第二章:ハイエルフと行く川下りの旅

第13話 エルフたちと始める新たな旅

「異世界はそんなに甘いものじゃない」


 ――それが父さんの口癖だ。


 俺の両親は、異世界へ旅立つのをずっと反対していた。

 何でもその昔、父さんも異世界へ踏み出したことがあるそうだ。

 爺ちゃんが止めるのも聞かず、異世界で大冒険を繰り広げて。

 そこで取り返しのつかない大怪我を負ってしまったのだという。

 だから父さんの眉間には、未だに目立つ刀傷が残っている。

 いつも黒縁眼鏡と前髪で、その傷を隠すようにしていて。

 その時の失敗を思い出す古傷は、どうしても気になってしまうようだ。

 

 母さんも、その大怪我の時のことを知っている。

 そのせいか大冒険の夢を口にする度に、大反対するのが常だった。

 今でも俺が異世界へ行くことを、心の中では反対しているみたいだ。


 けれどそんな中で、爺ちゃんが俺を認めてくれた。

 爺ちゃんは異世界の大先輩だから、父さんたちも認めざるを得ない。

 学業を疎かにしないこと。目指すなら文武両道。

 これを条件に、渋々と異世界行きを認めてくれた。


 異世界行きへの支援者は、なにも爺ちゃんだけではない。

 俺の背中をそっと押してくれた人は、他にもいる。


「思ったことを思った通りに、真っ直ぐにやりなさいな」


 そう言ってくれたのは、俺の婆ちゃんだ。

 婆ちゃんはいつだって俺のやることを、優しく見守って応援してくれる。

 にこりと優しい微笑で「いってらっしゃい」と送り出してくれるんだ。


 だから俺は、その期待に応えたい。

 爺ちゃんの期待に応えるために。婆ちゃんの優しさに報いるために。

 両親を心配させないためにも、俺はもっと強くなりたい。

 何者にも負けないように絶対に。俺は、絶対に強くなる。


 爺ちゃんに許しを貰ってからの三年間、この決意は変わらなかった。

 今だって、この後だって、ずっと初心を忘れることはないだろう。


 そして半年前。十六歳になった俺は、異世界の門を開いたんだ。

 爺ちゃんと約束した大冒険を、繰り広げるために。



「で、次の連休はいつなの、エイト」


 ここ最近は、これがアーデライードの口癖である。

 口癖というのは少し言い過ぎかも知れない。けれど顔を合わせる度にこればかり訊ねられている気がする。


「次はゴールデンウィークだから、あとちょっとだよ」

「エイトの場合、あとちょっとが長いのよ」


 そう言われてしまうと、瑛斗は流石に苦笑いするしかない。

 時間の経過は、現実世界も異世界も一年は三百六十五日。一日は二十四時間。極々小さな次元しか違わないせいなのか、世界は鏡写しの様にそっくりだ。

 なので日にちの経過に関しては、どちらの世界であろうとも人類全てに於いて平等。瑛斗に責任はないはずなのだが……アーデライードの屁理屈に掛かると時間の経過どころか、地球が回っているのも瑛斗のせいになりそうだ。非常に頭の痛い所である。


