第51話 エルフたちと始める新生活の旅(前篇)

 エディンダム王国の北方、国境に程近き大森林・グラスベル。

 そのグラスベルの外苑にそっと寄り添うように、イラという名の街がある。森と調和し共存するこの街を、旅人たちは『グラスベルの玄関街』と呼んだ。

 その美しい木々と水源豊かなイラの近郊より、街道を少し離れた緑深き森の中。


 ここは全ての種族を繋ぐ古代樹の塔――『悠久の蒼森亭』。


 その『悠久の蒼森亭』の玄関先を、先程から足繁く往復する少年がいる。

 彼の名は、後藤瑛斗エイト。この世界を救いし勇者・ゴトーを祖父に持ち、異世界より勇者を目指してやってきた、勇者見習いの少年である。

 部屋から沢山の荷物を持ち出しながら、忙しそうに塔の内外を走り回る瑛斗へ、二階の窓から半身を乗り出して声を掛ける者があった。


「ようエイト君、久しぶりだなぁ」

「あっ! お久しぶりです、マスター!」


 赤銅色の髪をした無精髭の伊達男。名をアレックスという。

 この『悠久の蒼森亭』の総支配人グランドマスターである。


「林檎でも食うかい?」

「丁度喉が渇いていたので……頂きます」


 そう会話を交わすと、アレックスは二階の窓から林檎を放り投げた。

 瑛斗は慌てることなく林檎を片手でキャッチすると、早速一口齧る。弾けるほど瑞々しい林檎の果汁が、瞬く間に瑛斗の喉を潤す。


「おう、ナイスキャッチ! ……美味いか?」

「はい、美味しいです! えっと、お代は……」

「いいよ、そんなの。気にしてたらアデルと酒は飲めないぞ!」


 どうやらこの酒場の常連客であるハイエルフは、ツケで酒を飲みに来ることが多いらしい。未成年の瑛斗には、何のことだかすぐには分からなかったが、ともあれ「ありがとうございます」と、如何にも爽やかな少年らしい元気のいい返事を返す。

 その姿にアレックスは目を細めると、瑛斗の若々しさを眩しそうに眺めた。


「あらあら。エイト様、お久しぶりです」

「その大荷物は、何のご用意なのです?」


 そう言って玄関扉を開いて現れたのは、ミーアとマルテである。

 紺色の清楚なメイド服に身を包んだ彼女らは『悠久の蒼森亭』のウェイトレスを務めるハーフエルフだ。二人とも柔和で温かな笑顔で語りかけた。

 ミーアとマルテは、二人とも負けず劣らずの美少女である。硝子の彫像のような美を持つハイエルフとは違い、ハーフエルフの彼女らは、エルフの可憐さと人間の逞しさを兼ね備えた美しさを持っている――瑛斗はそう感じていた。


「実はね、暫くリッシェルの方へ冒険しようと思ってさ」

「あら、それではもしかして、お引越しですの?」

「うん、そうだね。こっちから運べるものだけだけど」

「…………?」


 瑛斗の不思議な物言いに、二人のハーフエルフは不思議そうな顔をした。

 こっちから、というのは、現実世界を経由して運べるものだけ、という意味だ。

 ここグラスベルからリッシェルまでは、一日に百里飛ぶと云われる飛龍ワイバーンですら丸一日掛かる行程である。その距離を様々な荷物を抱えて往復するには、あまりに無理があり過ぎる。そこで現実世界から持ち込んでいる物品で、悠久の蒼森亭に置いてある荷物だけを取りに来た、とそういう寸法である。

 まずはアーデライードのリクエスト。現実世界から持ち込んだ書物――例えば彼女の大好きな広辞苑。その他にも爺ちゃんが持ち込んだ多岐に渡る小説群などだ。これらはリストを眺めるだけで、頭が痛くなりそうな量だった。

 レイシャには、瑛斗が現実世界から持ち込んだ古着などの洋服の他に、日本語勉強用の絵本の数々。二人とも容赦なく大量の書物をリクエストする辺り、ちょっとした書物ビブリオマニアな側面を感じずにいられない。しかしこれも魔法使いたちの素質のひとつではなかろうか、とも瑛斗は感じている。


