第49話 ハイエルフと郷愁の花園の旅(番外篇)

「なぁ、アデリィ……暫くこっちに滞在しないか?」


 瑛斗がそう切り出したのは、エキドナ内乱を鎮圧した翌日。エキドナ別邸のラウンジで摂った昼食の後のこと。ゴールデンウィークの旅は、予定は少々狂ったもののつつがなく終了し、ドルガンとグラスベルの玄関街・イラへ帰る空路ルートについて相談していた時だ。

 瑛斗のいう「こっち」とは、リッシェル周辺地域のことだろう。つまり、この王弟公国に暫く滞在したいという意味だ。


「なんで?」


 アーデライードは、給女中メイドの淹れた食後のお茶をすすりながら訊ねる。


「なんでって、それは……」

「なんで?」


 答えようとした瑛斗に、いつの間にかすり寄ったレイシャが質問を被せてきた。

 軽く瑛斗の腕にぶら下がる様になっているのは、何かの意思表示だろうか。


「なんでって……どうしたのさ、レイシャまで」

「おひめさま、かんけいする?」


 ほう……レイシャが食い下がってきたのは、瑛斗とイリス姫の関係に気付いたせいか。

 その辺りはアーデライードもちょっと気に掛かっていたところだ。いいぞ、レイシャ。もっとやれ。


「関係するって聞かれたら……うん、そうだね」


 瑛斗が珍しく素直に答えた。いや、珍しくないか。瑛斗は元々素直だし、隠し事が上手ではない。しかも恋愛感情については朴念仁に等しい。どうやら正当な理由がありそうだ。


「まだ解決していないことが、この国には多い気がするんだ」

「ふーん……例えば?」

「例えば、行方不明のエレオノーラの姉……エルヴィーラ」


 イリス姫の従者騎士・エレオノーラには、宮廷秘書官の姉であるエルヴィーラがいた。

 いた――と過去形で表現するのは、現在行方不明の身であるからだ。生きているのか、死んでいるのか。ようとして消息は知れず、生死すらも分からない状態である。


「できれば、お姉さんを探し出してあげたいんだ。それに……」

「それに?」

「この地には、まだ計り知れない何かが眠っている。そんな気がする」


 アーデライードの問いに対するその答えは、冒険者として限りなく正解に近い。

 瑛斗が直感で感じている「計り知れない何か」を探す旅もまた、冒険者が求めて止まない好奇心――その素養の発露が一端といえるからだ。

 もしも瑛斗が公国のまつりごとに介入するようなことを口にすれば、アーデライードは有無を言わさず拒否するつもりでいた。王侯貴族のいざこざは、冒険者の領分ではない。だが事件解決となれば話は別。これは限りなく冒険者の案件であろう。

 そして瑛斗の直感は限りなく正しかった。何故ならば彼の云う通り、この地には確実に「計り知れない何か」が眠っているのだから。


「ふむ……ならいいわ。暫くこの地を旅しましょ」

「ありがとう、アデリィ」


 瑛斗に素直に礼を口にした。異世界を自分一人で冒険することは、とても為し得ぬことであると、彼自身が重々承知しているからだ。

 この実直で賢明な少年に、素直にお礼を言われて気持ち良くないハズはない。アーデライードはいけないと思いつつも、つい上機嫌になってしまう。

 それにあの生真面目で堅物な少女騎士・エレオノーラが歯を食いしばって闘った頑張りっぷりは、アーデライードも認めざるを得ない。そういう女の子を応援してあげないのは、ハイエルフの高貴なる血と誇りに賭けて名折れというものだ。本当にそうなのかどうなのかなんて、知らないけれど。

