第48話 盲目の皇女と行く温泉の旅(番外篇)

 午前中まで臨時のエキドナ護衛騎士団として活動をした『エキドナの騎士』たちは、午後の陽が山の端へ落ちる前に、任を解かれて一時解散することとなった。

 それというのもエアハルトらを中心に、伝書を携えた騎士たちが早馬を飛ばした為だ。当然、伝書の署名と封蝋はイリス姫である。これにて此度の内乱に関する情報は、公国内の各陣営へと迅速に駆け抜けた。もちろん早馬の届け先は、公国側へ信義を重んじ忠義の篤いとされる騎士団へ向けてである。

 その速度は特に公国府・ヴェルヴェドへの到着が何よりも早かった。何しろドワーフの戦士長・ボルバルの飛龍ワイバーンがその役を買って出たのだから。

 飛龍は明け方早くにエアハルトを乗せて出立し、早朝練習中の闘技場コロシアムへ降り立つと、公国の重鎮が一人であるクリフ・ヘイゼルダインへイリスの伝書と共に二通の親書を届けていた。

 その二通とは、六英雄である『闘将ドルガン』と『聖なる森グラスベルの大賢者』アーデライードの手による親書である。クリフという男は、事件の報告と六英雄ふたりの親書を手にして動かぬような男ではない、というのが彼らの一致した意見だ。


 王女直々の伝書に、幾多の戦火を潜り抜けてきた公国騎士団の動きは早かった。


 まず午後一番に到着したのが、クリフ・ヘイゼルダインその人である。自ら乗騎する魔獣・ヒッポグリフに跨って、単騎押っ取り刀で駆けつけたのである。

 此度の内乱は完全に公国全土に於ける守備網の間隙を衝かれたようで、クリフが厳格な面持ちで「面目ない」を何度も繰り返して悔しがる姿が印象深かった。

 説教顔のアーデライードであったが、敵味方問わず大混乱を招いたキッカケは、瑛斗は元より気まぐれハイエルフが一枚も二枚も噛んでいるので、クリフや公国の騎士らに一概に責任を押し付けるのは、如何なものだろうか。


 次に到着したのは、北方で蛮族と交戦中の第五騎士団『黒き峰騎士団』約百六十名、続いて西方穀倉地帯を守護する第九騎士団『金の蔵騎士団』約七十名ら、一桁台の騎士団号を冠する公国内最大級の騎士団であった。しかも団を率いるは共に団長であり、此度の事件をどれほどに重大且つ深刻な事件と目したかを、よく物語る出来事と云えよう。

 第五・第九騎士団団長は『ヘイゼルダインの七本槍』と呼ばれるクリフの愛弟子たちであるという。臨時の護衛部隊だが、この後の警護等に関しては安心しても良さそうだ。

 スピードで劣る飛龍ワイバーンは、クリフ到着に遅れること随分と経過してからの到着となった。ちなみに、初めて空の旅を体感したエアハルト曰く「生きた心地がしなかった」と零したが、その辺り貧乏くじと称される所以でもあろう。


 臨時エキドナ騎士団の総大将には、満場一致でクリフ・ヘイゼルダインを選出。今後はクレーマン子爵が一族の所領・デラヴェへの交渉と制圧に当たることとなる。

 本拠地には、閉鎖されていたエキドナ本城が三年ぶりに開城され、各騎士団が常駐することとなった。兵站は第九騎士団『金の蔵騎士団』が兼務して、順次運び込まれる手筈だ。

 今後イリス王女に忠誠を誓う数々の騎士団が続々と合流するであろうことは、想像に難くない。現在は大混乱に陥っているであろうデラヴェより、いずれ寛大な処置と恩赦を求め、完全降伏の使者を派遣してくるのは時間の問題であろう。


 こうして『エキドナの騎士』四十八名は、晴れて任を解かれたのである。


 さて、そうなると我らがハイエルフの興味は、俄然宴会へと注がれた。

 アーデライードは宴会の準備と言わんばかりに、重傷だったドラッセルをスピリチュアルな加護を持つ『運命の森』の中心へ連れ出すと、彼女お手製の超自然的大回復を行う精霊語魔法サイレントスピリット「ヒーリング・フルラウンド」をかっ喰らわせた。


