第66話 喧嘩丸太とテトラトルテの灯の旅(後篇)

 終盤戦に差し掛かり、喧嘩丸太は俄然盛り上がる。

 声援を送る人波はコースの沿道ギリギリまで押し寄せて、丸太の犠牲にならないか冷や冷やする程だ。だが人々から溢れだす熱気は、競技者らをますます熱く興奮させる。

 瑛斗たちから全体の状況は掴み辛いが、目の前を快走する優勝候補のトップチームを発見したとなれば、勝負の行方はまだまだ分からない。

 瑛斗のチームは騎士の技能スキル迅速行軍ヘイスト・マーチ』を仕掛けたこともあって、ぐんとスピードを加速させて猛然と追撃を開始する。


「うおおっ! 凄い勢いだぞ、騎士団の連中!!」

「流石は銀の皿シルバーディッシュの騎士たちだ!!」


 観客席の各所からは『銀の皿騎士団』へ向けて惜しみない称賛の声が飛ぶ。

 何しろ先月には十倍以上の敵を前に怯むことなく「エキドナの庭」で闘った話題沸騰中の彼らだ。その勇名は今や、武勇伝としてテトラトルテの街中に轟いている。その真っ最中にこの快走劇を目にしたとなれば、観客たちだって俄然盛り上がらないはずはない。


「こうなったらやろう、ドラッセル!」

「おう、優勝を狙うぜ、エイト!」


 瑛斗の掛け声にドラッセルが答えると、仲間の闘志が静かに燃え上がる。

 猛然と追い上げて好敵手ライバルチームの背後から丸太を突き上げれば、行く手を塞ぐ木箱が粉砕され、ゴミ箱が弾け飛び、野良猫は悲鳴を上げて逃げ出した。そんなデットヒートを繰り返すうちに、ルートはよりスピードが加速する急な坂道へと突入してゆく。


「いける……風のように身が軽い」


 瑛斗はここまで如何な悪路を走ろうと、足場の悪い丸太の上で安定した身のこなしを見せてきた。それはきっとアーデライードの手による精霊の加護もあるだろう。特に彼女が最も得意とする風の精霊は、瑛斗を大いに手助けしてくれているはずだ。


 だがそれを差し置いても異世界は、瑛斗に大きく味方をしてくれているように感じられた。それは大気と大地に満ちる精気マナのせいなのか。それとも人体や生命に宿る魔力オドの効力のせいなのか。もしくは爺ちゃんに「月にいるようだ」と評された重力の軽さか、それとも異世界人の特性である物質の軽重や、硬軟なのか――


 そのいずれが関わっているのか。瑛斗が知る由もない。しかし何か不思議な力が働いて、現実世界では到底実現不可能な出来事さえも、幻想世界ここでは可能にしてしまうのではないだろうか――そんな感覚さえ今の瑛斗は感じていた。


「あーっはっはっは! どうよ私たちのチームは!」


 そんな瑛斗の気持ちを知ってか知らずか。なみなみとビールが入った樽ジョッキを頭上高く掲げ、鼻高々に上機嫌でそう叫ぶのは、ほんのスタート前までは「ああもう、莫迦ねぇ」などと呟いていたハイエルフである。

