第71話 ダークエルフと行く時空の旅(後篇)
「ああ、エイトさま……逢いたかった……」
三百年後のレイシャを名乗るダークエルフは、震える声でそう言った。
瑛斗へ向けておずおずと伸ばされた彼女の手は、遠慮しているのか。それとも躊躇っているのか。美しく磨かれた薄紅色の爪の先が、届きそうで届かない距離を行き来する。
「さ、三百年後のレイシャって本当か!?」
「もちろん……あっ」
瑛斗はそう叫ぶと、つい彼女の両肩を掴んだ。突然現れた絶世の美女が三百年後のレイシャを名乗ったことに、つい気持ちが昂ってしまったためだ。
唐突に両肩を掴まれ、真っ直ぐに見詰められた彼女は、途端にきゅうっと縮こまった。
最後に声にした「あっ」という口の形を保ったまま。エルフ族特有の長い耳は跳ね上がり、頬を紅くして、陶然とした表情で胸元へ手を当てる。
見た目は歳の頃で二十数歳程度といったところか。だが彼女曰く、三百有余年の時を経ているはずだ。いくらエルフ族とて十分に成熟した大人の女性といえる彼女が、まるで穢れを知らぬ無垢な少女の
そんな彼女の様子を見た瑛斗は、慌てて彼女の両肩から手を離す。
「ご、ごめん……」
「ううん、いいの……いいのだ……」
レイシャはもごもごと小さな声で答えた。褐色の肌の上からでも分かる程、長い耳の先まで真っ赤にして、何故かそれが力なくふにゃふにゃと上下している。
こういう耳の動きを、瑛斗は何度か目にしたことがある。もしかしたら彼女たちエルフ族は、耳の動きで多少は感情が読み取れるのかも知れない――などと漠然と思う。
だが鈍感な瑛斗は、その動きが何を意味するかまで読み解くことができなかった。
「ああ……熱くなった胸が詰まって、言葉が出てこない」
レイシャはそう言うと、大きく成長した左胸に手を当てて深呼吸をする。なかなか収まらぬ胸の鼓動を、何とか押さえつけようとしているようだ。
「伝えたい言葉は沢山あるのに……あれから幾ら言語を覚えようと、会話が上達しようと、それを声に出せなければ、どうしようもないものだな」
そう言ってレイシャは、とても切なそうな表情で深く嘆息した。もしも彼女の云う通り、三百年の月日を経て再会したのだとすれば、それは仕方がないことかも知れない。
しかし瑛斗には、レイシャの言葉でどうしても気になる点がひとつだけあった。
「あのさ、瑛斗さまっていうの止めてくれよ。なんだか気恥ずかしい」
「ごめんなさい。部下や弟子たちの前ではそう呼んでいるから……」
口元に手を当てて、レイシャは恥ずかしがった。
瑛斗に対して口の利き方を誤ったことを、大いに恥じているのだ。
「今まで通りの話し方でいいよ、レイシャ」
「うん、それでは……んんっ……あのね、エート」
「うっ……」
今度は瑛斗が言葉に詰まった。何故ならばレイシャは、喋り方どころか声色までもが急に変わったからだ。それは瑛斗がよく知る今の幼いレイシャの声であった。
幽世の風情すら漂う絶世の美女の姿から、こんなにも鈴が転がるような声が出せるのかと、つい目を丸くする。
瑛斗にとってよく聞き慣れた声だが……目の前にいる成熟した身体のレイシャと、幼くて愛らしい声のミスマッチとアンバランスさに、瑛斗は腰から崩れ落ちそうになった。
「ああ、私ったらなんてことを……!」
だが声にしたレイシャ本人が、ますます恥ずかしがって黙り込んでしまった。いくら昔の瑛斗に出逢ったからといって、口調が幼過ぎたことに気付いたようだ。
昂揚と動揺が混ざり合っているのだろう。みるみるうちに長い耳の先まで真っ赤になって、遂には両手で顔を覆って後ろを向くと、ベッドの上に丸くなってしゃがみ込む。