「おっおおおっお、ああっあおおっお……!?」

「あのさ、アデリィ」

「なによ?」

「これって大丈夫なのか……?」

「大丈夫じゃない? たぶん……」


 瑛斗も騎士らと共にその様子を見届けたが、これは本当に大丈夫な魔法なのかとちょっと不安になる効き目だ。

 だが一時間後、ドラッセルはそのおかげか今や色んな意味で絶好調である。


 そうしてアーデライードからクリフへの命令――否、強い勧めもあって、即席ではあるが慰労の宴が開かれることになった。最大の功労者である四人の騎士と六英雄らを中心に、負傷の深い者を除く、凡そ四十余名の『エキドナの騎士』たちが招かれ、特別に解放された迎賓室へ一堂に会した。

 イリス姫も開会の挨拶をするとあって、各騎士団団長らも顔を出していた。

 まずは主賓の一人『月の雫騎士団』団長ビアンカ。そして『黒き峰騎士団』団長ダールベルク、『金の蔵騎士団』団長フォルマーらである。

 開会の挨拶が終わり宴会が始まると、職務を残すダールベルクとフォルマーは退出して行った。それにしても『月の雫』とか『金の蔵』とか、居酒屋みたいだな……と瑛斗は思ったが、『銀の皿』と同様で固く口を閉ざして置くことにする。


 アードナーやドラッセルらは、ハイエルフを中心にして久々の酒を存分に楽しんだ。

 酒の飲めぬ瑛斗はといえば、小さな背丈で大剣を振り回す戦士が余程珍しいのか、あちらこちらのテーブルに呼ばれては可愛がられて、今回の活躍について訊ねられた。

 そんな中でも『月の雫騎士団』団長ビアンカを始めとした女騎士たちは華やかで、当初はソフィアを囲んで会話に花を咲かせていたが、迂闊にそこを通りかかった瑛斗は飛んで火に入る夏の虫。まさに格好の餌食であった。いろんな意味で散々可愛がられたのは言うまでもない。


 さて宴もたけなわとなったところで、一仕事を終えて途中参加したクリフが加わると、迎賓室は一気にヒートアップした。何せ彼は、騎士憧れの英雄である。主に若手で結成された『エキドナの騎士』たちにとっては、天の上の存在と云えよう。

 あれほど緊張の面持ちを見せたアードナーやドラッセルを見たのは、初めてであった。

 だが、この日ばかりは無礼講だ――と唱えて、場の緊張を和らげた大酒呑みのハイエルフとドワーフがいた事は言うまでもない。そうして宴会の中心へと躍り出るも、自分らが『六英雄』であると全く明かさぬところが、また歴戦の曲者っぷりである。


 すっかり食事を済ませた瑛斗は、クリフの登場を期としてイリスとエレオノーラが中座したタイミングを見計らい、レイシャと共に宴を退席することに決めた。


 何しろ今日はゴールデンウィーク最終日。明日から学校があるからだ。


 それを知っているアーデライードも当然、瑛斗を無理矢理引き留めることはない。酔っ払えども、その辺りの分別くらいは付いているようだ。満杯の杯を片っ端から平らげつつ、瑛斗へは目もくれず手をひらひらと翻している。かといってこのハイエルフ、決して飲酒に夢中なわけでも、余裕があっての仕草というわけでもない。

 一抹の寂しさはあれど、休日明けは二日ほどですぐに土日がやってくる。寂しい時間が大して多くないし――というのが、ちょっぴり素っ気なく振る舞える強がりの理由である。

 ではあるが、瑛斗はそんなこと知る由もない。この気まぐれハイエルフには『運命の森』で見送った時のように、直立不動で後ろを向いたまま振り返りもしないような、そっけない仕草を見せることがままあるので、瑛斗もさして気にしなかった。

 が、なんだかんだで退出してゆく瑛斗の背中を、横目でちらっちら見るアーデライードである。ソフィアはそわそわと忙しないハイエルフを眺めつつ「エイト君も気付いてあげればいいのになぁ」と苦笑いするしかなかった。


「さぁっ、呑むわよ! ここからが大人の時間なんだからねっ!!」


 雄叫びを上げたアーデライードに、ドルガンやアードナー、ドラッセルら大酒呑みたちが次々と呼応して杯を掲げる。

 そうして、ハイエルフ達は本格的に飲んだくれることに決めたのだった。



 その頃――レイシャを客室へ寝かしつけた瑛斗は、イリスからの勧めもあり、エキドナ別邸に備え付けられている温泉を頂くことにした。

 この温泉は勇者ゴトー――すなわち爺ちゃんとも深いゆかりがあるそうで、爺ちゃんっ子である瑛斗としては、ひとっ風呂浴びてみないわけにはいかなかった。それにまつわる話なども、いずれ辿ってみたいところだ。