 さて、ここは『悠久の蒼森亭』から程近い森の中。

 午前中はアーデライードに稽古をつけて貰うのが、土日のルーティンになっている。

 なんでも、大気中に精気マナの漲っている午前中の方が稽古に向いているから、との言は、高位精霊使いシャーマンロードのハイエルフによるものである。

 早起きが苦手で、午前中はゴロゴロとベッドで甘んじていたい。そんなタイプの彼女がわざわざ勧めるくらいなのだから、それは間違いのないことなのだろう。


 愛用する長大にして重たい片手半剣バスタードソードを、瑛斗は軽々と取り回す。猛獣が唸る様な風切音が響く度に、飛び散った瑛斗の汗が爽やかな朝の空気に煌いた。

 大岩に腰掛けたアーデライードは師匠として稽古の様子を上から眺め、レイシャはその足元の芝生で幾つかの荷物を傍らにぼんやりと立っている。

 そうして教えられた剣技の型を、一通り披露したところで小休止となった――その休憩中、アーデライードから連休について訊ねられた、という具合だ。


「で、そのゴールデンウィークはいつからなのよ?」

「始まるのは再来週半ばからだけど、連休となると更に次の週からだよ」


 瑛斗は身の丈ほどある剣を立てかけて木陰へ座る。するとレイシャが、とととっと駆け寄ってタオルを渡してくれた。


「ありがとう。レイシャ」


 レイシャが注いでくれた水筒のお茶を飲みながら、彼女の頭をそっと撫でる。くすぐったそうに目を細めるところをみると、本当に子猫の様である。


「ところでエイト」

「なに?」

「ゴールデンウィークって、なんだっけ?」

「うん、そう来ると思ってた」


 瑛斗は「大型連休の事だよ」とだけアーデライードに説明した。

 ゴールデンウィークは映画界で作成された宣伝用語で、この時期に多くの観客動員が見込めたことから名付けられた和製英語であるという。実際に昭和二十七~八年頃には一般の間へ広まっている古い言葉なので、爺ちゃんからアーデライードへ全く伝わっていないということはないのだろう。

 ただし働き者の爺ちゃんは「農家に日祝は関係ない」というスタンスの人だったから、異世界でその言葉を使っていなくても何ら不思議はなかった。


「俺らみたいな学生とか、なんというか、宮仕えの労働者に重要な長期休暇なんだ」

「ふぅん……とにかく、その間はこっちに長く居られるのよね?」


 ゴールデンウィークという言葉自体は、現在の異世界で汎用性がなさそうな単語である。その所為かアーデライードの興味は、言葉の意味そのものに無いようだ。


「そうだね。それでも春休みに比べたら全然短いんだけど」

「どのくらい?」

「今年は運よく五日間だね」

「ふむ、五日間か……」


 顎をつまんで腕組みをする姿を見るに、次のプランを練っている、というところか。異世界コーディネーター・アーデライードとして、腕の見せ所であろう。


「さ、休憩したし、今日はアデリィに教えて貰いたいことがあるんだ」

「うん? 何かしら?」


 寛いでいた瑛斗の瞳が、決意をぐっと奥底へ秘めた挑戦的な光に変わった。


精霊語魔法サイレントスピリット


 旅の間に数多く目に触れた精霊語魔法。瑛斗は改めて凄いと感じていた。

 アーデライードは「だったら瑛斗も覚えたらいいわ」なんて軽く返答したものだが、そう簡単に身に付く技能スキルではないだろう。だができることなら覚えておいて損はないはず。グラスベルの森へ帰ったら、試すだけ試してみようと思っていたのだ。

 アーデライードは、瑛斗のこういう男の子っぽい場面シーンにどうしても弱い。身体の芯からふわっと熱く火照るような、そんな感覚に襲われてしまう。


「ふふっ……瑛斗のそういう所、嫌いじゃないわ」

「きらいじゃない?」

「ええ、嫌いじゃないわ!」

「すき?」

「ええ、大好き!!」


 ……しまった。うっかりレイシャに釣られてしまった。何かとんでもない単語を口にしてしまった気がする。

 このダークエルフの小娘は何故、普段は自分から全ッ然喋らないクセに、こういう時に限って口を開くのか。わざとか。わざとなのか。無表情でじっとこちらを見つめている。そんなだーえるの小娘が憎らしい。小憎らしい。こっち見んな。

 わかってる。わかってるわよ。心臓は物凄い高鳴りを奏でているし、顔面の体温が急上昇しているのを。背中には滝のように汗が流れ、腰から砕けそうになっているのを。自分自身で激しく認識している。

 何か二の句を告げなくては、瑛斗が不審に思ってしまう。そう思えば思う程、頭の中が真っ白になって何も浮かばない。言語学者のクセに、なんという語彙力の無さか。実に嘆かわしい。ああ、情けない!

 ひとりで勝手にあたふたと慌てふためいている内に、瑛斗がゆっくりと口を開いた。


「そう言って貰えると、凄く嬉しい」


 えっ、えっ、ええええっ?!