「ところでエイト様……こちらの大きな包みは何です?」

「あ、えーっと、これは……あははは……」


 そう言って大きな布袋を指差したミーアに、瑛斗は苦笑いして言葉を濁した。

 瑛斗がわざわざ言葉を濁すには、ちょっとした訳がある。何しろその袋の中身は、アーデライードからの秘密のリクエスト。それは瑛斗がプレゼントしたアデリィペンギンの抱き枕である。ここのところずっとベッドのお供であったせいか、最近の彼女はこれがないとちょっぴり寂しいらしい……というのは、絶対に秘密のお約束である。ついでにクマさんのぬいぐるみも一緒に入っているが、こちらはレイシャから内緒で頼まれたアイテムだ。

 二人ともどこか照れくさそうに、お互いがお互いにバレない様にお願いしてくるものだから、別に気にすることのない瑛斗まで、つい気を使ってしまう。


「何か、お手伝いしましょうか?」


 そう申し出てくれたのは、マルテ。少しおっとりとした調子の彼女であるが、フロアでの働き振りを見ていると、実によく見てしっかりと対応する人だと良く分かる。


「ええっ、そんなの申し訳ない!」

「いえいえ、ひと段落ついてちょうど手も空いてますし」


 そう言って腕捲りをするのは、ミーア。とても行動的でちゃっちゃと準備に入る彼女は、なんでもハキハキとこなしてしまう、フロアのリーダー的存在だ。


「ご、ごめん。それじゃあ、このリストにある書籍をお願いできるかな」

「ああ、アーデライード様のお部屋ですね。かしこまりました」


 二人とも精霊使いシャーマンとしては、アーデライードの弟子でもある。彼女の部屋の整理整頓もよく手伝っているそうなので、瑛斗より適任かも知れない。


「そうだ、この間に……」


 瑛斗は荷物運びの他にもうひとつ、この『悠久の蒼森亭』に来たら済ませておきたいことがあった。それはアレックスにリッシェル料理のレシピを聞いておくことだ。

 リッシェルは爺ちゃんが長らく居を構えていたせいか日本料理の影響が強く、日本でよく使われる調味料なども比較的容易く入手できる環境にある。但しそれらはやや高価で、一般的な日常生活で利用できるほど流通しているものではないらしい。

 そこで凝り性の瑛斗としては、リッシェル周辺で入手し易く、日常利用し易い調味料類や料理のレシピを、その道のプロであるアレックスに教わろう――そう考えたのだ。

 塔内の階段を上がり二階の食堂へ顔を出すと、アレックスが何やら思案顔で紙巻き煙草をふかしつつ無精髭を弄っていた。


「あの、マスター。お願いがあるんですが」

「んおー、なんだね少年?」


 心ここに在らずといった表情で振り向いたアレックスに、瑛斗らが暫くリッシェルに滞在する旨を伝えると、


「あー、リッシェルかぁ。暫く行ってねぇなぁ……」


 アレックスの先程までの思案顔が益々気怠さを増したかと思うと、ゾウの鼻の様に伸びていた煙草の灰がポロリと床に落ちた。生真面目な瑛斗は、またマスターが煙草の灰で床を汚して、とミーアに怒られるんじゃないかとハラハラする。