 さてこの温泉は、内風呂と露天風呂が一体となった構造をしており、瑛斗が思っていたよりもずっと広い。その広さは昔、爺ちゃんと行ったことのある草津の「西の河原露天風呂」を思い出す。

 この温泉までエキドナ別邸三階の渡り廊下から至るだけあって、高原の中でも頭一つ高台にある。それ故に陽が沈んでさえいなければ、さぞかし眺望は良好なことであろう。

 温泉の様子を一通り眺めた後、脱衣場へ戻って早速衣服を脱ぎ捨てると、岩の湯殿へ足を付ける。湯の温度はやや熱めであるが、高原の夜はやや冷える。これは丁度いい温度といえそうだ。

 掛け湯をしてから身体をゆっくりと湯船に沈めると、染み入る湯の心地よさに、これまでの激闘の疲れがじんわりと癒されるようだ。今まで温泉に興味がなかった瑛斗であるが、両親が休日になる度に「温泉行きたい」とこぼす気持ちが少し分かったような気がする。

 岩肌を白糸の滝のように流れる全てが源泉であるようだ。この岩肌を流すことにより、丁度いい温度に調節しているのかも知れない。水源豊かなエキドナ地方らしい、実に贅沢な、まごう事無き源泉かけ流しの温泉。日本人にも贅沢な露天の岩風呂だ。爺ちゃんがリッシェル周辺地域を愛した理由がよく分かる。

 湯の触れた肌は滑らかで、きっと泉質は日本にも負けず劣らず。イリスの美しい肌も、この温泉によって磨かれたのではないか――などと考えてしまったお蔭で、つい彼女の抜群な裸身を思い出した。これではいけないと、ぱんぱんと頬を叩いて邪心を振り払う。


 そうして目を開くと――いつの間にか全裸のイリスが真ん前に立っていた。


「う、うわぁ、イリス?!」

「ああ、勇者様……そちらにいらしたのですね」


 どうやらイリスは頬を叩く音で、瑛斗の位置を把握したようである。

 瑛斗は慌てて頭の上の手拭いを以てして、己の股間を隠す。


「ふふ、慌てずとも私は生来目が見えません。ご安心を……」


 慌てて立てた水音で自分の行動をすっかり把握されていることを恥じるも、イリスの裸身を前にして慌てず騒がず安心までできる程、人生経験が豊かな瑛斗ではない。

 すっかり動揺した瑛斗は、イリスの方を見ぬように顔を背けて問うた。


「ど、どうしたのさ、イリス」

「はい……勇者様の御背中を、流しに参りました」


 イリスは自らも湯船へ身を浸すと、そろそろと瑛斗の方へと歩み寄る。

 そうなると瑛斗は最早、慌てることしか出来なくなった。


「ちょっと待って、あの……見えちゃうから!」

「ですからご安心ください。私には見えません故」

「そ、そうじゃなくって、お、俺が見えちゃうよ!」

「ですが、その……最早今更ではありませんか……?」


 イリスは恥ずかしそうに口元へ手を当てて、顔を赤く染めた。

 確かに瑛斗は『運命の森』で彼女の全裸をしっかりと見てしまった。目を瞑ればはっきりと思い出せる程に……とはいえ、彼女の説明で納得できるかと言えば別問題である。

 こういう時はむしろ男性の方が恐縮してしまうものだと聞いたことがある。女性というものは、一度裸身を晒してしまえば、こんなにも度胸が持てるものなのだろうか?