 たまたま前方の席に座っていた喧嘩丸太に目の肥えた年寄り連中までも、熱狂して思わず腰と声を上げて呻っているのを目にして、ついに堪え切れなくなったようだ。


「そうよーっ! これが『銀の皿騎士団』の実力よーっ!!」


 などと釣られて興奮気味に叫ぶのは、つい先程まで「呆れちゃう」と眉根を潜めていたソフィアである。普段は知性派で冷静な彼女もまた、熱狂の渦に呑み込まれていた。


「男って、こういう時ばっかり子供みたいよね」


 などと互いに愚痴っていた先程までの姿はどこへやら。どこ吹く風で華麗なる転身振りを見せている二人である。


「うわああっ、おおおおおおーっ!!」


 突然、ゴール付近が一瞬のどよめきの後に、大歓声に包まれた。

 市場の裏通りにある職人たちしか通らぬような細い路地裏を抜け出して、旋風つむじかぜのように飛び出したチームが突如現れたのだ。


「あっ、あー!」

「何よそれぇ!!」


 アーデライードらの叫びも虚しく、瞬く間にゴールへ滑り込んでゆく。その後ろ姿を目にしたドラッセルが、疾走を止めることなく悔しげに叫んだ。


「ありゃバウティスタの連中か!」

「誰だ、それは?」

「昨年の優勝チームだ!」


 バウティスタ商会――それはテトラトルテ北東部にある山々の大地主であり、良質な材木を産出する卸問屋だ。そして優勝候補の一角、昨年度優勝チームでもある。


 チームワークとコーナリングに優れた彼らは、巧みに裏通りを走り抜け、他チームの攻撃役に仕事をさせるいとまを与えず。最後まで妨害を受けなかったお蔭で、速度を落すことなく易々とゴールまで辿り着いたのだ。


「流石に速かったな、くそっ!」


 ドラッセルが歯噛みをしたが、時すでに遅し。裏通りを熟知した彼らは、コース取りとバランス重視を優先して直線でのスピード勝負を挑まなかった。そして瑛斗ら優勝候補たちが競い合った隙を突き、まんまと優勝を掻っ攫ったのだ。昨年度優勝チームに相応しい、戦略勝ちであるといえた。


「こうなりゃ意地でも食らいついてやるぜ!」


 瑛斗たちは、その次の順位――準優勝を狙うしかない。

 何としても前をゆくチームを追い抜かなくては……そう思った矢先のことだ。


「ドラッセル、左手側の路地を見ろ!」

「ああ、くっそ、こんな時に……!」


 だがその二位争いは熾烈を極めた。何しろ瑛斗ら『銀の皿騎士団』チームは、ゴール手前の六つ角交差点で競い合う他の丸太とかち合ってしまったのだ。

 今や時の人である騎士団チームには、妨害用の水棹が次から次へと飛んでくる。


「ぐっ……くそっ!」


 悪態を付きつつ、瑛斗は右手一本で水棹を弾き返した。水棹といえど太さが数センチもあるただの棒である。然もすればそれは棍棒に近い威力を持つ。毎年この祭りには、欠かさず怪我人が続出するのも当然だろう。


「おう! ワシも若い頃ぁ、アレくらいやり合ったもんじゃ!」

「ああもう分かったわよ、爺さん! そんなの後にしてよっ!!」


 見知らぬ観客の自慢話に絡まれつつ、はらはらハイエルフは瑛斗から目が離せない。

 そんな心配を余所に、左右に並走する丸太からの容赦ない攻撃を、瑛斗は巧みな水棹捌きで躱してゆく。しかし丸太上では相当に、足場が悪けりゃ多勢に無勢で分も悪い。

 丸太上を縦の動きだけでバランスよく躱し続けた瑛斗であったが、左右からの同時攻撃に、水棹の一本を避け損なった。


「エイト!!」

「うっ……ルオァッ!!」


 気合一閃、一か八か。瑛斗は左手の拳で受け流しを試みる。


「エイトォォーッ!!」


 固唾を呑んで見守った観客たちに訪れた、一瞬の静寂――


 その直後、会場は大絶叫に包まれた。

 片腕一本で弾き返した瑛斗は、なんと水棹を粉々にへし折ったではないか。


「うおああああおおおおーっ!!」


 瑛斗は一応、腕に皮の篭手を装備してはいる。だがそんな装備などものの数に入らない。それなのに瑛斗は、麩菓子でも砕くように水棹を素手で木っ端微塵に粉砕したのだ。

 この水棹の素材は、たまたま胡桃材ウォールナットであったのか。はたまた別の木材か。ともあれ運よく異世界人の特性で砕ける素材であったようだ。


「何だアイツは、凄いぞ!!」

「片腕一本でへし折りやがった!!」

「まさか勇者・ゴトーの再来か!?」


 瑛斗の仕業には、観客たちも大いに驚き、大いに騒めいた。悲鳴と歓声が混在し、感情のどよめきが大波となって、やがてそれは津波のようにうねり沸き起こる。そして遂には大歓声となって轟いた。