「こんな声を出しているなんて、数千を超える弟子たちや、もし
三百年後の彼女は、魔導師として数多くの弟子を抱えているようだ。威厳を保つような話し方をしていたのは、恐らくそのせいなのだろう。
小さく縮こまって恥ずかしがるレイシャに、瑛斗が優しくフォローを入れる。
「いやまぁ、今は三百年前だしさ。自由な話し方でいいじゃないか」
「んっ……じゃあ、エート……はぁ……」
ざっくばらんで気取らぬ瑛斗らしい提案に、レイシャは思わず甘い吐息を漏らす。郷愁に気持ちを揺さぶられ過ぎて、本来の調子をすっかり崩してしまったようだ。
三百年もの長きに渡って逢えなかった仲間に再会できたなら、きっとそうなるものなんだろうな、と瑛斗は単純に考えていたが、それは鈍感が過ぎるというものではあるまいか。
「エート、あのね、えっとね……」
甘えた声で瑛斗の名を呼ぶと、小さく咳払いして居住まいを正す。
「三百年後のレイシャはね。通り名を『爆炎の
幼い声はそのままに、すっかり流暢となった
「かつて『暗黒神の寵児』と呼ばれた私が、道を違えずに真っ直ぐと歩めたのは……そう、それは全て
人間とハイエルフに育てられたダークエルフ――世にも珍しい唯一の存在。そしてエリノアの遺した『黒革の手帳』に学んだ彼女は、偉大なる魔法術式を導き出した。
『タイム・リープ』
正式な名称を「時空間相転移移動魔法」と呼ぶらしい。
三百年後のレイシャが生み出した、魔法術式最上位を冠する新魔法。これまでに数百に渡る魔法を生み出してきたレイシャの、奇蹟とも云える最高位魔法のひとつだと云う。
「これにより遥か遠い未来にいようと、過去へ移動することが出来る」
未来と過去、術者双方を時空間転移させることにより可能となった新魔法。すなわち未来と過去にある術者の身体を交換することにより、時空を超える魔法であるという。
魂の繋がりを起点として時空間を相転移するため、よって同じ時間と場所に同一の術者は居られない。そして術者が存在する過去へしか渡ることが出来ない。
これは長命なダークエルフであるからこそ、有効な魔術であると云えよう。
「凄いな、三百年後のレイシャはそんな魔法を開発するんだ!」
驚きの声を上げる瑛斗に、レイシャは静かに首を振った。
「ううん……本当に凄いのは、エートの魔法だよ」
「俺の魔法?」
それ以上何も言わず、レイシャは寂しそうに微笑んだ。
レイシャの脳裏に浮かぶ言葉――三百年後の世界には、貴方がいない。それは瑛斗が人間であれば、ごく自然な、ごく当たり前のことだった。
長く果てしない
長命であるが故に、短命な愛しき者と永遠の別離をせねばならぬ。
そんなレイシャが、再び瑛斗に逢いたい一心で生み出した魔法――だからもしも「タイム・リープ」が完成した暁には、初めての時空間旅行をこの日この時にしようと心に決めていたのだという。
「どうして?」
「だって……エートが誕生日を祝ってくれた」
それまでのレイシャは、自分の誕生日を祝うことがなかったのだという。
生まれ育ったダークエルフの村では、周囲の大人たちから『暗黒神の寵児』として扱われ、籠の中の小鳥のように自由を奪われて、感情を押し殺すようにして過ごしてきた。
「だから誕生日は祝うものだと、初めて知った日だから」
レイシャはそろり瑛斗へ這い寄ると、薄布に包まれたたわわな胸が、無防備にゆらゆらと揺れる。
「でも
そう告げて恥ずかしがるレイシャは、長い耳の先まで顔を真っ赤にさせて蒸気していた。それは頭の天辺から立ち上る湯気が見えてきそうな程に。