 そんなどうでもいいことを考えていたら、隣で瑛斗が首を捻っていることに気が付いた。


「どうしたのよ」

「でも、この近くに長期滞在できる宿はあるかな?」

「んんー……そこはまぁ、何とかなると思うわ」


 そういうのも、アーデライードはエキドナ周辺の地に心当たりがある。久しぶりに『あそこ』へ行ってみるのも悪くないだろう。

 けれど――自分の中に、ちょっとだけわだかまりは残っている。

 だからそうと予定を組んだ後は、そんな気持ちを綺麗さっぱり忘れることにして、今は何より今宵の宴について心躍らせることに決めた。


 そして、翌朝――


 エキドナ別邸でのどんちゃん騒ぎの大宴会の果て、二日酔いでガン潰しにしてやった騎士たちを横目に、手早く準備を整えると朝も早くからレイシャを連れて旅立った。

 瑛斗は今日から学校があるため、昨夜の内に異世界あっちの世界へ戻っている。次に異世界こっちへ訪れるのは二日後。それまでに全ての準備を整えなければならない。


「あーでれ、どこいく?」

「ゴトーのリッシェル邸よ」


 ゴトーのリッシェル邸とは、この地をいたく気に入ったゴトーが小さな小屋を借りて、リッシェル東岸の高台に居を構えたことにその歴史は始まる。

 農家を生業なりわいとする者らしく、ゴトーは様々な作物を気まぐれに作っていた。やがて屋敷の裏側には広大な段々畑が広がって、『運命の森』より流れ出す清浄で豊富な湧き水を利した山葵田わさびだなんかもあったはずだ。

 そうして当初は借りていただけの小さな小屋は、勇者としてゴトーの武名が広がるに連れ人々が集う様になり、やがて大きな屋敷となる。

 それでも相も変わらずこの地にて作物を育て、魚釣りを愉しんだゴトーであったが、今から考えるとただ単に娯楽レジャーのためだけにこの地を選んだわけではなさそうだ。

 後に『エキドナ』と名付けられたこの地方は、エディンダム王国から天然の要害・ヴェルヴェドへの補給路として河川、陸路共に重要な拠点なのだから。

 それを踏まえて思い出すに、ゴトーは醤油や味噌、山葵などを利用した、日持ちのする保存食作りに没頭していたのではないか――そんな気がする。

 肥沃な土地の少ない王弟公国の中でも、この地を直轄地として公国が手放さぬところを見るに、きっと何らかの理由が在るはずだ。

 当時そういった地勢条件に興味のないお気楽ハイエルフは、ただ単にゴトーとの旅の一部であって、その辺りの事情に関した記憶は定かではない。

 そういう事を考えるのは、六英雄の中で最も智謀に長ける大魔道師アーク・ウィザードのエリノアくらいなものだろう。


 ゴトーはもちろん、六英雄たちも、この屋敷に拠点に滞在していた時期は長い。

 魔王が未だ世界に君臨していた頃、ヴェルヴェド城の若い騎士らが訪れて、今もその名を残す『銀の皿騎士団』と命名したその場所も、ここゴトーのリッシェル邸である。

 魔王討伐後のゴトーは、この地を余生を過ごす終焉の地として選び、それこそのんびりとこの地と現実世界を行き来して、悠々自適に過ごした――ハズである。

 どうして予測めいた言い方をしているのかといえば、アーデライードは魔王討伐後に結婚してしまったゴトーから避ける様に、ちょっと距離を置いて離れていたからだ。

 というのも、ゴトーは家庭を持ったわけでお邪魔しちゃったら悪いし……あと、お嫁さんと鉢合わせちゃったら、なんというか、バツが悪いし……というのがその理由である。

 そんなことまで思い出して、不意に胸へ広がった苦い気持ちを頭を振って振り払う。


「さてと……もう築五十年近く経ってるし、今はどうなっているかしらね」


 屋敷や周囲の庭、そこへ到達する小路には、守護や管理・修繕を任せる各種・多岐に渡る結界魔法などが、ゴトーのリッシェル邸を当然の様に護っている。

 その魔法は六英雄たち――『冥界の魔女』と呼ばれたエリノアの古代魔法語ハイエンシェント、『鉄壁の聖闘士』エルルカ・ヴァルガの神聖語魔法ホーリープレイ、そして『聖なる森グラスベルの大賢者』アーデライードの精霊語魔法サイレントスピリットを、巧みなコンビネーションにより幾重にも渡って仕掛けたものだ。