 しかもこの所業をやらかしたのは、今大会で一番の注目を集める『銀の皿騎士団』の船頭役となれば、ますます熱狂を呼ばぬ道理がなかった。


「エイト……エイト……ッ!」


 そして観客から沸き起こった「勇者」の掛け声に、アーデライードの心も思わずさざめいた。異世界人の特性で事無きを得たが、天の運を味方につけるのも勇者の素質の一つ。それが偶然の出来事であろうと何であろうと、彼女は自らの身を以て感じているのだから。


「そうよ! エイトはね、勇者になる男なんだからっ!!」


 猛然と立ち上がったハイエルフが、全てのポップコーンを撒き散らしてドヤ顔で叫ぶ。普段は冷静なソフィアまでもが亜麻色の髪を振り乱し、我を忘れて続けて叫ぶ。


「ねえねぇ、彼はねっ、私の友達なんだよっ!!」


 ついには見知らぬ観客の肩を揺すって自慢し出す始末である。

 そうしていつの間にか腕を組んで絡ませていたソフィアとアーデライードは、子供の様にきゃっきゃとはしゃいで抱き合った。


「へへっ、流石はエイトだ。やっぱり持ってやがる!」


 喧嘩丸太の主役をすっかり奪われた、最前線の「波役」を張るドラッセルが叫ぶ。


「毎度毎度、何かしらやってくれるなぁ!」

「た、たまたまだよ……」

「たまたまやられてたまるかよ――おい、お前ら!」


 瑛斗の勇猛を見せつけられた騎士団の面子は、炎が燃え盛る如く魂を焦がした。

 何せ血気盛んな猛者揃いの若手騎士たちである。我こそが次の勇者にならんとばかりに熱くなった。そんな団員らへ向けて、煽るようにドラッセルが叫ぶ。


「どうだ、これがエイトだ!」

「おうッ!!」

「くっそ燃えるだろ、なぁ!」

「オオーッ!!」

「次はオレたちが魅せるぜ!!」

「オオオオーッ!!」

「よっしゃ行くぞ、全軍突撃フル・チャージ!!」


 騎士の技能スキル全軍突撃フル・チャージ』は精神力と引き換えに、各々の攻撃力を最大限まで引き上げる。エキドナの庭でも見せつけた、ドラッセルが最も得意とする勇猛果敢なる戦法の発現コールに、俄然騎士団の面子も闘志に火が付いた。


「いっけぇ、エイト!」

「見せてやれ、ドラッセル!!」


 ハイエルフらと観客の大声援を味方に付けた瑛斗の喧嘩丸太は、その背中を強く押されるようにライバルチームたちを蹴散らして突進する。先行する優勝候補の材木組合ギルドチームを遂に捉えると、タックルで強引に弾き飛ばした。


「うおおおおおおおおーっ!!」


 寸での所で頭一つ抜け出すと、大歓声に見送られてゴールへ向かって突っ込んだ。

 それでも尚、頑なに顔を上げようとしないダークエルフの幼女が一人――


「エート……エート……」

「ほら、勝つよ、勝つよ……ほら、勝った!」

「エート……ううっ……」


 ずっと代理で見守っていたサクラが言い聞かせても、目を瞑って小さく震え続けている。そこでレイシャを豊かな胸で包むようにしてやると、やっと落ち着いたようになった。


「もう大丈夫。ごらん、エイトが勝ったよ。今は勝ち名乗りを上げてる」

「エート……エート! エート!」


 レイシャがようやく目を見開いて、歓喜の声を上げた。

 そこでサクラは、瑛斗から貰った贈呈用の汎用タオルをバックパックから取り出すと、涙と鼻水でくちゃくちゃに濡れたレイシャの顔を、優しく丹念に拭いてやる。


「ほら、こっち向いて」

「ん……」


 人見知りなレイシャにしては珍しく、されるがままに従っている。まるで母猫に対する子猫の様に大人しい。そんなレイシャを、サクラはとても温かい眼差しで、そうっと優しく頭を撫でた。茅の穂のように柔らかく真白な髪を、ずっと優しく優しく撫でていた。