 ――などと経験皆無な瑛斗は、混乱する頭で余計なことを考える。


「あの、私にはこんなことしかお礼のしようがなく……ご迷惑でしょうか」

「め、迷惑なんて、そんなこと、ない」

「ではせめて感謝を込めて、勇者様の御背中を流させては頂けませんか?」


 勇気と覚悟を持って現れたイリスに、再びそう問われては断れまい。

 瑛斗はカラカラに乾きそうな口唇で「そ、そ、それじゃ、頼むよ」と吃りつつ、イリスに背中を向けた。


「そっ、それと俺はまだ勇者見習いだ……だか、だから、瑛斗でいいよ」

「はい、エイト様……」


 イリスは目が見えずとも、この露天の岩風呂内部を細部に至るまで理解している。瑛斗との会話で位置は把握した。ゆっくりと近づくと、遂に瑛斗の背中へ届いた。


「エイト様……」

「う、うん」

「では……」


 まず最初に瑛斗の背中へ触れたのは、小さくて柔らかいイリスの手だった。

 そうして背中を擦るのは、おそらくヘチマで作ったタワシだ。そういや爺ちゃんは、よくヘチマのタワシを愛用していたっけ。そんなことを、こんな時に思い出す。

 イリスの手が、優しく瑛斗の背中を擦る間、二人の間に会話はなかった。

 瑛斗は瑛斗で緊張して何事も話せなくなっていたし、イリスはイリスで感謝の気持ちを込めて、瑛斗へ一生懸命に奉仕していた為だ。

 そうして暫くするとイリスの手が止まった。止まったと思うと、こつん、と瑛斗の肩へ何かが触れた。それは彼女の額だった。おでこを瑛斗の肩に付けたのだ。


「な、なに……?」

「申し訳ありません、エイト様……」

「どうしたの、イリス」

「此度の戦いで……激しい戦闘の行われている最中、私は何もできませんでした……沢山の優秀な騎士たちを、死地へと送り出すような真似をしてしまった……」


 そう告げると、イリスの両目から零れ落ちた熱い涙が、瑛斗の背中を伝う。

 企みを暴き、不正の真偽を糾す。己の命を危険に晒してでも、いつかは行わなければならぬ王族としての宿命。だがその行為は、味方の騎士らの命をも預からねばならぬ。

 覚悟は決めていたこととはいえ、初めて死を伴う危険な戦いに直面して、イリスの心は深く傷ついていた。騎士らの前では凛と背筋を伸ばし王女として自分の仕事を見事に成し遂げたといえども、中身は普通の心優しき女の子なのだ。

 だからそれは、如何に王女と云う身分であれど仕方の無いことだった。


「そうして私はエレオノーラを……幼馴染で親友の妹までも危険な目に遭わせて……」


 流れ落ちるイリスの涙は、もうとどまることは無く――次から次へと瑛斗の背中を伝っては、ほろほろと流れ落ちてゆく。小鳥の様な可憐な声はすっかりと涙声へと変わり、感情を絞り出すのが精一杯のようだった。