 それらは全員が自信を持って絶対的強固に仕掛けたものだから、今をもってして平穏無事であるに違いない確信がある。


 さて、その名をリッシェル邸と呼べど、正確には『運命の森』入口と川沿いの町・ドラベナの中間あたり。双方から歩いてちょうど一時間ほどの距離だろうか。

 当時『エキドナ』という地名はなく、この河川周辺地域全てをリッシェルと呼んでいたからに他ならない。今だったらきっと『エキドナ邸』と呼ぶのが相応しいのだろう。でもそれは後発の地名なので、意地でも古き良きリッシェル邸って呼び通すつもりだけど。

 目指す目的地は山腹の中間辺りにあるため、森深い山肌を下ることなく『運命の森』の外苑に沿って歩き、そこから道なりに下る。

 ハイエルフの瀟洒な金髪を靡かせた皐月の風のさざめきに、ふと振り返れば森は限りなく穏やかな表情で颯々と緑葉の木々を揺らし、小さなエルフたちを見下ろしていた。


 ふぅん……なるほど『運命の森』とは、よく言ったものね。


 自らの心の動きひとつで森は、木々は、表情を変える。なのにこの森は、この森自体が自分の意志を持って表情を変えているかのよう――そう森の麗人ハイエルフの目に映る。


「運命の森よ、私が言いたいのはね――」


 そうと感じれば、一言言って置かねば気の済まぬことがある。

 すうぅっと小さく息を吸い込むと、麗しの朱き口唇が古代精霊語を刻んだ。


「今度エイトに悪戯したら、ただじゃおかないってこと。それだけだわ!」


 ――と、誰に聞かせるでもなくアーデライードは独り言ちた。

 急に立ち止まり何事か呟いたアーデライードに、レイシャが怪訝な顔をする。


「あーれで、なにかいった?」

「何でもないわよ……ホラ、行くわよ!」


 不満そうなへの字口のレイシャを急かしつつ、リッシェル邸への旅路を歩む。

 アーデライードの言葉を知ってか知らずか。『運命の森』は一段と穏やかな緑を蓄えて、ただ静かに小さきエルフたちを見下ろしているばかりだ。

 けれど、アーデライードはもう振り向かない。何故ならば過ぎ去りし思い出よりも、運命の歯車よりも――これからの新生活の方が、ずっと重要だからである。



 エーデルシュタイン家のエキドナ別邸より、五月の爽やかな風の中を小一時間程のんびりと歩いたあたりのこと。よく見知った森の入り口が見えてきた。

 その森の入口より続く小路こみちに仕掛けられた様々な結界を、暫く振りに鼻歌交じりで通り抜けると、果たしてそれはあった。

 ゴトーや六英雄ら古き友たちと過ごした、懐かしのリッシェル邸である。

 リッシェル邸は屋敷と口にすれど、公国のエキドナ別邸に比べれば、その四分の一にも満たない質素で小さな屋敷だ。とはいえ質実剛健、どっしりとした煉瓦積みの外壁には程よい程度に蔦が絡まり、重厚な佇まいを醸し出している。アーデライードとしては、煌びやかな豪邸よりも、質素堅実なこちらの方がずっとゴトーらしくて好みである。


「ここが、そう?」

「そうよ。ゴトーの屋敷……だけど」


 先程から得意の感知能力で周辺の様子を探っているのだが――あら、どうやら精霊たちが随分と慌ててるわね……さては、主人の不在でサボっていたところ、突然の帰還に吃驚して飛び起きたってところかしら。

 しかしその割に、庭先を見渡せばよく掃き清められていて、清潔に保たれている。

 左右に首を振って探し出した遠く先には、魔法のほうきたちがせっせと庭先を掃き清めているのが見えた。これはエリノアの魔法のひとつだ。その様子を暫し眺めていると、アーデライードに気付いた魔法のほうきたちは、ぺこりと頭を下げた。


「まったく健気ねぇ……」


 悔しいけれど、よくできている。私の精霊語魔法がサボっていて、エリノアの古代語魔法がちゃんと仕事しているを見るに、まるで二人の性格を表しているみたいじゃない――などと、ちょっぴり文句のひとつやふたつも言いたくなる。