「ちゃくら、ありがと……ふび」

「ううん……こっちこそ、ありがとう」

「…………?」


 観客の拍手喝采に見送られ、瑛斗らは見事に準優勝を果たした。

 こうして喧嘩丸太は最高潮の盛り上がりを見せて、ここに幕を閉じたのだった。



 陽が西に傾いた頃――とはいえ、まだ空が明るいうちに松明へ火が灯され始めた。この習慣は平野部に比べ陽が沈むのが早い。山間やまあいの街ならではであろう。

 あちらこちらで松明から篝火が焚かれ、待宵祭はクライマックスを迎えるようだ。


 賑やかな日中の催しとは打って変わり、待宵祭の夜は静かに終わる。

 街々の各戸思い思いに「宵送りの灯」と呼ばれる明かりを戸口に灯し、故人を偲び先祖を霊を敬う。これも今を生きる家族の思いを先祖に伝える、待宵祭の一つという。

 ようよう陽が落ちて篝火が焚かれると、家々や店先に備え付けられた大小様々な形のシェードランプに、ぽつりぽつりと火が灯され始めた。


「さて……私も今日は大人しく、先祖の霊に想いを馳せるとしますか」


 そう言い残すと、アーデライードはレイシャを連れて日中の興奮冷めやらぬ街中へと下りてゆく。家々に飾られた色とりどり様々な形のランプを眺めて歩くのだという。

 愛らしい好みの服に着飾らせたライカとカルラのふたり引き連れて、屋台であれこれと買い物を楽しみつつ、祭りの最後の夜を心静かに過ごすつもりのようだ。


 軒先の送り灯は、祭りの水掛に濡れた石畳に反射して、街の中全てを橙色に染め上げる。ちらちらと揺れる仄かな明かりは、見る者を幻想の内側へといざなう。

 いつもは瑛斗の後を追い駆けるレイシャも、今日は大人しくハイエルフに着いていった。普段は物静かな彼女も今日は、灯の美しさに心なしか浮かれているようだ。

 街明かりに誘われる年少組を先へ行かせると、アーデライードはひとり振り返る。


「そうね……今日だけは、貸してあげるわ」


 夕闇に沈む小高い丘へ向かって、独りそう呟いた。



 その丘のてっぺんへ向かう石段には、瑛斗とサクラの姿があった。

 そこは夕闇に沈みつつある街を見下ろす、絶好の高台である。


「エイト、大丈夫かい?」

「なんてことないさ、大丈夫だよ」


 とはいえ丘の頂上へと続く長い長い石段は、今の瑛斗には少々きつい。何しろ足場の悪い喧嘩丸太の上で散々踏ん張ってきた両足である。いくら鍛え込んでいる瑛斗でも、慣れない競技に疲労した膝が笑いそうになる。

 しかも獣人族のサクラは石段などものともせずに、すいすいと涼しげに上ってゆくのだから、負けず嫌いで意地っ張りな瑛斗としては、弱音など吐けるはずがない。そ知らぬ振りを決め込んで、心の中では必死に歯を食いしばる。

 グッと堪えに堪え抜いて、石段を一段一段踏みしめれば、漸く終点が見えてきた。


「あとちょっとだよ、エイト頑張って!」

「よし……これで、到着……っと!」


 ふぃーっと息を吐き出すと、改めて振り返り街を見下ろしてみる。

 薄暮に迫る街並みは、紺と橙色を綯交ぜにして、宵闇を迎えようとしていた。


「実はさ……ここはあたしのとって置きの場所なんだ」


 サクラはそう言うと、恥ずかしげに鼻の頭を掻いた。


「盗賊のあたしは、街の中に居ちゃいけない気がしてさ……いつも独りでここに来て待宵祭の灯を眺めては、御祈りを捧げてたのさね」

「でも、今日は二人だ」

「ああ、初めてさ。こんなことは」


 照れ臭そうにしているサクラを見て、瑛斗は余計なことを言った気分になった。望んでそうしたとはいえ、サクラと二人きりでいることを意識して赤面してしまいそうだ。

 気を取り直して周囲をぐるりと見回すと、再び街を見下ろしてみる。


「でも……いい場所じゃないか」

「だからあたしのとって置きなんだ」


 瑛斗の気持ちを知ってか知らずか。サクラは気持ちを誤魔化すように、大きく背伸びをした。ひとしきりそうすると、目を瞑り指を組み、街の明かりを眺めてじっと祈る。

 そうして顔を上げた時、瑛斗はサクラに訊ねてみた。


「何を祈ったの?」

「あの……うん、母さまの冥福を」


 いつもは能天気そうなサクラが見せる、心なしか寂しげな横顔。

 そうと気取らせぬようにはしているものの、ここのところサクラは元気がない。時折塞ぎ込んだような表情を見せていた。そんな胸のつかえはただ一つ――それは思わぬ形で訪れた母の面影残る屋敷への、不意の帰郷が関係しているに違いなかった。