 ハイエルフの小さな心臓が、縦にぴょんと飛び跳ねた。


「一生懸命、稽古のし甲斐があるってものだよ、アデリィ」


 瑛斗はそう言って表情を引き締めた。

 えっ、あ、ああ……話の流れ的にも、瑛斗の性格的にもそうよね。

 知ってた。うん、知ってたわ。

 そのつもりだったのに、単語の威力と自らの迂闊さに踊らされてしまった。

 冷静に、あくまで冷静に。平常運転、平常運転。


「そ、そうよね! じゃあ、アデリィお姉さんが精霊語魔法サイレントスピリットをバッチリ教えちゃうぞっ!」


 自らに冷静を言い聞かせながら飛び出した台詞は、平常運転と程遠いものであった。



 午後。やや遅い昼食ランチを『悠久の蒼森亭』で摂る。

 今日は大皿に盛られた大量のケーゼ・シュペッツレが出てきた。ドイツ風のカルボナーラというべきか、異世界料理を共通語コモンに言い換えるとそうなるというべきか。複雑である。

 軟らかく短めのパスタの上に、マッシュルーム、ベーコン、フライドオニオンがたっぷりと乗り、クリーミーで濃厚なチーズがよく効いている。

 皆で小皿に取り分けて食べながら、次の旅の打ち合わせをすることになった。


「前回は徒歩で川沿いの街道を南下したけれど、今度は川下りを考えているわ」


 生絞りのオレンジジュースを口にしつつ、アーデライードは言った。


「川下り、いいね。でも五日間じゃ遠出はできないんじゃないか?」

「いいえ、次はもっと遠くへ足を運ぶつもりよ」


 思いも寄らぬことを告げると、現実世界のカレンダーとにらめっこをし始めた。

 瑛斗はこの春休み、初めての旅で思わぬ良い経験を積んだ。ならば大きくステップアップするためにも、この機に充実した旅を図りたいとアーデライードは考える。

 とはいえ瑛斗は、土日祭日しか冒険できない学生身分というくさびを打たれた週末勇者。帰宅の日程までしっかり予定を組まなくてはならない。

 前回の旅では十二日間かけて踏破した道のりを、大海嘯の大波に乗って丸一日でイラの街まで戻ることができた。しかしかの逆流によって高速移動の船旅ができるのは、あのシーズンだけだという。次の旅では利用できそうにない。


「カギを握るのはこの、二十九日になると思うの」


 アーデライードが異世界カレンダーの「昭和の日」を指差してトントンと叩く。


「この日、一気に南東へと移動する」

「場所は?」

「王弟公国の北の森、通称『運命の森』よ」


 その森から南西へ小一時間の場所に、グラスベルからの大河支流を下る定期船が出ているそうだ。その定期船の出る街は、前回の旅の終着点である漁港・リッシェルよりも更に南東に位置する。


「要するに、リッシェルよりも更に先へ、瑛斗を連れて行きたいのよね」


 と、瑛斗に直接言うことはないが、アーデライードの想いは、瑛斗を未だ見ぬその先の世界へ連れて行くというところにある。瑛斗の望むまま冒険の世界へいざなうことこそが、目下の主要課題なのだ。


「だからその前日、二十八日に異世界こちらへ来られないかしら?」

「大丈夫だと思うよ。学校が終わって真っ直ぐにここへ来ればいいんだろ?」

「ええ。不測の事態があろうと、一日半あれば余裕が持てるわ」


 しかし、どうやってリッシェルよりも先へ行き着くつもりなのだろうか。

 その距離を一日半で踏破できる交通機関など、瑛斗は思い付くことができない。それに二十九日に大移動できたとして、どうやって現実世界へ戻らせるつもりなのか。アーデライードは詳細を語らずに、次の土日次第だと言葉を濁した。

 ともかくまずは『運命の森』へと向かい、その近隣の街から大河を下る。すると一日半程度で王弟府のある街へ辿り着く。その街を観光した後、徒歩で『運命の森』へと戻る。そういう日程プランだった。