 と、そこでアレックスは、まるで妙案でも浮かんだかのような表情かおをした。


「あ、そっか。社員旅行もいいなぁ……」

「社員旅行?」

「そう。社員旅行」


 瑛斗が予想だにしていなかった台詞が、不意にアレックスからもたらされた。

 社員旅行だなんて現実世界でよく聞く言葉を、まさか異世界人の彼から聞くことになるとは。もしかしたら異世界でも、社員旅行という習慣はあるのだろうか。

 瑛斗がきょとんとした顔を迂闊に見せると、アレックスは親戚のおじさんがよくやるような厭らしい笑みを、ニヤリと浮かべてからかってきた。


「なんか、変?」

「い、いや、そんな!」

「おじさんの言ってること、変?」

「そ、あの、変だなんてことは、ないですけど……」


 信頼を寄せている大人からそう迫られれば、つい瑛斗はたどたどしくなってしまう。アーデライードらが見せるような大人のやりとりは、自分にはまだ早いと実感する。

 もう少し余裕を持って上手に駆け引きが出来ればと瑛斗は思うが、暫くはそのままでいて欲しいと願うのが、アーデライードら大人の意見である。

 さておきアレックスは、瑛斗のこれからの旅にえらく興味を魅かれた様子で、


「なぁ、そのリッシェルの屋敷へ遊びに行ってもいいか?」


 と、唐突に思いも寄らぬことを言い出した。

 話を聞くに『悠久の蒼森亭』の総支配人グランドマスターになる前までは、よくリッシェルへ食材を調達しに、船で買い出しに行くことが多かったのだそうだ。


「ええっと、構いませんけど……その間のお店はどうするんです?」

「弟子に任せるさ。代わり番こに長期休暇を取るのもいいよな、うん」


 アレックスは「遊びに行く代わりに、秘伝のレシピと引き換えでどうだ」と交換条件を持ち出してきた。もちろん瑛斗としても、いつも世話になっているアレックスの頼みを断る理由などどこにもない。是非遊びに来てください、と二つ返事で了承する。


「それじゃ真夏になる前に、リッシェルへ遊びに行くよ」


 ――と、そういう約束になった。



 グラスベルの森にある小さな花畑のトンネルを抜け、防空壕を通って戸棚の扉から先へ潜れば、そこは『運命の森』にある地の裂け目。異世界に於いて数百キロを一瞬にして移動できるこの方法は、瑛斗ら現実世界の人間だけが使える魔法だ。

 そうして『悠久の蒼森亭』からの大荷物を何度かに分けて『運命の森』まで運び込むと、瑛斗は背負子しょいこに括りつけ直して待ち合わせ場所まで歩き出す。

 待ち合わせのその場所とは、黒い岩肌を白糸の如く落ちる滝に、澄み切った湧水溢れる清涼な泉――そこは沐浴していたイリスと出会った、あの泉である。

 清らかな流水に思わず両の手で掬い上げ顔を濯げば、汗ばんだ肌に心地よい。

 腰に手を当てて泉の全景を眺めるに、あの出会いがほんの一週間程前の出来事とは、到底思えなかった。それ程の濃密な時間が過ぎたのだと、瑛斗は改めて実感する。


「エイト殿!」


 名を呼ぶ声の先へと振り向けば、泉の畔にて少女騎士・エレオノーラが、凛とした笑顔で手を振っているのが見えた。彼女のすぐ傍には、二頭立ての馬車が待たせてある。

 ここへ至るまでにアーデライードから荷物のリストを渡された瑛斗は、人力で運ぶのは到底無理だと一目で判断した。そこでエキドナ別邸にて馬車を借りられるか伺いを立てたところ、イリスが快諾してくれたのだ。待ち合わせの場所と時刻にエレオノーラがいるということは、その使いということだろう。

 降ろしていた背負子を背負い直して歩み寄ると、エレオノーラは何故か急に笑顔を一転させて、そわそわと緊張気味で強張った表情になった。


「うん、どうしたんだ?」

「いやその、エイト殿。先日は、その……大変失礼した」

「えっ?」

「お、お見苦しい姿をお見せした。あの、実に……恐縮だ」


 そう言って小さく頭を下げながら、唐突に謝罪を口にした。

 エレオノーラとしては、泉の畔で瑛斗の姿を見つけたまでは良かった。しかし瑛斗が近寄って彼の顔が鮮明になるにつれ、つい先日のことを明晰に思い出して、顔を向けていられなくなってしまったのだ。


「えっと……何のことかな?」

「はっ?」


 礼節を重んじるエレオノーラは、謝罪せずにはいられない――と解釈した瑛斗だが、失敗に対して何もわだかまりのない彼にとって、それらは既に過去の出来事である。何を指しての謝罪であるのか、皆目見当がつかなかった。

