第78話 黒衣の騎士とイチジクの果実
「そこに居るのは、どちら様?」
柔らかいふんわりとした声がエキドナ別邸内に響いた。我が主・イリスの声である。
我が姫の御前を開けようと廊下の端へと寄った際の、ほんの小さな
そこで成り立ての従者騎士は、慌てて黒衣を揺らしつつ膝を突くと無言の非礼を詫びた。
「ハッ、失礼致しました。私は従者騎士の……」
「ふふっ、やっぱり。その声はゲイラーね?」
従者騎士として日の浅いゲイラーは、姫の見えぬ瞳を忘却してしまいがちだ。
今日も今日とて我が姫は、邸内を自由に歩き回っておられる。軽やかなステップを踏む様は、まるで目に見えているが如しだ。
肩に小さな籠を掛け、鼻歌交じりに邸内を闊歩する――そんな姫だがこうみえて目が見えぬ。知らぬ者が見れば、俄かに信じられぬ光景であろう。
「どうかして? 何か心配事でもあるのかしら?」
「いえ、そのようなことは決して……」
イリス姫は、声は元より物音だけでも人物を見分ける。そして記憶力と観察力に優れた彼女は、声だけで嘘すらも見抜く。
目は見えずとも、心の瞳は開いている――
そう表現した我が姫の言葉に、偽りはない。常々そうと思い知らされる。
「私はね、ゲイラー」
「はい」
「エキドナのお屋敷を歩き回るのが、楽しくて仕方がないの」
我が姫がそう仰るには理由がある。新たに邸内の廊下へ設置した『と或る仕掛け』が姫のおみ足を軽やかにしているのだ。
そのひとつが『点字ブロック』である。これは正式名称を『視覚障害者誘導用ブロック』と呼ぶものだそうだ。床の表面に点状の突起を並べることで、触感覚により歩行を助ける仕掛けである。
北のドワーフ族らの石工職人により、大理石の床に点字ブロックを施したものだ。
「それでね、靴底の感触を比べようと思って、靴を色々と試してみたのだけれど……床の点字を感じるのに、この鹿革の靴底が程よく適しているの」
「左様で御座いますか」
「お気に入りの靴がぴったりだったのは、とても嬉しくなってしまったわ」
そしてもう一つ――豊かな装飾を施した細身の杖が、シャランと鳴った。
姫が手にしているこの
ドワーフらの技術により
だがこの杖無しでも我が姫は、エキドナ邸内であればきっと十分に歩き回る事が出来るだろう。それでも手放さず持ち歩くには、ひとつの理由がある。
「これも全て、勇者様……エイト様のお陰だわ!」
そう――この『白杖』は、我が姫が『勇者様』と呼ぶ彼の少年からの贈り物だ。
北の鉱山街・ラフタにある
「それとね、ゲイラー。もうひとつ嬉しい事があったの」
「何で御座いましょうか、我が姫」
ゲイラーがそう問うと、肩に掛けた籠より銀の筒に入った封函を取り出した。
我が姫がおもむろに中身を広げると、点で打たれた模様の入った手紙であった。当然ゲイラーはこれを見た事が無い。
「それは……」
「これは『点字』といってね、目の見えぬ私でも読める文字なの」
「して、それにはいったい何と?」
「先日の『エキドナ内乱』の、一つの結果が書かれてるわ」
ゲイラーの胸がチクリと痛む。何せ自らもこの謀反へ参加して、我が姫の命を狙った反乱である。それなのに従者騎士としての身分を得たことが、今でも信じられぬくらいだ。
「あの戦いで病床に着いていた最後の騎士がね……無事に回復したのだそうよ」
我が姫より湧き立つ清浄な湖畔のように澄んだ穏やかな笑顔。その笑顔の中には、聖なる祈りを終えた後の様な、静謐な安堵が佇んでいた。
「これであの闘いで傷ついた者たちは、全員復帰したことになるわ。それも――ひとりの死者を出すことなく、ね」
「あの乱戦の中でひとりも……ですか」
「そう、たったひとりの犠牲者も出なかったの。しかも敵味方含めて」
「なんと、敵味方含めてですと!」
にこりと微笑んで頷く姫に、流石のゲイラーも驚きを禁じ得ない。
確かに――クレーマン子爵の私兵たちは物見遊山の者が多く、士気は決して高くなかった。よって自らの死を賭してまで戦おうとした者は少ない。
加えて内戦終結後、我が姫の敵味方を問わぬ救護対応の指示が、何よりも迅速であったことも一因に挙げられるだろう。そのお蔭でゲイラー自身とて、今もこの命があるのだと確信を持って言える。
それでも剣と剣、槍と槍を交えて殺し合いを演じていたのは確かだ。そんな中でひとりの犠牲者も出さずに戦闘を終結したというのは、俄かに信じがたい出来事だった。
「……まるで奇蹟のようだ」
「そう、奇蹟……これはきっと、エキドナの庭で起きた、奇蹟」
思わず呟いたゲイラーの言葉を、我が姫も噛み締めるように繰り返す。奇蹟――もしくは、運命。そう感じずにはいられぬ。予想だにせぬ結果であった。
「そういえば、貴方の怪我の具合はどう?」
「小職など到底……我が姫の御配慮を賜る身の上ではありません」
「そんなの心配するのは、どなたであろうと一緒よ?」
「我が姫の慈悲深き恩赦に、常日頃より感謝致しております」
「あっ、そうだ!」
ゲイラーの形式ばった謝辞を遮るように、イリス姫は気まぐれな様子で肩に掛けていた籠を開けると、取り出した二つの果実をゲイラーへと差し出した。
「どうぞ。これをお食べなさい、ゲイラー」
「はっ……これは?」
「
春イチジクと呼ばれる、この季節に実を成すこの
「水分が多くて、甘くて、今が食べ頃だわ」