 所々詳細の分からない部分はあるが、きっとそこが旅のミソなのであろう。瑛斗はこの旅の行程プランを、コーディネーターに一任することと決めた。


「ところでさ」


 アーデライードが説明し終えたところで、瑛斗が別の話題を切り出した。


「よくグラスベルからの大河って呼ぶけど、この川の名前はなんなんだ?」


 そう疑問を持った瑛斗に、アーデライードは笑いながら答えた。


「この川はね、共通語コモンでも『川』としか呼ばれていないのよ」

「どういうこと?」

「色んな国を流れていた歴史があってね。それぞれ呼び名を変えていたのだけれど、仕舞いには面倒臭くなって、みんな『川』としか呼ばなくなってしまったの」


 そういえば、ガンジス川のガンジスも、ナイル川のナイルも、元々は「川」という意味だと聞いたことがある。それと似たようなものなのだろうか。


「あまりにも巨大な大河だから『川』といえばもう、この川を指す言葉なのよ。今はエディンダム王国内を一番長く流れているから、旧北部大陸語で『川』という意の『アドゥ川』と呼ぶことが多いかしらね」


 そう説明した後で「直訳すると『川川』ってなるけどね」と笑う。


「もう一つ聞きたいんだけど、いい?」

「どうぞ」

「さっき旅の日程は『次の土日次第だ』って言ったけど、どういう意味?」

「そうね。それに関しては教えてあげる」


 アーデライード曰く、次の土日にイラの街から北東にある小さな鉱山町・ラフタを経由し、更にその先の山中に住む『古き友』を訪ねて、あるお願いをするのだという。


「まぁ、私一人で行ってきて、話をつけても良いのだけれど」


 そう言いつつ、瑛斗の方を上目使いでちらっちらっと仰ぎ見る。これは一緒に来て欲しいという事だろうか。しかし瑛斗としては、言われるまでもないことだ。


「俺の冒険についてのことなんだろ。付き合うよ、アデリィ」

「エイト……あなた本当に優しくていい男ね」


 アーデライードは半ば呆れたような表情で、感嘆の溜息を吐く。

 瑛斗は様々なシーンで面倒臭がること無く、率先して身体を動かす。

 大上段から都合よく他人を顎で使ってやらせようとするエルフ族や、自分の領域以外は頑なに拒絶する頑固なドワーフ族。狡賢く騙して楽しようとする人間ヒューマンなど、そういう輩どもとアーデライードは、これまで丁々発止渡り合ってきたものだ。