 それにしても気になるのは、魔法のほうきたちが存外に綺麗な姿をしていること。

 多分……いや、きっとゴトーは死の間際まで、このほうきたちを繕い修繕していたのだろう。だから綺麗な姿を、彼らは今も保っている。

 ゴトーの死後から数えて三年以上。よって修繕から同等の時間が経過しているに違いない。それでもほうきたちがこの姿を保っているのは、ゴトーの丁寧な仕事のおかげ。そういう人だったから、きっとそう――そう思うと、胸の奥がジンと熱くなった。

 ゴトーが結婚しちゃった後も、もう少し多く逢いに訪れればよかったかしら……そんな幾つかの後悔は、ハイエルフの小さな胸の中に今も、ちくりと痛む棘の様に残っている。


 屋敷の中は、エリノアの管理魔法と、エルルカのあらゆる邪悪を寄せ付けぬ防護結界魔法、そして私の魔法・家の精霊『ブラウニー』たちが仕事をして……まぁ、少なくともこれからはちゃんと仕事をするだろうと仮定して、アーデライードにはちょっと気になる場所があった。

 それにはレイシャがちょっと邪魔だった。でももう仲間と決めたのだから、古き友らと同じ扱いをするべきではある。ちょっと割り切れないけれど、そうするべき。

 そんな気持ちがちょっと残る眼でジトッと見下ろすと、レイシャがじーっとこちらを見ている。この射抜くような瞳は、もう経験済みだ。子供の、いやこの子の持つ直観力みたいなもの。だからもう嘘はつかずに、真っ直ぐに聞く。


「私には大事な場所があるのだけど、あなたも着いてくる……かしら?」

「いく」


 レイシャは迷わずにそういうと、こくりと素直に頷いた。

 でもどういうつもりで私に着いてくるというのだろう。そこは瑛斗に「留守中アデリィの言うことはちゃんと聞くように」などと言われて、ただ従っているだけなのかも知れないけれど……邪推かしら?


「あーでれのだいじ、レイシャもだいじ」


 見事に邪推だった。これって私の心が汚れているわけでは、ないわよね?

 こういう素直な反応は、子供嫌いのアーデライードと言えども嫌いになれない。その純粋さを自分は失ってしまっているような気がして、少し悔しいけれど。

 アーデライードは溜息を一つ突くと、レイシャを伴って裏庭へ向かう。裏庭と言ってもそこは殆ど裏山。非常に広大だ。何せゴトーが耕した段々畑が、山一面に広がっているのだから。

 反時計回りに屋敷の裏側へと回り込むと、そこは雑草が生い茂る、すっかり荒れ果てた畑の姿があった。それはそうだ……この畑の主を失って久しい。荒廃した畑の姿を見れば、ゴトーはきっと悲しむのではないだろうか。そう思うとまた心が辛く重たくなる。

 この段々畑をどうするか。それは追々考えるとして、まずは目的の場所へ向かう。

 畦道を渡り、幾つかの水路を超えると、木々生い茂る小高い丘が見えてくる。この小さな森の中に、アーデライードには忘れられぬ思い出の場所があるはずだ。

 木々の間に間に程よく通された小路を、レイシャと二人歩く。何せ小さな森の中だ。程なくその場所には辿り着いた。

 荒れ果てた畑の惨状を見た後だけに、アーデライードの心の中に一抹の不安が過る。


 果たして、その場所に辿り着いた時、そこは――


 ぽっかりと広がった小さな場所に、小さな花畑がある。

 木々の間に間より差し込んだ太陽が、その花畑を明るく照し出す。

 暖かな春の光が、まるで祝福しているかのように。


「ああ……ここは、当時そのままだわ……」


 アーデライードは、思わず声に出して呟いた。

 花畑と謳うには、あまりにも矮小なスペースだ。けれどここは、自然の野の花が咲き誇り、とても幻想的な風景を、得も知れぬ情緒を作り出していた。

 下手に人間の手を加えることなく、四季折々、自然の野原を出来る限り再現し、作り出そうとしたゴトーお手製の庭――遠く故郷のグラスベルを離れ、ホームシックに罹っていたアーデライードの為に、ゴトーがそれによく似た花畑を作ってくれたのだ。