「ところで、話って何だいエイト?」

「サクラはさ……やっぱり自分の出生が気になっているのか?」

「へへっ、やっぱりエイトには分かっちゃうかなぁ」


 表情に出やすい彼女の気持ちに、気付かぬ者はそうはいない。だからこそ今日のアーデライードは珍しく、サクラに瑛斗を譲ってくれたのだから。


「どこまで覚えてるんだ?」

「正直なところ……あんまり覚えていないんだ」


 そう切り出すと、サクラは宙に目をやってひとつひとつをゆっくりと思い出す。


「煉瓦造りの古いお屋敷に、沢山の草花が咲く広いお庭……それに深い森。そこに母さまと、お屋敷に住むお爺さまにお婆さま。それに黒くて大きな犬の人」

「黒い犬の人?」

「うん。黒くて大きな犬がいて……いや、今思えば狼だったのかな、あの人」


 サクラ曰く、爺ちゃんは異世界で「クロ」と呼ぶ犬を飼っていたのだという。

 そういう通り、爺ちゃんは確かに犬が好きで、実家にも害獣から畑を守るために、犬を三匹飼っていた。黒くて大きい犬――実家の犬はどれも黒くはなかったが、言われてみれば瑛斗も、幼い頃に黒くて大きな犬と遊んだ記憶があるような気がする。


「幼い頃はそこでずっと暮らしていたんだけどね……ある日突然あたしだけ、その黒くて大きな犬の人に、あの獣人族の村へと連れていかれたんだ」


 時折村へと訊ねて来てくれたその黒い犬の人も、やがて村から姿を消した。そして自分の出生は、誰にも分からぬままとなった。


「村を出る時に、村長むらおさから母はもう亡くなっていると聞いたけどね」


 だが、どうして母は幼い我が子を村へと預け、自分の元から姿を消してしまったのか。それはずっと疑問のまま。置き去りにされてしまったままの過去。


「君の母の名は、ツバキ」

「えっ?」


 十数年振りに聞いた母の名前に、サクラは思わず言葉を失った。


「違うかい?」

「いや、そうだよ。ツバキだ……」


 この丘へ二人きりで訪れた理由――

 サクラの出生の真相を話すために、瑛斗がサクラを呼び出したのだ


「君と住んでいた爺ちゃんは、俺の爺ちゃんなんだよ」

「あのお爺さまが、エイトの……」


 知っていることを全て話そう――今週末の瑛斗はそのつもりで異世界へ来ていた。

 サクラにどう切り出せばいいか。どう伝えてあげられるのか。そのことで頭がいっぱいになって、ドラッセルたちが頑張って準備していた祭のことも、すっかり忘却してしまうくらい真剣な気持ちだった。