 だが瑛斗みたいな素直で実直で頑張り屋には、この広い世界を旅する中で早々出会ったことがない。自らが問題の渦中や危険な場所へ身を投じる冒険が多かったせいもあろう。

 それ故に瑛斗のような純粋さの持ち主に出会うと、その感性を守り抜いてあげたい気持ちが強くなる。


「そんなことないさ。自分のことは自分でやらないとね」

「私はね、そういう所を言っているのよ?」

「レイシャのエート、やさしい」


 黙々とお昼ごはんを小さな口へかき込んでいたレイシャが急に顔を上げた。


「レイシャのエート、いいおとこ」

「あはは、ありがとうレイシャ」


 瑛斗は笑ってレイシャの頭を撫でた。いちいち「レイシャの」と付ける所は気に障るが、その発言自体はアーデライードに異論ない。


「それにしても結構食べたね、レイシャ」


 大皿に大盛過ぎて残るかと思われた大量のシュペッツレが、存外綺麗に片付きそうだ。食が細そうに見えたレイシャが予想よりも多く食べたのだろう。


「レイシャ、つぎもげんき」


 その言葉には心当たりがある。先週告げた「次にレイシャに逢う時まで、ちゃんと元気でいて欲しい」と――この約束をレイシャは守ろうとしているに違いない。


「そうか。いっぱい食べて大きくなるといい」

「おおきくなる……」


 レイシャはそう呟いてアーデライードをじっと見つめると、くるりと瑛斗へ向き直って素直にこくりと頷いた。


「レイシャ、おおきくなる」


 ちょっとお待ちなさいな……今、このダークエルフはどこを見て言ったのかしら。

 気にしてる心許無い胸元を整えつつ「場合によっては殺意が湧かないこともないわよ」と、静かなる闘志を眼光に燃やして睨みつけるアーデライードであった。



 午後の稽古を終えた瑛斗は、いつも井戸端で頭から水を被って汗を落とす。そうして濡れた髪をタオルでがしがしと拭きながら、三階の自室へ戻ってきた。

 借りている自室のドアを開くと、うとうととお昼寝をしていたレイシャが、ベッドからひょこっと身を起こす。


「あれ、起こしちゃったかな」


 問われてレイシャは小さく首を振り、ベッドからぴょんと飛び降りる。タンスの中から瑛斗の着替えを引っ張り出すと、それを手にして戻ってきた。


「わざわざそんなことしなくていいんだよ」


 着替えを受け取りながらそう告げて、瑛斗はレイシャの頭を撫でた。するとレイシャは小さく首を振り「レイシャ、おせわする」と呟いた。

 幼気な少女からもたらされた予想外の言葉に、瑛斗は気付かされた気持ちになった。自分の方こそがレイシャのお世話をしなくてはならない、と考えていたからだ。

 もしかしたらそんな心遣いなんて、最初からいらなかったのかも知れない。

 身の細さや小さな背丈。そんな見た目よりも彼女レイシャはずっと自立した心を持っている。

 新しいシャツに着替えてベッドへ腰を落とすと、レイシャはぴたりと隣に寄り添った。


「俺、汗臭くないかな」

「へーき」


 そう言ってレイシャは、瑛斗の脇腹辺りに顔を埋めた。


「ひとりじゃないから、へーき」


 独りでいるよりも、瑛斗の匂いを感じている方がいい。そう言っているかのようだ。

 今までずっと独りだったのだろうか。レイシャは過去を語らない。瑛斗も聞き出すようなことはしない。だから今、真実を知る由もない。

 しかし時折レイシャから感じられる心の闇。孤独を恐れる暗い影。


 瑛斗はずっと――レイシャと出会ってずっと迷っていることがある。

 光の種族から暗黒面へ堕ちた末裔と謂われるダークエルフ。悪魔と契約し手に入れたという、強力無比な暗黒魔術を生まれながらにしてその身に宿すという。

 ダークエルフという種族そのものを、怪物モンスターと同様に捉える者もいる。

 生そのものが邪悪にして狡猾な怪物たちの存在する世界である。ダークエルフという存在が生にして邪ではない、という確証は現状の異世界で未だ成し得ていない。

 瑛斗の懸念、アーデライードの危惧も、ずっとその部分にあったのだが――


「思ったことを思った通りに、真っ直ぐにやりなさいな」


 今こそ婆ちゃんの言っていたことを思い出すことができた。

 そうだ。迷うことなど何もなかった。

 たったひとつ分かっていることがあるじゃないか。


 今やっと瑛斗が素直に感じている、真っ直ぐに伸びる光の道筋。

 こうと心に決めると、瑛斗は一つの迷いを捨て去ることができた。


「君ならきっと大丈夫。いや、絶対に大丈夫……」


 レイシャの滑らかな白髪しらかみを撫でながら、瑛斗は独り言ちた。

 ダークエルフの少女はされるがままに、安らかな表情で目を瞑っていた。



 日が暮れて夕食時。此処『悠久の蒼森亭』は、旅人で賑わっていた。

 レイシャと共にいつものウッドデッキのテラス席へ足を運ぶと、アーデライードが木樽ジョッキを片手に、既に一杯引っ掛けて待っていた。


「今日の一杯はなんだい、アデリィ」

「んふー、今日は小麦の白麦酒ヘーフェヴァイツェンよん」


 アーデライードの気分は、既に上々に出来上がっていた。

 先々週の大海嘯により、南部から船便で大量の荷が届いたらしい。小麦の白麦酒ヘーフェヴァイツェンもその内の一つなのだそうだ。

 白麦酒と言われて気になったので、木樽ジョッキを覗いてみたが全然白くない。

 しかしよく言ったもので、濃い色をしたビールをちょっとだけ白く濁らせた、と言われれば「まぁそうかな?」と思える程度の白さがある。この白い濁りを後々調べれば、糖化されなかった小麦のタンパク質なのだという。ただし異世界では「なんか濁っているね」程度の認識で然して気にされてはいない。

