって舞踊ダンスしてる。こんなの初めて見た。

 とても面白いけれど、エートが呼んでる。いかなくちゃ。


 そうして瑛斗とレイシャは、手を繋いで治療院へと入って行くのであった。

 真っ白に憔悴しきって固まった、憐れなハイエルフを一人置き去りにして。



 ここは、料理酒場『水面の桜亭』のテラス席。

 レイシャの理髪が終わるまで、瑛斗らとの待ち合わせに決めた場所である。

 何処か懐かしき日本家屋を随所に感じさせる佇まい。すぐ横を渺然びょうぜんたる大河が流れ、遥か遠くの景色まで見渡せる非常に良い眺望。

 アーデライードがこの店を選び、このテラス席を陣取った理由がよく分かる。

 夕日の沈みかけた黄昏時の水面には、幾多の橙色をしたランプの灯りがゆらゆらと浮かんで、幻想的な風景を醸し出していた。

 テーブルの上にずらりと空のジョッキが並んでいるのはご愛嬌。そうでもしなくては、気持ちを落ち着かせることなどできようハズがなかったのだ。


「……驚くわね。元々素体は良いと思っていたけれど」


 理髪を済ませたレイシャへの第一声が、アーデライードからもたらされた。


「本当だよ。俺も凄く驚いた」


 我が娘の事のように満足そうな笑顔を浮かべる瑛斗の隣には、髪を整えて買ったばかりの服へ着替えたレイシャが、寄り添うようにちょこんと立っていた。

 みすぼらしかったダークエルフの少女は、今や別人と見違えるほど。毛並の美しい黒猫の様に可愛らしくなっていた。

 理髪士の腕が良かったこともあるだろう。だがそれだけでないのは確実だ。

 チガヤの穂のように真白き髪はサラサラとたなびき、その黒曜石の如くきめ細やかな黒き肌をより引き立てた。秀麗な眉目はる事ながら、印象的な仄赤き瞳はエキゾチックな魅力をますます解き放つ。

 絶世の美少女である辛口ハイエルフからも「これほどまでとはね」と、驚愕とお褒めの言葉を頂戴するくらいである。美少女の目から見ても、エルフ族の目から見ても、十分に美しい造形をしているということだろう。


「凄いねレイシャ。君はとても美人さんだよ」


 瑛斗がそう声を掛けると、レイシャは小首を傾げて尋ね返してきた。


「エート、うれしい?」


 瑛斗は不思議な気持ちになった。こういう場合、美人さんだと褒められて嬉しいのは、どちらかといえばレイシャの方ではなかろうか。


「えっ? レイシャは?」

「エートうれしいと、レイシャうれしい」

「うーん、そうなのか? 俺はもちろん嬉しいよ」


 瑛斗がレイシャの正面を向いて真面目に答えると、彼女レイシャは下を俯いて、テーブルの傍に落ちていた小石を、足先でころころと転がして弄り始めた。

 それがどういう意思表示なのか、瑛斗にはよく分からない。

 このところレイシャの言いたいことが分かってきているつもりだったのだが、と自らの過大評価に苦笑して頭を掻く。


 だが。しかし。だがしかし。


 真横で見ていたアーデライードは気付いている。幼女レイシャのアレは『照れて恥ずかしがっている』のだと。

 それというのも、アーデライードには心当たりがあった。


「やったわ……私もああいうのを、ゴトーにやった……気がする……」


 アーデライードは頭を抱えてテーブルに突っ伏した。

 過去の自分を見ているようで、心が痛い。凄く痛い。痛すぎる。

 レイシャからの精神的打撃マインドダメージ過去の自分に反射リフレクトして倒れそうブレイクな程に、痛い。気絶しそうなほどに、痛い。むしろ自室のベッドで白目を剥いて気絶したいくらいだ。


 もしかして、もしかしてよ?


 ゴトーは大人になった私に対しても、ずっと「ああいうつもりで」接していたんじゃないでしょうね? そう思うだけで過去の自分をひっぱたいて人生をやり直したくなる。


「でも、それじゃあダメよ。ダメなのよ。勝てないのよ……ふ、ふふ……」


 自嘲気味に呟いて、だったら今なら勝てるのかと思案する。


「……主人マスター! お酒を! お酒を頂戴!!」


 精神の混乱バーサクを抑えるには、何かを口にしていないといられない。けれど今日は「料理もじゃんじゃん持って来て頂戴!」と付け加えるのを忘れずに。

 何と言っても今日は、特別な日なのだ。


「エイトの初遠征達成のお祝いなんだからね、盛大に振る舞わなきゃ!」


 この辺りを気遣えるようになったのは、少し大人になった証拠よね。ゴトー!