「ええと、それだけのために?」
「だって、あのね、エート……凄く嬉しくて、すっごく楽しかったの……それなのに、ああっ! また上手に伝えられないなんて!」
きっとこの日のために、話したい言葉をたくさん用意してきたはずだ。なのにレイシャは、数百年振りの瑛斗を目の前にした喜びで、胸をいっぱいにして声を失っている。
そんなレイシャのあまりに愛くるしい仕草に、瑛斗はつい我慢し損ねて噴き出した。
「ううっ、笑っちゃだめ……もうっ」
レイシャは口を尖らせると、あどけなく拗ねた口調で抗議する。
人差し指で瑛斗の口唇を押さえるレイシャの頬は、紅潮して
あまりの見目麗しさに、顔を寄せられた瑛斗までつい赤面してしまう。
「でも、それだけじゃないよ……それだけじゃ……」
もちろんエート。一番は、愛しい貴方に逢うため。
本当は、もっともっと話をしたい。たくさんたくさん伝えたい。
伝えたいことがあり過ぎて、とても言葉に尽くし切れなかった。
けれど――未来を大きく左右しかねない。だから詳細までは話せない。
それはそれは難しく、とても苦しくて、心が詰まる思いだった。
だから未来からやって来たレイシャは、妙な言い回しで瑛斗に告げた。
「ただ――知らないはずの貴方が知っていたことは、教えられる」
恐らく――これから共に歩むであろう未来の中で、瑛斗は何らかの言葉をレイシャへ残すのだろう。そう理解した瑛斗は、慎重に言葉を選びながらレイシャに訊ねた。
「それじゃあ、一つだけ聞かせてくれ」
瑛斗が、未来のレイシャへ訊ねた唯ひとつの言葉――
「君はいま、幸せかい?」
レイシャは驚いた顔を見せた。まるで雷撃に胸を貫かれたかのように。
何よりも、何物にも代えがたい宝物を、心に抱きしめた表情で答えた。
「もちろんよ、エート……」
とても優しげに、何よりも切なげな表情で答えた。
そして、誰にも聞こえぬ声でそっと呟いた。
貴方が傍にいない以外は――と。
その刹那、レイシャの周囲を光の粒が包み隠し始めた。
「ああ、残念だけれど時間だわ。きっと……また逢いましょう」
レイシャは思慕にも似た、柔らかな表情を浮かべて微笑む。
「きっと貴方が仕掛けた、私への魔法……」
「そうだ、俺の魔法ってなんなんだ、レイシャ?」
レイシャはずっと首にしたままの『黒き精霊の腕輪』に触れる。
それはすっかり身に染みついてしまった、癖の一つだった。
「ふふっ……今でも私は貴方の奴隷。それはきっと未来永劫だわ」
大人になったレイシャは、瑛斗に抱きついた。
彼女の髪からふわりと漂うは、薔薇の芳香。
レイシャは瑛斗の頬の輪郭を、そっと撫でる。
心より愛おしく、何よりも愛おしく包むように。
「エート……レイシャの、エート……」
そして優しく――しかし、情熱的な
長く、永遠とも感じるほどに、ゆっくりと流れる時間であった。
口唇が離れると、銀色の糸がつうと二人の間を繋いだ。
柔らかく輝く光が、部屋いっぱいに満ち溢れる。
消える大人のレイシャ。それと同時に子供のレイシャに戻った。
その場には鼻孔をくすぐる芳香と、微かな残像を残して。
幼いレイシャは何事もなかったように、安らかな寝息を立てていた。
何も穢れを知らぬような、あどけない表情であった。
「レイシャ……」
瑛斗はそう呟いて、何もできず棒立ちになった。
上昇する体温と、激しく乱れる鼓動を感じながら。
暫くの間、自らの口唇に触れたまま。身動きひとつ出来なかった。
◆
明くる日の朝のこと。
瑛斗は昂揚した気持ちを抑えきれず、眠れぬ夜を明かしてしまった。