 もちろんここはグラスベルに於いて、ゴトーとアーデライードが初めて出会った小さな花畑を模したものだ。その為、石碑を模した大きな石まで、あの花畑と同じような位置に置かれている。ゴトーの苦労と凝り性と、何よりも優しさを感じる思い出の花園……裏山の段々畑とは違い、野の花を大いに利用して自然なままに作り出したお蔭で、この場所はゴトーの死後も見事そのままの姿を残しているのだろう。


 ふわり……ふわり……


 そんな時、アーデライードの鼻先を、見覚えのある精霊が通り抜けた。

 それは、花の妖精。森や街の中、春先には何処にでも現れるポピュラーな精霊だ。

 けれどその精霊たちが、命じずとも一斉に立ち上がる姿は、アーデライードですらそう多く見られるものではない。

 彼ら――いや、彼女らだろうか――気まぐれなはずの花の妖精たちは、アーデライードの久々の帰還を懐かしみ、自ら進んで歓迎してくれているのだ。

 次々に立ち上り、ふわりふわりと上空へと舞い始めた妖精たちの姿と共に、密度の濃い濃厚な精気マナが周囲に溢れているのを感じていた。

 この小さな小さな花園は、長い月日をかけてそれだけの力を得ていたのである。


「あは、ふふ……あはは……!」


 つい心躍るままに、喜びが声となってアーデライードの口から溢れた。

 これを喜ばぬ精霊使いが、この世にはいるだろうか。いや、居るまい!

 駆けだしてしまいそうになる心をぐっと押さえて、胸元に手を置いた。それでも耐え切れず両手を広げると、その場でくるくると回って見せた。

 しゃがんでじっと野の花を見ていたレイシャが、怪訝な顔をして不思議そうに顔を上げた。それでもアーデライードはその態度を気にすることなく、レイシャに訊ねた。


「ねぇ、レイシャ。お花の冠を作ろっか」

「ん、おはなのかんむり?」

「そうよ、お花の冠!」


 無言で首を傾げるレイシャに、アーデライードはご機嫌な様子で告げた。


「わからないかしら……だったら作り方を教えてあげるわ!」


 怠惰で面倒臭がりなハイエルフにしては、随分と親切なことだ。そんなこと自分でもよく分かっている。けれど今の気持ちは、抑えることなどできっこなかった。

 変わってしまうことは、たくさんあるだろう。今までも、そしてこれからも。けれど、変わらぬものだってたくさんあったのだ。

 過去の後悔はまだ残っている。それはずっと残り続けていくだろう。でもそれ以上に、新しい未来への希望だって、きっと何処かに拓けているはずなのだ。


「それじゃ、ね、レイシャ。ここをこうしてね……」

「ん」


 背の小さなアーデライードは、しゃがむとレイシャとさほど変わらぬ姿となる。端からは、さぞかし幼い二人が花畑で無邪気に遊んでいるように見えるであろう。

 ハイエルフとダークエルフ――異世界の一般常識では、とても考えられないくらい大きな種族の壁を越えてふたり遊ぶ姿を、世界で唯一この花畑で見ることができる。

 今はそんなことお構いなしのふたりだから、そのことにまるで気付いていない。だがこれも、アーデライードが感じた未来の、希望が内のひとつやも知れなかった。

 ふたりは――日が暮れかける寸前まで、この花畑で遊んで過ごした。



 久々の、現実世界の高校で日常生活を過ごして二日。

 夢のような世界で起きた出来事こそが自分の現実ではないかと思うくらい、濃厚な旅を過ごしたものだと瑛斗は思う。実際にはどちらも現実に違いないのだが。

 瑛斗は『運命の森』の大地の割れ目より、再び異世界へとやってきた。

 ここより爺ちゃんの過ごしたというリッシェル邸への道順は、アーデライードからだいたいの所は聞いている。聞いてはいるが、あのアバウトさを誇る適当ハイエルフの事だ。無事に辿りつけるか自信がない為、瑛斗は早めに家を出て異世界へとやってきていた。