 よく見ればツマミにしているソーセージまでもが白い。これはヴァイスヴルストと呼ぶらしい。アーデライード曰く、これらとプレッツェルがあればもう無敵とのことだ。

 わざわざ聞いておいてなんだが、無敵かどうかは酔っ払いの戯言である。


「ところでね、アデリィ」


 手の空いていたウェイトレスを呼び止めて夕食を注文すると、先程まで考えていたことを、早速アーデライードに持ち掛けてみることにした。


「レイシャについて、提案が二つあるんだ」


 二本の指を立ててそう言うと、順序立てて説明することにした。


「うん? さて、何かしら。聞こうじゃないの」

「まず一つ、レイシャに魔法杖ワンドを与えたいと考えている」


 春の旅の途中、奴隷解放の戦いの時に詠唱した古代魔法語ハイエンシェント。十に満たぬ年齢で、レイシャは中級魔法以上の「ファイア・ボール」撃ち出してみせた。


「俺はレイシャの持つこの才能を、伸ばしてあげたいと考えているんだ」

「……前に、危険じゃないかしら、という話はしたわよね」


 この話は旅の途中、何度かしたことがあった。

 幼いレイシャの身の内に同居する、身体と見合わぬ膨大な魔力オドと魔法の才能。

 実際に彼女が「ファイア・ボール」を放ったあの時も、一歩間違えれば瑛斗の命を落としかねない危険があった。


「それでも、だよ」

「そう……いいわ。結論の前に、もう一つの提案を聞こうじゃない」


 瑛斗は頷くと、ショルダーバッグから黒の手帳を取り出した。手帳と呼ぶには大きくて分厚い。重厚な装丁が成された頑丈そうな革手帳だ。

 アーデライードが整った眉根に皺を寄せ、軽く警戒感を示した。


「なによ、それ」

「これはね、爺ちゃんの遺品の一つ。婆ちゃんから託されたんだ」

「ゴトーの?」


 瑛斗は黒革の手帳を、アーデライードの手元へと押し出した。


「中に書かれている言語は、多分古代魔法語ハイエンシェント


 受け取ったアーデライードが、手帳の最初のページを開く。


「ふぅん、どうやら魔術の入門書のようね……」


 そう呟くと、淡々とページを捲り続けていたが、後半へ進むにつれ表情が一変してゆく。


「なにこれ! これを書いた人、天才じゃない!」


 古今東西、様々な書物を目にしてきた言語学者・アーデライードである。そんな彼女が声を上げて驚いた。


「アデリィは、これをどう思う?」

「そうね……序盤は魔術の入門書。でも中盤から後半にかけては、私でも理解できない難解な魔術書。恐らくは禁呪と呼ばれるような、高位古代語魔法について書かれているのでしょうけれど」