「私は今……とても、悲しくてつらい……王女という身分なんかに、生まれなければ良かったのに……」

「そんなことは、ない」


 瑛斗はきっぱりとそう言い切ると、真っ直ぐにイリスへ顔を向けた。彼女の顔を見て、しっかりと伝えなくてはいけないと思ったからだ。

 唐突に振り向いてか細い両肩を掴んだ瑛斗に、イリスは少し驚いた顔をした。


「君が王女でなければ、きっと誰も救えなかった」

「私でなければ……救えなかった……?」

「そうだ。イリスはよく戦ったんだ。俺との約束を守って」


 イリスにはイリスの、王女としての戦いがあった。その戦いを真正面からしっかりと戦い抜いたからこそ、四十八人の騎士たちは、改めて彼女に忠誠を誓ったのだ。

 その王女の優しい心根を、騎士たちの真っ直ぐで熱い心を、瑛斗は誰よりも間近で見て知っていた。だからこそ、きっぱりと断言してみせた。

 瑛斗は自分の人差し指をイリスの頬へ宛がうと、零れる一滴の涙をそっと拭う。イリスはじっと動かずに、瑛斗の行動を大人しく受け入れた。


「それにね」


 瑛斗の右腕に掛っていたイリスの手を握りしめ、告げた。


「イリスが王女じゃなきゃ、俺たちは出逢えてなかったかも知れない」

「エイト様……」

「例え『運命の森』の悪戯だとしても、俺は君と出逢えて良かったと思ってる」

「ああっ……は、はい……!」


 瑛斗が笑顔を向けながらそう言うと、イリスはようやく笑顔になった。

 目の見えぬイリスには、瑛斗の笑顔は見えていないはずだった。だが心からの笑顔はきっと、イリスの心に届いているはずだ――そう信じた。信じられた。

 そんな瑛斗の気持ちの通り、イリスは心の底から瑛斗の笑顔を感じていた。


 なんという気持ちのいい笑顔なのだろう、と。

 晴れ渡る青空から照りつける、まるで春の太陽のようだ、と。


 きっと伝説の勇者様の笑顔も、このようなお顔だったのではないか――声だけで嘘を見抜くイリスの、心根から温かくさせる瑛斗の声は、何よりも優しく穏やかに感じられた。

 そうしてイリスの胸の内に、何やら幼い子が得たかのような初めての気持ちがひとつ、芽生えているのを感じてた。


「あの、エイト様……もしかしたら私は、貴方を……」


 その時、悲鳴に近い雷撃の様な怒声が広い湯船に響き渡った。


「なぁぁーっ?! 何をしているッ、貴様ぁーッ!!」


 静寂で神聖な空気を切り裂く無粋なその声の主を、瑛斗はよく知っている。イリスの真面目で忠実なる従者騎士・エレオノーラであった。

 寝室に姫のお姿が見えぬことに気付いたこの真面目な騎士は、脱衣所に姫の服があることに気付いて湯殿まで覗きに来た結果である。悪意はない。極めて実務に真面目なのだ。


「き、貴様ぁッ! てッ、手打ちにしてくれるッ!!」

「ちょ、ちょっとま……」


 我を忘れたエレオノーラが真っ赤な顔をして怒鳴る。それもその筈、素っ裸の男女が互いの肩に触れ、身を寄せ合っていたのである。エレオノーラはその身をカタカタと震わせながら、今にも腰のサーベルを抜き放たんばかりであった。

 普段は冷静沈着で優秀な彼女であるが、あまりにもショッキングな状況を目にして、我が姫の御前であることをすっかり失念していた。


「エレオノーラ、大恩ある勇者様の御前で何をしているのです?」

「……ハッ!?」


 イリスの凛とした声が浴場によく響く。それは何時にも増して威厳を感じさせる声。

 エキドナの庭に於ける演説と瑛斗の励ましを経て、失いつつあった王家の威信を取り戻したかのような、自信に満ち満ちた声だった。

 直にお叱りを受け、姫の御前で声を荒らげる失態を、エレオノーラは心より恥じた。


「恥を知りなさい、エレオノーラ」

「はっ! もっ、申し訳ございません、我が姫……!」

「浴場に着衣で立ち入るとは何事ですか」


 えっ、あっ、あれ? 怒るところは、そこなの?

 布ずれの音でエレオノーラが着衣と気付くのも凄いけど、ツッコミどころも凄い。

 と、思った瑛斗が口を挟む間もなく、イリスの言葉は更に続いた。


「浴場は、互いに裸同士で語らう社交場です。貴女もお風呂へ入りたいのならば、ちゃんと衣服を脱いでいらっしゃい」

「ハハッ! って……はぁァーッ?!」


 エレオノーラの声が、情けない程に無様な裏返り方をした。自分でノリツッコミをした癖に、そんな自分の声にすら驚いているようだ。

 だがエレオノーラは極めて真面目な少女である。この状況を目にしては、最早見て見ぬ振りなどできぬ。それに我が姫のお傍を離れることなど侍従騎士としてありえない。更に返事をしてしまった以上、責務を全うすることこそが騎士の勤め。

 何よりも、エレオノーラにとって姫の命に逆うなど、以ての外の行為であった。


「ふ、ひんっ……ひ、姫のご命令とあらば……」


 顔を真っ赤にしつつ、エレオノーラは涙目で衣服を脱ぎ始めた。

 そんな布ずれの音を聞き、穏やかな表情で「それでいいのですよ」という顔をイリスはしている……けど、よくないでしょ! と、誰よりも大慌てなのは、瑛斗である。


「ちょっと待って! 脱がなくてもいい、脱がなくてもいいって!!」

「エイト様、それでは示しがつきません。浴場は裸の社交場です。互いに腹を割り語り合う浴場で着衣は無粋。勇者・ゴトー様もそう仰っていたと、伝説にはあります」


 ええええっ? 爺ちゃん、そんなこと言ったの?