 すると木陰から飛び出した、とととっと走り寄る小さな影。


「アリャリャ、レイシャ?」

「エート、おはよう」


 そのまま瑛斗の右腕にぶら下がる。ここがレイシャの指定席なのだ。


「おはよう、レイシャ」

「レイシャ、エートまってた」

「早めに来たんだけどな……レイシャは随分と待ってたのか?」


 そう訊ねると、レイシャはふるふると首を振った。


「ううん、ちっとも」


 なんだかデートの時のお決まりの台詞みたいだ。だが瑛斗はそんなはずはないか、と高を括ってスルーした。よって、真相は闇の中である。


「あれ、それはどうしたの?」


 いつもの様にレイシャの頭を撫でようとすると、そこには花で編んだ冠が乗っていることに気が付いた。白爪草を中心に、野の花で編んだ可愛らしい冠である。

 決して上手な出来栄えとは言えないが、それでも愛らしさで満ち溢れていた。


「どうしたの、これ」

「レイシャ、つくった」

「へぇ、可愛いね」


 そういうと、レイシャはくすぐったそうな表情を見せて、


「でーとは、おしゃれ、だいじ」

「うん?」


 とても恥ずかしそうに小さな声で呟いたため、瑛斗にはよく聞き取れなかった。

 それでもいつも無表情で何事にも興味を持たないレイシャが、こういう何気ない可愛らしさを身に着けて来たことに、瑛斗は喜びを感じていた。

 もしかしたらこれが『父性』かも知れないなぁ、などと心の中で思いながら。



 森の入り口を潜り抜け小さな小路を往けば、やがて目の前が開けたそこに堅牢で古びた煉瓦造りの屋敷が見えた。どうやらレイシャの正確な道案内のおかげで、思いの外早い時間にリッシェル邸まで辿り着いてしまったようだ。

 だがいつもなら得意の感知能力で、気配を感じてひょっこりと顔を出すハイエルフの姿が、珍しく今日は見えない。


「ねぇ、レイシャ。アデリィはどこにいるか、知らないかい?」

「ん、たぶん、しってる」


 そう言うと、道案内をするように先行してとととっと走り出した。どうやら時計回りに屋敷の裏手へと回り込むらしい。

 小さなダークエルフに導かれて、瑛斗はゴトーの裏庭を進む。

 荒れ果てた段々畑の様子を眺めながら、それでも瑛斗は爺ちゃんの確かな痕跡を感じ取っていた。爺ちゃんはここで、畑を耕して過ごしていたんだろうな――現実世界で畑仕事に勤しむ爺ちゃんの背中とよく重なって、その姿がはっきりと脳裏に浮かぶ。

 石造りの小さな橋を渡って小川を超えると、レイシャは小高い丘の森の中へと足を踏み入れた。瑛斗もその後を、景色を味わう様にしてゆっくりとついてゆく。

 この風景、この感じ……やはり何故か、どこかで見覚えがある。

 瑛斗がそう感じるに確固たる証はないが、ぼんやりとそう感じるには理由がある。それは聖なるグラスベルの森の中を、幾度となく歩いている瑛斗だからこそ分かる空気だ。

 間違いなくそれだと気付いたのは、木々の間に間を抜けた瞬間だった。


 目前に広がる小さな花畑――グラスベルの花畑によく似た光景だ。

 そしてその中心に、絶世の容姿端麗なハイエルフを目にしたからである。


 一面の花畑の中でしゃがみこむその少女は、いつもの見慣れた旅装姿ではない。

 少し胸元の開いたワンピースにふんわりとその身を包み、生花の王冠ティアラを頭に飾り着けていた。白磁の様に白く透き通るような肌。蜂蜜を一滴落としたような滑らかな金髪。特徴的な尖った長い耳を持つ、国色天香、見目麗しのハイエルフ。紛うことなき絶世の美少女ぶりに、瑛斗は暫し時を忘れる程にその目を奪われた。