 ここで一旦言葉を区切ると、酔いを醒ます様にチェイサーの水を口に含む。


「この書物の目的は教導。才覚ある術者をより一層高みへと導くことにあるわ。才ある者がじっくりと読み解いて身に付けてゆけば、きっと会得できる。そういう書物」


 深く息を吐き出して感想を総括したアーデライードは、そっと黒革の手帳を閉じた。

 アーデライードは「黒革の手帳これについては、色々と聞きたいことがあるけれど」としつつ、先に瑛斗の提案について訊ねることとしたようだ。


「それで? エイトはこれをどうしたいのよ?」

魔法杖ワンドとこの手帳を、レイシャに渡したいと思う」


 旅の間に何度か耳にしたアーデライードの溜息。彼女は瑛斗の提案を、どうやら先に察していたようだ。


「じゃあ、私の意見を言っておくわね」


 そう切り出すと、冷たい目線をレイシャへ向けて投げつけた。


「このは危険だわ。渡すべきじゃない」


 それでもダークエルフの少女は、相変わらず無表情を崩さない。じっと大人しく席についたまま、身動ぎ一つすることはなかった。

 交差する視線に、重苦しい空気がテーブルの上に漂った。


「ああ、レイシャなら大丈夫だよ」


 その重苦しい雰囲気を破ったのは、意外にも瑛斗の明るい声。

 あっけらかんと言い放った瑛斗の口調に、アーデライードは拍子抜けした。


「ちょっと、それはどういうことよ?」

「俺にもう迷いはないんだ」


 そう答えたところで、注文した料理がテーブルに届いた。

 瑛斗が注文したのは、野菜たっぷりのフリッタータ。そして鯉のポルケッタ。


「うわっ、鯉のポルケッタって、鯉一匹丸ごとだったんだ!」


 ポルケッタとは鯉の腹に各種香草を詰めこんで、オーブンでこんがりと焼いたものだ。その身をほぐして、パニーノという丸パンに挟んで食べるものらしい。

 食べたことのなかった瑛斗は、お品書きメニューだけを見て頼んでしまった。


「よくこんな思い切った料理を注文したわね」

「いやぁ、レイシャがまた鯉を食べたいって言っててさ」

「……このがそんなこと言ったの?」


 ここへ来る前、瑛斗が夕飯に食べたいかを訊ねると「こい」と言ったのだ。

 鯉料理といえば漁港・リッシェルで食べた、鯉のあらい、うま煮、鯉こく。それらをレイシャが「おいしい」と言いながら、夢中になって食べていたことを思い出す。


「うん。でもこの料理、鯉を丸ごと一匹だとは思わなかったよ」

「そうじゃない場合もあるけれどね」


 アーデライードがチラリとカウンターを見ると、アレックスがニヤリと口角を歪めた。もしかしたらこちらの様子を窺って、わざとやったのかも知れない。


「さてじゃあ、これも稽古だと思って気合入れて食べてしまうか!」


 瑛斗の気合を感じとったか、レイシャがこくりと頷いた。それに釣られたように、アーデライードが追加のヴァイツェンを大声で注文する。

 瑛斗が鯉のポルケッタを切り分けているところを、アーデライードが小皿に取り分けながら、厳しい口調で詰問した。


「一つだけ聞かせてもらうわよ。迷いがないってどういう意味?」

「今のレイシャにはね……俺がいるし、アデリィもいるってことさ」


 レイシャはもう独りではない。そう瑛斗は言っているのだ。

 独りじゃないから、レイシャは「へーき」だと声にして言うことができる。

 すぐ隣には瑛斗オレがいる。傍にはきっとアデリィもいる。

 瑛斗にはアーデライードがいるように、アーデライードにはゴトーがいた。

 レイシャも同じ。瑛斗がいる、アーデライードがいる。心強い仲間がいる。


「それで何故迷う必要があるんだ?」


 だから大丈夫。レイシャは絶対に道をあやまたない。

 未来には如何なる不安があろうとも、思ったことを信じて、自らが思った通りに、真っ直ぐにやるだけだ。

 じとーっとした目で聞いていたアーデライードは、「血筋ねぇ」と呟くと、取り分けたポルケッタの小皿をレイシャの鼻先へ突き出した。


「ホラ、アンタの分。仲間パーティの分は、ちゃんと負担なさいな」


 その言葉を聞いて、瑛斗はニッと白い歯を見せて笑った。

 たっぷりと料理の積まれた小皿を受け取ったレイシャはといえば、アーデライードに見向きもせずに、瑛斗をじーっと見つめ始めた。瑛斗がほぐした鯉の身をパニーノに挟んだのを見て、真似をして同じものを作る。

 アーデライードは面白くなさ気にその様子を眺めつつ、木樽ジョッキを傾けた。


「エート」

「なに?」

「エートと、こいのおもいで」


 アーデライードは、飲んでいたヴァイツェンを思わず噴き出した。

 瑛斗は呑気そうに「そうだね」なんて言っている。

 愕然とするアーデライードに目もくれず、レイシャはパニーノをパクつくと、瑛斗の袖をちょいちょいと引っ張って、再び言った。


「エートと、こいのあじ」


 当の瑛斗は「鯉の味は思い出の味だね」とすんなりと受け入れている。

 傍から聞いていたアーデライードは、もう別の意味にしか聞こえない。

 混乱する頭の中を整理させながら、アーデライードは考える。


 あれ、なんだろう。私が気にし過ぎなのかしら?

 それともやっぱりこのは、別の意味で危険なのではないかしら?


 そうして罪のない鯉のポルケッタに、フォークを突き立てるのであった。

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