 却って、失敗のない優等生であったエレオノーラは、此度の内乱で改めて己の未熟さを深く痛感し、歯痒い気持ちをなかなか払拭できずにいたのだ。


「いや、何のことかと訊ねられれば、それは当然……」


 生真面目なエレオノーラは、つい指折りにしっかりと思い返してしまった。

 あれこれと思い返せば思い返すほど、瑛斗との間に心当たりが有り過ぎて、改めて何をどう口にすればいいのか。迷宮に迷い込んだかのように判断が付き難くなる。

 初対面では暴漢と間違えて問答無用で斬り掛かり、我が姫の危難に駆け付けた瑛斗を別室に通すという失礼を働き、内乱終結後は胸を借りて号泣した上、温泉の湯殿では……


「うぁっ……うああぁぁっ……!」


 すっかり思い返してしまったエレオノーラは、あまりの恥辱に耐え切れず、ついに顔を手で覆ってしまった。覆った頬どころか、耳の先までが真っ赤に染まる程である。


「し、死んで詫びたい……」

「ええっ、いきなり何てこと言ってるんだよ!?」


 瑛斗が必死にフォローを入れようとするが、思い出してしまったエレオノーラには、暖簾に腕押し、糠に釘。如何に慰めようとも、悉く無駄なことであった。


「恐縮なんてすることないよ、エレオノーラ」

「そう言われても、恐縮せずにいられるものか……」

「何でさ」

「では、お前には……あるのか?」


 覆った指の隙間から上目使いで覗き込むエレオノーラが、今にも壊れてしまいそうな程に震えながら、恥辱と困惑の複雑に入り混じった表情で問い掛けた。


「私にはその、と、殿方と……湯船を共にしたことなどないぞ」

「うっ……そ、そんなの俺だってないさ……」


 あの夜の温泉での出来事を思い出し、瑛斗もつい顔を赤くする。

 まさかあんなことになるなんて、瑛斗にだって思いも寄らないことだった。岩風呂を共にするだけではなく、湯当たりと酸欠で倒れてしまった薄布タオル一枚のエレオノーラを横抱きに抱きかかえ、脱衣所まで運ぶことになるなんて。

 互いにほぼ全裸。しかも頭に血が昇りやすい状況でああなってしまっては、もうどうしようもない。瑛斗にしても、エレオノーラにしても、不可抗力である。

 しかしなんだろうか、この状況の気まずさは。静かな湖畔の森の奥。思春期の男女が二人きりで互いに俯き、頬を染め合っているのである。

 瑛斗は何かを口にしたくても、頭の中が真っ白で何も口から出てこない。

 エレオノーラに至っては、そんな瑛斗の数倍は思考回路がショートしてしまって、そのうち頭の天辺てっぺんから白い煙を噴き出してしまいそうな程に、顔を真っ赤にしている。

 互いが互いに声も出せず、どうすればいいか分からなくなっていた、その時である。


「エート、なにやった?」

「うわぁぁあぁっ?!」


 いつの間にか瑛斗のすぐ傍に立っている、背の小さな細身の少女。

 この声、この容姿。言わずもがなダークエルフのレイシャである。


「えええっ、どうしたのレイシャ!?」

「むかえにきた」

「い、いつからここに?」

「ずっと、そこにいた」


 レイシャが指差す先には威風堂々たる巨樹。その木陰を指し示していた。

 元々が森の種族である彼女は、木々生い茂る森の中では、幼いながらも気配を隠蔽することができる。その技能スキルの高さは、数人の大人でさえ煙に巻くほどだ。

 何故こんな時にも気配を消す必要があったのかはさて置き、レイシャは時折その技能スキルの高さを窺わせる性能スペックを見せつける。

 しかしレイシャのお蔭で、金縛りのようだった二人の緊張の糸が上手く解れた。


「あ……さて、早速荷物を馬車に乗せようか、エレオノーラ」

「はっ……はいっ! そ、そうだな、エイト殿!」


 年長者の二人は、ギクシャクとしながらワザとらしく仕事をし始めた。

 特にエレオノーラは右手と右足が一緒に前へ出ていて、動きがどう見てもおかしい。おかしいと分かっていた瑛斗であったが、ここは見て見ぬ振りをすることにした。


「……げせぬ」


 不思議そうに小首を傾げるレイシャを余所に、さっさと荷物を馬車へと詰め込むと、早速リッシェルの屋敷へと向かうことになった。

 御者台には手綱を握るエレオノーラ。その隣には瑛斗。荷台にはレイシャ。

 瑛斗が御者台を選んだには理由がある。異世界では乗り物を操る技術習得の重要性を知った瑛斗が、エレオノーラから馬車の操縦を教わりたかったからだ。

 運命の森からリッシェル邸までの道程は、舗装もままならぬ悪路を幾つか渡ることになる。特に高地から徐々に降る細道では、土崖の切り立った場所も数多い。初心者の瑛斗では、とても馬車を上手く扱えまい。ここは馬の扱いに長けた騎士ならではの操縦術を、エレオノーラからしっかりと身につけるチャンスでもあった。