「あっ、あれ? エイト……?」


 不意に金の髪を揺らして蒼玉色サファイアに輝く碧眼が、こちらを振り向いた。

 アーデライードにしては珍しく、心ここに在らず。何処か別の考え事に耽っていたらしい。瑛斗に気付いて、少し慌てている様子である。


「や、やだな……気付いているなら、声を掛けてくれればいいのに」


 本来ならば瑛斗が来る前に花冠を作り上げて、彼を出迎えた時におしゃれしてちょっぴり驚かせてやろう――アーデライードはその程度に考えていた。

 レイシャに先手を取られてしまったが、そういう行動原理だったはずだ。

 だが、ひと編みひと編み丁寧に花冠を仕上げていくうちに、つい遥か昔の出来事を思い出したりなんかして、いつの間にやらすっかり気を取られてしまったようである。

 瑛斗に恥ずかしい姿を見せてしまったのではないか。不安な気持ちになってしまう。


「あの……エイト?」


 しゃがんだまま不安そうな上目遣いで瑛斗を見上げるアーデライードに、瑛斗は至極生真面目な表情で率直な感想を真っ直ぐに彼女に告げた。


「やっぱり、アデリィは綺麗だな」

「え、あっ……ふっ、ふえっ? ふええっ?」


 彼女の美しさはもう、何度も見慣れているはずだった。だが美しいと感じるものは、見慣れていようが美しい。野の花は野にあってこそ美しく咲くように、エルフという一族は、森の中にあってこそ輝きを増すのかも知れない。瑛斗は改めて、そう感じていた。

 一方のハイエルフはといえば、白磁の頬を真っ赤に染め上げて、またも完全にのぼせ上ってトロけ切っていた。


「ふひっ……ふえぇっ、にゃ、にゃにゃー……」


 実直で素直な瑛斗は、人の目を見て真っ直ぐに語る。それがこのハイエルフにとって、どれだけ罪深い行為か。知ってか知らずか問われれば、間違いなく無意識であるが。


「あれ、ええっと……アデ」

「エート」

「はっ、わっ! レ、レイシャ!?」


 レイシャが急に瑛斗の右腕に全体重をかけてぶら下がった。軽量のレイシャと云えど、そう急にやられては流石に支えきれるものではない。瑛斗が花畑の真ん中で尻もちをつくと、野の花びらがふわりと風に舞った。


「エート、ずるい……」

「え、あっと、ごめん」


 頬を少し膨らませたレイシャの言葉を、よく理解できぬままに謝罪する。

 だがこのタイミングで、朴念仁の瑛斗は全然関係のないことを思い出した。


「あっ、ああそうだ。みんな朝ごはんはまだだろう?」

「ん」

「ふゃい……」

「折角いい場所なんだし、ここで朝ごはんにしないか?」


 そう言って瑛斗は、背中のバックパックを開き始めた。中から取り出したる風呂敷包みは、三段に重ねられた重箱。婆ちゃんが朝ごはんに食べろと持たせてくれた弁当である。

 瑛斗は手早く用意をすると、人数分の箸や紙皿、紙コップ。ふたつ水筒を取り出して皆に配膳する。ひとつの中身は味噌汁、もうひとつは温かい麦茶の入った魔法瓶であった。

 ぼんやりとトロけたままのアーデライードの手にも、次々と手渡された。


「さ、食べようよ」

「にゃい……」

「こんな場所で食べる弁当は、いいものじゃないかな」

「ふにゃい……」

「アデリィ、美味しいかい?」

「ふへぇ……」


 レイシャが美味しそうにおにぎりをパクつく一方で、アーデライードはなんだかよく分からない返事ばかりを繰り返した。だがどうみても幸せそうで満足そうな表情なので、瑛斗は「まぁ、これでも良しかな?」と片付けてしまった。


 そうして三人は、ささやかな朝餉の会を小さな花畑で開くこととなった。

 皐月の緑葉の中、野の花の薫風そよめく春の庭で味わう弁当は、格別であった。

 只一人、恋に夢中でトロけきったハイエルフを除いては。何しろ彼女は食べた弁当の味どころか、弁当そのものを食べたことすら後に覚えていなかったのだから。

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