「君のお母さんは、ずっと命に係わる病気でね……爺ちゃんと出逢った頃――つまり君がお腹の中にいる時には、もう長くはなかったそうだよ」

「母さまが、病気……」

「それで大好きな故郷の、リッシェルの桜の木の下で死ぬことを願っていたのだそうだ」


 リッシェルの湖岸、波音は穏やかに――桜の花咲く木の下で。

 サクラの母・ツバキは、爺ちゃんと出逢ったのだという。



 ちらちらと――薄紅色の桜の花弁が舞い躍る。

 湖面に揺蕩う花筏から、ふと目を離してツバキは云った。


「やれ毎日毎日、釣り糸も垂れないで……不思議なお方さねぇ」

「これは迂闊だったな」


 釣竿から糸を外すと、ゴトーはおもむろに仕掛けを付け直す。


「見ず知らず、行きずりのお方よ……聞いておくれ」


 大きく張った腹を撫で、ぼんやりと桜を見上げるツバキの横顔は――切なく儚げで。

 切々と話す彼女はそれでいて、どこか満ち足りた表情をしていた。


「憐れな母子の話さねぇ……」


 そう語り終えた彼女は、満開の桜にゆっくりと目を戻す。


「ただ一つの心残りは、この腹に宿ったあの人の命……」

「どうだ、ひとつ」


 ゴトーが朴訥な調子で口を開いた。


「その話、俺にひとつ乗らせてくれんか」

「えっ……?」

「その命、俺が預かろう」


 サクラの母・ツバキは、婆ちゃんの助産を受けてサクラを産んだ。

 こうして短い間だが……ツバキはサクラを抱くことが出来た。

 その後は暫くの間、穏やかで幸せな時を過ごしたそうだ。


「ただそれでも、絶対に避けられない死の病……」


 いよいよ最期の時が、ツバキに訪れようとしていた頃。病に苦しむ母の姿を、我が子には決して見せられない。そんな思いもあったに違いない。


「それに俺の爺ちゃんも、病気だったんだよ」


 ちょうどその頃、爺ちゃんは大病を患い、現実世界で手術をしている。医者からは「持って数年」と言われたが、結果残り十年の寿命を永らえた。だがその頃は、爺ちゃんの命もどこまで持つかは、神のみぞ知る状態だったという。

 獣人族の子供は、獣人族の村で育てた方がいい――そういう判断もあった。ツバキとよくよく話し合った結果、サクラを手放し、獣人族の村へと預ける決断をしたのだ。


 そこは善良で、穏やかで、慎ましやかなあの村だった。

 心より受け入れられたサクラは、仲間外れや迫害を受けること無く、望み通り健やかに育つことが出来た。そして結果、今のサクラの姿がある。


 しかし瑛斗には、一つだけ分からないことがあった。

 爺ちゃんは理由もなく、ただ可哀想だからと、いたずらに人の運命に立ち入らぬ人だ。何を思ってリッシェル邸へツバキを匿ったのか。教えてくれた婆ちゃんは、そこで口を噤んでしまったから、理由までは分からない。だが何らかのわけがあってのことに違いない。

 そして――間違いのない事実が、もう一つだけはっきりとしていた。


「君のお母さんは、君を産んで……胸に抱いて、望んでいた幸せな数年を、リッシェルのあの庭で過ごしたことは、間違いないんだ」


 本当は、元気に育った我が子の姿を、最後まで見届けたかったに違いない。

 育ったサクラを見届けて、一緒に歳を取りたかったに違いない。


「でもお母さんの最期はね、サクラ」

「うん……」

「とても満足そうで、幸せな笑顔だったそうだよ」


 その言葉にサクラは、母との思い出が鮮明に脳裏に甦った。


 櫻の花舞うリッシェルの畔。暖かな光と共に、風に流れる花弁が頬を撫でる。

 ふくよかな母の胸に抱かれて――優しく髪掻き上げて、母は言っていた。


「あたしゃ花を咲かせられなかったけど……」


 幼いサクラへ頬を寄せ、愛しげな瞳で見つめる母の面影。


「アンタは満開の花を咲かせなさいな……サクラ」


 満開の花を――だから、名前は――


「ああ、そうだった……だから、あたしの名前は、サクラ」


 涙を溢れさせたサクラの頬は、ぐしゃぐしゃに濡れていた。

 滂沱の涙を拭くことも隠すこともなく、サクラは泣いていた。


「なのにあたしは、盗賊なんかして……母さまに顔向けできない……」

「君は必死に生きた。だからきっと、君を責めない」


 婆ちゃんから聞いた話で、瑛斗は察していた。

 だからこそ感じたことを、思ったことを素直に口にする。


「君と別れる時に、君のお母さんが何を思ったか。何があったか。それは俺にも分からない。けれどきっと君のお母さんも必死に生きた……必死に生きた、その結果なんだ」


 瑛斗は、号泣するサクラに胸を貸し、そっと肩を抱いた。

 そうして宵送りの灯に輝く街を、二人でぼんやりと眺めた。


「エイトは……優しいね……」

「そんなこと、ないよ」


 今――瑛斗が彼女に伝えられる言葉は、もうない。

 それ以上何もできず、黙ってサクラに胸を貸すしかできなかった。


 眼下に広がる山間の街々には、シェードランプの灯りが橙々と揺らめく。

 満天の星空の下で、送り火の明かりが人々の想いの数だけ燈っていた。

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