 しかし――瑛斗のことをすっかり意識してしまったエレオノーラは、隣の瑛斗が気になって仕方がない。隣にいてはっきりと分かるほど身体は硬直し、緊張が伝わってくる。

 そうなると揺れる馬車の上、互いの身体と身体が触れる度に、瑛斗もついついビクッと身を震わせてしまう。


「ええと……緊張しているのか、エレオノーラ」

「いや、そんなことは……ちょっとしている」


 やっぱり緊張しているんだ……

 自分の事は棚に上げ、瑛斗はエレオノーラを気遣った。


「もっとリラックス、リラックスだよ」

「りらっくす……なんだそれは?」

「ああ、なんというか、肩の力を抜くってことさ」

「うう、りらっくす……エイト殿は、難しいことを言う」


 流麗な眉を歪ませて、エレオノーラが心底困惑した表情をした。

 気持ちは分かるがここから先は危険な道も多いので、もうちょっと落ち着いて欲しいと瑛斗は願う。とはいえ、そう思う瑛斗でさえ、心の中では普段以上に狼狽えていたが。

 そんな折、荷台でぼんやりとしていたレイシャがひょっこりと顔を出した。


「エート」

「うん、どうしたのレイシャ?」


 そう声を掛けると、荷台から身を乗り出したレイシャが、不意に後ろから瑛斗の首に抱き付いた。何かしきりにすんすんと鼻を鳴らしているようだ。そうして瑛斗に抱き付いたまま、今度は首を伸ばしてエレオノーラの髪の匂いまでも嗅ぎ始めた。


「んー」

「どうしたのさ、レイシャ」

「んんー、こないだのよる」

「この間の夜?」


 この間の夜といえば、瑛斗が現実世界へと帰った日のことだ。

 温泉から上がった瑛斗は、火照った身体をテラスで適度に涼ませると、現実世界へ帰る前にレイシャの休む寝室へ立ち寄って、彼女の様子を窺った。

 小さな物音でも目覚めてしまう敏感なレイシャは、瑛斗の気配に気付くと寝ぼけ眼で抱き着いてきた。そこで再び寝付かせるまでの間、暫く傍で添い寝してやった――その時のことであろう。


「それがどうかしたのか?」

「あのね、エート」

「うん?」

「エートと、この人……おんなじにおい、する」

「ぴぃっ、ぴえっ!?」


 素っ頓狂な声を上げたのは珍しくも、真面目な少女騎士・エレオノーラである。

 レイシャの思わぬ言葉に、彼女の鍛え上げた心臓が跳ね上がり、緊張していた身体は一瞬にして益々硬直し、瞬時に沸騰した血流が顔面を一気に駆け上がる。

 だが、そうと気付かぬ瑛斗は、然程慌てることではないと考えた。

 何しろ温泉の成分は、誰がどう入ろうと同じはず。例え彼女と同じ匂いがしたとしても、それは決しておかしいことではない。と、自分に言い聞かせる。


「ああ、それは温泉の……うわぁ、エレオノーラ!? 前見て、前ぇっ!!」


 瑛斗がやっと気付いて隣を見れば、エレオノーラは両手で顔を隠していた。

 彼女が手放してしまった手綱を手を伸ばして必死に掴むと、慌てて馬車の操縦を変わる。馬車は馭者から一瞬の操作を離れたものの、馬が賢かったお蔭で何とか崖の道を踏み外さずに済んだ。

 こうして瑛斗は期せずして、馬車を操縦する機会を得ることになってしまった。異世界では唐突なトラブルもまた、何でも経験のひとつであると知る瑛斗である。


「へんなの」


 そう呟いたレイシャは、まるで気付いていなかった。

 何故ならば彼女にとっては、何ら特別なことではなかったからだ。裸で瑛斗に抱き着くことも、一緒にお風呂に入ることも――

 それら全てはレイシャにとって、日常茶飯事のことなのだから。

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