 確かに一緒に銭湯へ行った時に聞いたけど、それは男同士の話で……


 などと瑛斗が考え込んでいる隙に、エレオノーラはあれよという間に下着姿になりつつあった。恥じ入るあまり顔を真っ赤にし、目からは大粒の涙が零れ落ちそうである。ぐずぐずしている内に、遂には胸当ての紐へと手を掛ける寸前まできていた。


「ひっひんっ……ひっ……ぐすっ……」

「ス、ストーップ! や、タオルはセーフ! タオルはセーフだから!! ほら、俺を見てくれ、ちゃんと下にタオルは巻いている!! 脱衣場に大判のバスタオルがあるから! それを気兼ねなく使ってくれていいから! 頼む! それを巻いてくれ!!」


 瑛斗がそう叫んだ。大判のバスタオルとは、瑛斗が自分の世界から持ち込んだものである。瑛斗の心からの嘆願を読み取ったイリスは、多少納得した表情を見せ、


「そうですか……エイト様がそこまで仰るならば、それは『せーふ』でしょう」

「はっ、ハハァッ! 騎士の情けにこのエレオノーラ、一生感謝いたします!」


 ようやくイリスのお許しを得たエレオノーラは、余程恥ずかしかったのだろう。地獄に仏と言わんばかりに、脱衣場へと猛ダッシュで駆け戻って行った。

 ところで騎士の情けってなんだ。武士の情けを異世界ではそう言うのだろうか。

 瑛斗は全裸のイリスひとりでさえ頭に血が上っていたのに、一気に逆上のぼせ上りそうになった。茹でダコのように茹ってしまいそうだった。

 暫くすると、白い大判のバスタオルを身体に巻いたエレオノーラが、おずおずとした様子で浴場へ現れた。


「ひ、姫……私は……」

「ふふ……こちらへいらっしゃい」


 イリスは何の躊躇いもなく、自分付の従者騎士を自分の傍へと呼び寄せる。

 できればその傍に男である瑛斗がいるということを、忘れないで欲しいと願う従者騎士と勇者見習いのふたりであった。


「やっと一緒に入ってくれた」

「え、や、あの……」

「一緒のお風呂に入るのは、子供の頃以来ね」


 確かに以前、そう言われたことをエレオノーラは思い出す。あの時と同様に、つい「恐れ多い」と口にしそうになるところをぐっと堪えた。

 何故ならば、嬉しそうに語るイリスはきっと、子供の頃の様に純粋に一緒のお風呂を喜んでいる。だからこそ――彼女に「恐れ多い」と言うことは「恐れ多い」ことなのだ。


「願いがひとつ叶ったのも、きっとエイト様のお蔭かしら」

「お、俺は何も……」

「いいえ、エイト様は私だけではなく、エレオノーラの気持ちまで救ってくださった」


 イリス姫の言葉を聞いて、エレオノーラはハッとした。

 窓辺で儚げな笑顔を浮かべていた我が姫に心を痛め、必ずや務めを果たさねばと気持ちを張りつめていた頃に比べれば、確かに心が少し軽くなっている。

 我が姫が「勇者様」と呼ぶこの少年が、一体どれほどの背負っていた荷物を肩代わりしてくれたのだろうか。改めて――冷静になってみて改めて感じる。

 私はこの少年に、数多く救われたのではないか――と。


「あの……まだ、痣だらけだな」


 瑛斗がエレオノーラの肌に数多く残された青紫の痣を指して言った。

 じっと目の前の瑛斗から目を離さず考え込んでいたエレオノーラに、どうにも居住まいが悪くなってしまって、つい目に付いたそのままを口にしてしまったのだ。


「すまない。俺がもう少し早く辿り着いていればよかったんだが」

「な、何をそんな……痣はいずれ消える。だが……」


 完全に失ってしまった命は、決して元に戻らない。

 もしもあの時、我が姫がお命を落としていたらと考えるだけで、エレオノーラは背筋をゾッと寒くさせる。あの時救ったのは、我が姫のお命だけではない――そう云う意味でも私は、この少年に救われてしまったのか。