まるで夢でも見ていたような気分だった――だが肌身に感じた温もりと、口唇に残る感触。それが夢ではなかったことを、言わずもがな雄弁に物語っているような気がする。
自室を出てリビングを横切ると、野垂れ死んだように眠る騎士たちが見えた。
「ああ……返事がない。ただの屍のようだ」
後の祭りは言うに及ばず。泥酔しきってまるで動けなくなっているのだろう。ソフィアの姿だけが見えないところを見るに、男たちはそのまま放置されたようだ。
長椅子に足を組んで眠るエアハルトは、死屍累々のアードナーとドラッセルに比べれば、随分と優雅な姿に見える。だがまだ目を覚まさぬ辺り、深酒が過ぎているのだろう。
そんな様子を横目にしてリビングを通り過ぎると――
「エート」
「うわっ!」
後ろからレイシャに、飛び付かれてしまった。
自分には疚しいことなどない筈なのに、つい驚いて瑛斗は飛び上がる。
「ん? エート、おはよ」
「お、おはよう、レイシャ」
突然の出来事に相まって、瑛斗の心臓が口から飛び出そうになりかけた気分だ。
戸惑いを隠しつつ朝の挨拶を交わして、ついレイシャの表情を窺うと――何故かちょっと機嫌を損ねたか、ぶーたれているようだった。
「どうかしたのか?」
「きのう、はやくねた」
「うん」
「はじめての、たんじょび」
「うん」
「もったいない……くやしい」
昨夜のレイシャから聞いた通り、余程悔しかったのだろう。
幼いレイシャは少し俯き気味になって、小さな口を尖らせた。
まさか……この時の気持ちを取り戻すために、三百年前から時空間旅行をしてまでやって来たというのだろうか。いや、まさか……うん、まさかね。
「レイシャ、はやくおっきくなる」
そう宣言するのは、誕生日を迎えて新たな抱負だろうか。
小さな身体で頑張ろうとするレイシャを、瑛斗は応援したい気分になった。
「レイシャはね、すくすく成長して大きくなるよ」
「ん、わかった」
「きっと凄い美人さんになる」
「ん」
「背も大きくなるし、胸も……あっ、いや……」
昨夜見たままの素直過ぎる感想を滑らせた瑛斗は、もごもごと口籠る。
そんな瑛斗を見て、レイシャは目を真ん丸にして訊ねた。
「おっきいの、すき?」
「そ、そういう訳じゃないよ」
ではどういう用件かと問われても、その、返答に困る。
だがレイシャがそんなことを問い返すはずもなく――
「ん……レイシャ、がんばる」
そう言い残して、レイシャは走り去っていった。
間違いなく今日も頑張って、朝食を口いっぱい頬張るに違いない。
「そうだね。頑張って未来へ羽ばたいてね、レイシャ」
兎のように飛び跳ねて走り去るダークエルフの小さな背中を見送ると、瑛斗は胸に溜めこんだ息をほうっと吐き出して、ぽつりと呟いた。
「それとね、レイシャ……俺のファーストキスを奪ったのは、君だよ」
「あらその話、詳しく聞かせて頂けないかしら」
いつの間にか背後に立つは、見目麗しのハイエルフ。
アーデライードが静かなる怒気のオーラに身に包んで立っていた。
「うわぁわぁ、アデリィ!? いつからそこに?!」
「そういうのは大人になってから! いえ、大人になってもダメだけれど!」
「い、いや、違うんだ。違わないけど、違うんだよ、アデリィ!」
「何言ってんのよ! 意味分かんないわよ!」
この耳聡いハイエルフは、どこからどこまでを耳にしたのだろうか。
今日も今日とて、慌ただしくて騒がしい一日を予感する瑛斗であった。
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