「あの、これは……」
「これをお食べになって、お身体を養生してね」
麗しい笑顔でそう云い残すと、イリスはとっとと自室へ戻ってしまわれた。
「ええと、さて……どうしたものか」
後には、呆気に取られた従者騎士と二つのイチジクの実が、残されるばかり。
我が姫からの差し入れとはいえ、職務中に果物を渡された新人騎士は、その処遇に困った。姫からのご厚意とありがたく食すべきか。それとも職務を優先し食さずに処すべきか。
「ゲイラー殿!」
丁度そこへ息を切らし慌てた様子のエレオノーラが現れた。彼女は先月の叙任式に於いて従者騎士長となった。まだ若輩の騎士とはいえ、今やゲイラーの上司である。
「エレオノーラ殿、如何なさいましたか」
「ああ、ゲイラー殿……我が姫を見なかったか」
「我が姫ならば、たった今自室へと戻られましたぞ」
「なんだそうか……ならば良い」
エレオノーラは弾ませた呼吸を整え、深く息を吐きだした。
「我が姫は、自由に邸内を闊歩できるようになったはいいが、あまりにあちらこちらへと歩き回るものでな……目を離すとお姿が見えぬ。今も探し回っていたところだ」
「これはエイト殿の、
「しかし、だ。従者騎士としては、気が気ではない」
いつもは愚痴も云わず、黙々と職務を遂行する彼女らしくない言葉である。
だがその口調は満更ではなく、少し嬉しそうなところを見るに、決して本気ではないのであろう。その証左に彼女は、普段見せぬような優しげな笑顔をゲイラーに見せている。
騎士学校時代には『鉄面皮』などと呼ばれていた――そう噂される少女と同一人物とは、とても思えなかった。
「……と、それは?」
いつの間にかエレオノーラの視線は、ゲイラーの持つ果実に注がれていた。
言わずもがな、姫より下賜されしイチジクの実二つである。
「いや、これは……我が姫より頂いてしまった」
「そうか」
エレオノーラはそう一言答えると、特段気にする様子も見せぬ。
だが新人の従者騎士であるゲイラーとしてはどうすればよいか。ここは上長の判断を仰ぎたいところである。
「どうすれば宜しいか」
「なに、気にせず食せばよい」
職務に忠実で如何にも生真面目な、普段のエレオノーラらしからぬ発言である。
思わぬ反応に、ゲイラーは自らが試されているような気分になった。そこでつい意外そうな顔をしてしまったのだろう。
「うん? ゲイラー殿、何か気になることでもあるか」
迂闊にその表情を、我が上司に見咎められてしまった。
「いえ……食して宜しいのか、どうか」
「職務に支障がない限りは構わん。いや……むしろその方がいい」
エレオノーラは何か思うところが在ったようで、少々言葉を詰まらせた。ゲイラーは何も言わずその姿を眺めていたが、ややあってエレオノーラから口を開く。
「いや、なに……私も以前は、姫のご厚意を頑なに断っていたのだ」
少し躊躇いがちに。重そうな口を時折言葉を詰まらせながら。エレオノーラは自らの過去を、心の内を。ぽつりぽつりと語り始めた。
「きっとあの時の私は、我が姫すらも遠ざけてしまっていたのだろう」
騎士学校を主席で卒業したとはいえ、まだまだ子供であったこと。
その自分が直属の従者騎士として、大人の男騎士たちの中で対等に立ち回っていかねばならぬと、気負いが強かったこと。
やがて誰も信用できずに、疑心暗鬼に陥ってしまったこと。姉の失踪を機にそれら全てを独りで抱え込み、誰も信じられなくなってしまったこと。
「だがその態度こそ、我が姫を悲しませる結果になってはいなかったか……私はあるきっかけで、そう考えるようになった」
如何なる強敵を前にしても決して挫ける事無く守り抜く、鋼の意思。
様々な状況に陥ろうと自分を見失うことなく、周囲を気遣う優しい心。
彼は何時だって強い心を持ち、目標に向けて真っ直ぐに前を見つめていた。
「姫が勇者様と呼ぶあの少年……エイト殿にそのことを教わった気がするのだ」
我が姫に続き、奇しくも勇者と呼ばれるあの少年の話題となった。
よもや従者騎士長殿の口からまでも、その名前を聞くことになるとは。
「あ、いや、無駄口が過ぎた。私は姫の御傍仕えをせねばならぬ。失礼する」
彼女が宮殿内でまことしやかに噂された、優等生だが堅物で面白みに欠ける人物――などと称された、少女騎士・エレオノーラとは。
もはや名もなきゲイラーには、同一人物であるととても思えなかった。
「さて……人の噂とは、これ程までに役に立たんものだとは」
意図して流布された風評に踊らされていた自らを、自戒するように独り言ちる。
だが優等生で堅物の従者騎士と、我が姫から心よりの笑顔を引き出した少年。度々名が挙がる彼の名には、ゲイラーも相当の興味を惹かれていた。
「それにしても、だな」
手にした
抑えようとして抑えきれぬ笑みは、ひりひりと乾いていたあの日々とはまた違う。こんなにも充足した日々を、この職務に就いてから感じることができるとは。
「いつの日か……再び出逢うことを楽しみにしているぞ、少年」
そう呟くとゲイラーは、姫より下賜された無花果の実を齧った。
ふんわりと甘い芳香と共に、この上ない甘露が口の中に広がるのを感じていた。
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