 今日は、リッシェル名物の川魚中心の夕餉となった。


「なんだか、和食みたいだ」


 瑛斗がそう思うのも無理はない。

 まずは、鮎とニジマスの塩焼きから始まり、白魚の踊り食い、川海老の唐揚げ、鯰の天ぷら、鰻の白焼きと骨煎餅。


「と言うか、和食そのもののお品書きメニューなのよ」


 アーデライードが胸を張る。それはこの店のとある特色にあるという。

 そう言って、テーブルの上に置かれた小瓶を手にして曰く、


「これが秘密を解くカギよ」

「あ、わかった。もしかして……」

「多分正解。答えは『お醤油』よ」


 この旅で随分と洋食ばかり食べてきた瑛斗としては、故郷の味がありがたい。


「かつてこの辺りの調味料といえば『魚醤』しかなかったの」


 魚醤とは、別名ナンプラーともいう。魚介と塩を漬け込んで醗酵させた液体状の調味料である。日本で言えば、秋田の「しょっつる」等が有名だ。


「ゴトーったらねぇ……」


 アーデライードがなにやら思い出したようで、くすくすと笑う。


「ここの魚を気に入っちゃって、食べるのに醤油を欲しがってね。どうするのかと思ったら、大豆畑を作っちゃったのよ!」

「そういや、鰻の白焼きの横のこれも……」

「うふっふ! そう、山葵わさびよ!」


 ついでに周辺の清らかな湧水地を見つけて、山葵田わさびだまで作ってしまったのだ。


「その珍しい味と名産の発生から、ここリッシェルは一大観光地としても名を成すまでになったわけ」

「あれ? 醤油・山葵ときたら、もしかして……」

「相変わらず瑛斗は勘が良いわね」


 ちょっと待ちなさいな、と言いつつ「んふー」と妙な笑い声を洩らす。

 暫くすると、幾つかの大皿が瑛斗らのテーブルへと運ばれてきた。


「じゃーん! これをエイトに見せたかったのよ!」


 それは様々なこい料理だった。鯉のあらいに始まり、うま煮、鯉こく。

 その内の鯉こくを見て、瑛斗が声を上げた。


「あっ、やっぱりだ!」

「そうよ。『醤油』ときたらやっぱり『味噌』よねぇ」


 アーデライードが言うには、当初は爺ちゃんの気まぐれだったという。

 リッシェルの魚介類をいたく気に入った爺ちゃんが、近くの高台に小屋を借りて、様々な野菜畑を作り始めたことから始まった。最終的には現実世界から少量の米麹を持ち込んで、数年の試行錯誤の末に、醤油や味噌などの発酵調味料を作り上げてしまったのだ。

 これがいつの間にやら漁師たちの間で評判となり、それが旅人の口承に乗り、大陸のあちこちへと広まって行って、現在いまに伝えているのだそうだ。


「今ではリッシェルで門外不出の技巧として、王国から庇護を受けながらこの味を守っているの」


 そしてこの酒場『水面の桜亭』は、ゴトーが持ち込んだ料理法レシピの数々を、一番最初に継承した伝統ある店舗の一つだという。

 店の傍には爺ちゃんが植えたとされる桜の木が六本あるが、リッシェルを訪れる時期が遅かったために、すっかり散ってしまったそうだ。しかしよくよく川面を見れば、花筏はないかだの名残が見えた。