 やっぱりそうだ……ああ、私はこの少年に救われてしまったんだ。


 そう気付いて素直に認めてしまった瞬間、心がじんわりと熱くなる。

 胸の奥でふいに灯った熱を吐き出すように、大きく深い溜息をひとつ突くと、エレオノーラはふっと優しげに相好を崩した。


 風呂というものは――自分の心までも裸に剥いてしまうものなのか。


 そんな柄にもない妙なことを考えて、思わず苦笑してしまったのだ。だがその笑顔はとても優しく、常に真面目一徹なエレオノーラにしてはとても珍しいことであった。

 エレオノーラがそんな顔をするのは、一体いつ頃振りであっただろう。目が見えずともそれに気付いたイリスが、幼馴染の肩をちょんちょんと突いて何やら促した。


「言いたいことがあるのなら、ちゃんと伝えた方がいいわ」

「い、いや、私は……」

「ここは心と心で対話する、裸の社交場よ」

「はぁ……我が姫には、敵いません……」


 意を決したエレオノーラは、改めて瑛斗と正対すると、


「エイト殿、此度の一件では本当に……己の未熟を恥じ入るばかりだ」


 堅苦しいほど生真面目な、これは何の名乗りか挨拶か。

 きょとんとする瑛斗に一切構うこと無く、一瞬だけグッと耐えるような表情を見せると、エレオノーラは突然大きな声を張り上げて言った。


「本当に心から感謝する……ありがとう、エイト殿!」


 そう感謝の意を伝えると、頭を下げ過ぎて顔面が湯船に没した。

 よく見れば、水面にはボコボコとあぶくが立っている。


「ちょ、ちょっと、何をしてるんだよ、エレオノーラ!」


 突拍子もない行動に慌てる瑛斗へ、イリスがそっと耳打ちをした。


「エレオノーラは、泣いているのを貴方に見られたくないのです」


 そうか、と納得した瑛斗はどうすべきかを考えて、これまた生真面目に返した。


「頭を上げてくれ。君は立派だ。立派に姫を護り通した……こちらこそありがとう」


 あらら、それではますます顔を上げられなくなるのではないでしょうか……?


 と、イリスは思ったが、その推測は極めて正しい。

 水面下で顔をくしゃくしゃにして泣いていたエレオノーラは遂に号泣してしまい、力が抜けた自分ではもうどうすることもできなくなっていた。

 そうして暫くすると、最後のあぶくが「ぽこっ」っと立った後、エレオノーラの身体がぷかり……と浮き始めたではないか。


「うわぁ、エレオノーラぁ!?」


 瑛斗はエレオノーラの身体を抱きかかえると、急いで湯船の淵へと運んだ。

 触れることすら憚られるような全裸に等しい美少女を、まさか抱きかかえることになろうとは。バスタオルが外れぬよう、細心の注意を要しつつ彼女を湯船から引き上げる。

 引き上げられたエレオノーラの肢体は、しっかりと鍛え上げられており、逞しくも美しかった。彼女はいったい今までどれほどの、弛まぬ鍛錬を重ねて来たのだろうか。


「駄目だ、のぼせ上って気絶しちゃったみたいだ……」


 エレオノーラは、すっかり目を回してのびてしまっていた。

 彼女の身体を見ない様にして脱衣所まで運ぶと、竹で編んだベンチへ寝かせて、備え付けてあった団扇でぱたぱたと風を送ってやる。

 すると後からのんびりとやってきたイリスが、瑛斗に声を掛けた。


「エイト様……」

「なに?」

「やはりお風呂は凄いです……人の心まで裸にしてしまう」


 イリスはそう言って、口元に指を当て「ふふふっ」と小さく笑った。


「それは、そうかもね……けど、イリスは前を隠すか、何かを羽織ってよ!」


 心を裸にしてしまうのはいいけれど、女の子が全裸なままなのはいただけない。

 何一つ隠すことなく生まれたままの姿で棒立ちに立つイリスに、困った瑛斗が脱衣場を見回すと、なんと棚にはよく見慣れた日本の浴衣があった。

 爺ちゃんがこのエキドナの温泉へよく訪れていて、異世界に浴衣を持ちこんでいたことを物語るエピソード――だったとしても、そんなことを考えて余韻に浸っている余裕は、正直言ってそんなにない。瑛斗はもういっぱいいっぱいだった。

 浴衣を手早くとって広げると、被せる様にしてイリスへ着せてやる。


「ふふ……やっぱりエイト様は、とてもお優しいお方です」


 愛おしそうに浴衣の襟を細い指で撫でながら、イリスは頬を赤く染めた。

 すっかり瑛斗に心を解いていたイリスに最早、恥ずかしい気持ちはなくなっている。今はただ、この誠実で実直な勇者見習いと、数多くの言葉を交わしたい。そうして素直な気持ちをもっともっと伝えたい。それだけであった。


「ゴトー様はお風呂が大好きで、御爺様と一緒によくこの温泉に浸かっていた、という理由が、今日は少し分かったような気がします」


 そしてイリスは、改めて瑛斗に最高の笑顔を見せるのだった。その笑顔はまるで、晴れ渡る青空から照りつける、春の太陽のようだ、と瑛斗は感じていた。


 こうして、高地であるエキドナの庭に、遅い五月の春が訪れた。

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