「それで『水面の桜亭』なんだね」

「そうよ。次は桜の見頃に来ましょうね、エイト」


 アーデライードは見る間に顔を上気させて、少し興奮気味に訊ねてきた。


「ねぇ……どう? ねぇ、どう?」

「凄い。凄いよ、アデリィ」

「エイト、ゴトーの遺した功績を辿ってみたいってよく言うじゃない?」

「うん、よく言ってた」

「だから旅の目的地はリッシェル。そしてここのお店をエイトに見せたかったの!」


 爺ちゃんの遺した功績を知り、爺ちゃんの遺した日本料理を嗜む。

 初めての旅、終着地の晩餐としては、最高のシチュエーションだった。

 アーデライードが一生懸命に旅をコーディネートしてくれたのがよく分かる。


「ありがとう、アデリィ!」

「いいのよ、もっと褒めてもいいのよ!」

「アデリィ、偉い! アデリィ、凄いっ!」

「んふっ、んふふーっ!」


 お互いテンションが上がって、軽く手を取り合ってはしゃぎ合う。

 そんな様子を見ていたレイシャは、いつもの無表情で白魚の踊り食いを飲み干すと、鮎の塩焼きを頭からかぶりついた。


「おいしい」


 そうして、歴史ある大河の漁港・リッシェルの夜は更けていくのであった。



「それで、どうやってイラの街まで帰るつもりなんだ?」


 一晩明けて、十三日目の朝。瑛斗らは昨夜泊まった宿屋の前にいた。

 アーデライードが数人の運搬人ポーターを雇い入れ、昨日散々買い込んだ荷物は、彼女が指定した何処かへと運び去られたところだ。

 あれだけ「任せなさい」と啖呵を切った以上、アーデライードにはなんらかの方策があるはず。だがその詳細は、まだ明かされていない。


「エイトは薄々気が付いているんじゃないの?」


 アーデライードがニヤニヤと訊ねてくる。

 これまでの旅の中で、瑛斗に心当たりが全くないわけではない。


「うーん……まぁね。今回の旅は共通点がひとつだけあるからね」

「ほう、それではエイト君。答えを言って見給え」

「川……かな。船で遡上して帰る」

「正解よ、エイト! あなた本当によく頭が回るわね」


 旅をしてきた旧交易街道は、グラスベルより流れ出た大河に沿うように敷設されている。この異世界で徒歩よりも早い交通機関は「船」ではないか。漁港を丘の上から眺め見た時に思い付いたことだ。

 ここのところ暖かい春の南風が強く吹いていたので、帆走による遡上は可能だと感じていた。しかしまだ完全に正解だと言い切れない部分が瑛斗にはある。

 春の雪解け水による増水である。この普段よりも急な川の流れは、遡上するに適していないのではないか。瑛斗はそう考えているのだ。


「そうね。この時期、グラスベルの北東に位置するグレイステール山脈の雪解け水で、川嵩は増しているわ。でも――」


 アーデライードは「だからこそなのよ」と言って、如何にもなドヤ顔をした。


「さぁ、行きましょう!」


 白銀プラチナに蜂蜜を一滴落としたような金髪を翻すと、一行を船着き場へといざなった。



 船着き場周辺は、多くの人でごった返していた。

 様々な露店が立ち並び、川辺周辺はまるでお祭り騒ぎのようだ。


「これはいったい……?」


 レイシャが迷子にならぬようにと、肩車をしてやることにする。すると見通しが良くなった肩の上のレイシャが、瑛斗の耳傍まで顔を寄せて囁いた。


「エート、あのね、おふね、いっぱい」


 レイシャがわざわざ口に出して告げるくらいだ。どうやら川の水面にかなりの船が並んでいるのだろう。


「アデリィ、これから何が起こるんだ?」

「んふ、流石のエイトも分からないようね」


 アーデライードは、久々に得意満面で解説をし始めた。


「瑛斗は海嘯かいしょうって知ってるかしら?」

「かいしょう?」


 大潮の干満差によって海水が川を逆流して起こる潮流である。海水が高波となって壁のように押し寄せる。別名、潮津波ともいう。

 瑛斗の世界では、ブラジルのアマゾン川を逆流する「ポロロッカ」や、中国銭塘江の「銭塘江潮」などが有名である。


「この時期は、干満差がすごく大きくてね」


 更に雪解け水も加わって、今日は特別大きな「大海嘯」となり川を逆流する。

 漁港として有名なリッシェルの街は、この「大海嘯」でも有名となりつつあるのだとか。おかげで春の大潮の日は、様々な場所から物見遊山に旅人達が集まって、ちょっとしたお祭り騒ぎになるそうだ。

 元々大海嘯は災厄として忌み嫌われていたが、今では観光名物となり始めている。ゴトーによる魔王討伐以降、食糧事情も改善し、自然災厄も娯楽となりつつあるのかも知れない。


「この波に乗れば、あっという間にイラへ辿り着けるわよ」

「危なくないのか?」

「たまに転覆する船もあるし、かなり危険ね」


 恐ろしいことをアーデライードはさらっと言ってのける。


「もしも川に落ちたら精霊語魔法があるから。大丈夫、大丈夫」


 彼女の魔法に依れば、水上を歩くことも、水中で呼吸することも可能だ。だがそれが可能な精霊使いシャーマンだからこそ、平然としていられる芸当であろう。


 こうして瑛斗ら一行は、船でイラまで遡上して帰る事となった。

 船に乗り込んで周囲を見回すと、二十隻ほど中型の帆船が並んでいる。これらの船も大海嘯の波に乗り、それぞれの街へと旅立ってゆくのだろうか。

 船の中には簡易的な貨物室があった。恐らく宿屋で雇い入れていた運搬人ポーターたちは、アーデライードの買い物の山をこの船に載せ込んだに違いない。

 当のハイエルフはといえば、すぐさま船の舳先へさきへまっしぐら。最先端を陣取ると、瑛斗たちを「早く早く」と手招きをしている。

 はたから見ていると、遊園地でジェットコースターを楽しみにしていた女子高生のようにしか見えないはしゃぎっぷりである。

 暫くぼんやりと景色を眺めていたが「そろそろじゃない?」というアーデライードの声に川面を見ると、水面が徐々に盛り上がり白波が立ち始めているのが分かる。

 ついでに周囲を見渡せば、ある船は錨を上げ、ある船はもやい綱を外す。瑛斗の乗る船も帆を張り始めた。


「来るわよ、来るわよ……ホラ、来た、来た来た来たっ!」


 今か今かと待ちわびていたアーデライードに、その時がやってきた。

 小高い丘ほどもある高波が船尾へと迫りくると、各船一斉にその波に乗って水面を滑りだした。


「すごい! アデリィ、すごい早いね!」

「あはは! でしょう? これならイラまであっという間よ!」


 一体何ノットくらい出ているのだろう。計器のないこの船でそれを知る由はない。しかし体感速度で言うなれば、瑛斗が小学生の頃に離島へ遊びに行った時の、高速船くらいのスピードが出ているのではなかろうか。この速度ならば、アーデライードの言う通り十二日かけて踏破してきた道のりも、あっという間に取り返せそうな勢いだ。


「これは……すごい! すごい爽快だ!」


 瑛斗は強風で乱れた髪を押さえつけ、風に負けぬ声を張る。

 船の揺れで落ちないようにレイシャを後ろから抱えていたが、特に問題なさそうだと身体を離す。身軽な彼女は船揺れにやや翻弄されながら、手摺にしがみ付いて物珍しげに川面に踊る波を眺めている。


「レイシャ、怖くない?」


 瑛斗が尋ねると、レイシャはこくりと頷いて、


「おさかな、とんだ、おいしい」


 と言った。レイシャの「おいしい」とは、昨日食べた魚でもいたのだろうか。

 舳先で大きめの波が砕け、水飛沫が三人の上にかかる。


「あはは! あははははは!」


 アーデライードが突然、愉快そうに大口を開けて笑い始めた。


「なに? どうしたの?」

「これだけでも愉快なのに、思い出しちゃったのよ!」


 瑛斗とアーデライードは、強風と波音に負けぬよう大声を出して会話する。


「その昔ね、ゴトーたちとね、これに乗ったことがあるのーっ!」

「爺ちゃんたちと?」

「そうよ! そしたらこの速さに、あはははは! エルルカのやつ、真っ青になっちゃって! あーははははーっ!」


 アーデライードは心の底から愉快そうに、思い出し笑いをしている。エルルカとは六英雄の一人、『鉄壁の聖闘士』と呼ばれたエルルカ・ヴァルガのことだろう。

 笑いの種になっている大英雄には気の毒だが、その船旅もアーデライードにとって良い思い出の一つなのだろう。

 瑛斗もまた思い出の中の一人になれたのだ、と思うと嬉しさが込み上げてくる。


「だいぶえーえに春が来りゃぁ~♪」


 感慨を噛みしめていると、すぐ真隣ですっかりゴキゲンな歌声が響いてきた。

 アーデライードが例のおかしな歌をまた口遊くちずさみ始めたのだ。

 彼女の歌を聴いていたら、だんだん瑛斗まで楽しくなってきた。歌詞もメロディもよく分からないまま、アーデライードと一緒になって肩を並べて歌う。

 レイシャは相変わらず無口だけれど、ちょっと縦に揺れている……気がする。


「オサレで、シックな、クラウン娘がぁ!」

「わんさか、わんさ、わんさっさぁ!」

「イェーイ! イェーイ! イェイイェーイ!!」


 こうして瑛斗たちの春の旅は、船上で幕を閉じるのであった。

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