第8話 エルフの奴隷と出会いの旅(前篇)
異世界遠征、八日目。
早いもので、春休みはもう折り返し地点を過ぎた。
初めての異世界遠征。そして初めての戦闘。
突然のゴブリン退治と、オーク退治クエスト依頼の完遂。
この旅は何もかもが、初めての出会いと体験の繰り返しだ。
出会いと言えば、赤い髪をした冒険者と知り合えたっけ。
傭兵団出身の少女戦士、チルダ・ベケット。
彼女は異世界で知り合った、人間では初めての友達。
今頃、なにをしているんだろう?
アデリィが何か悪い顔をしてたけど、きっと大丈夫だろう。
同じ空の下だ。いつかまた逢えると信じている。
爺ちゃんも異世界でこんな風に冒険していたんだろうか。
遥か遠い旅の空の下で、あまりにも広大な大地の上で。
何を思って歩いていたのか。何を感じて歩いていたのか。
そんなことを考えながら、今は俺も。
同じように道を辿り、街を巡っているんだ。
そう考えると、胸が熱くなる。
爺ちゃんの歩いてきた道を。
自分のペースで、ゆっくりとだけれど、歩いてゆく。
◆
旅を続けて八日目の夕刻。瑛斗たちは街道沿いの宿場町にいた。
古き国境の街・エーデルを出て、更に南へ。アーデライードが目指す目的の街へは、まだ辿り着いていない。
今回の旅は約二週間を予定している。だからこの次の街――目的地で折り返えさなければならないはずだ。だから「そろそろ引き返さなくていいのかな?」と考える度に、一抹の不安が過る。
まさかとは思うが、瑛斗を予定通りの日程で帰さないために、アーデライードがわざと遠回りをしている、なんてことがないだろうか。今はただ、そんなことがないことを祈るしかない。
そんな瑛斗の不安を余所に、呑気なハイエルフは鼻歌交じりに今日も町中を闊歩する。
この宿場町は、他の街と比べると随分と活気があった。
活気がある、というのは良く言っての事だ。率直に言えば柄が悪い。イラやエーデルの街とは雰囲気がまるで違う。宿場町というよりは、完全に酒場中心の繁華街である。
ごった返す人波、それに伴う喧騒は今までの比ではない。大声を上げ合う酔客に、胸元をはだけた呼び込みの女たち。裏通りには殴られている者までいた。
そんな人ごみの中を、アーデライードはへっちゃらで分け入っていく。
「こういうところ、エイトの異世界にもあるんでしょう?」
瑛斗は「どうかな?」と首を傾げる。日本とは文化や雰囲気自体が遥かに違うので、一概に同じとは言えない。そもそも高校生の身分である瑛斗が、日本の居酒屋事情を知るべくもないのだ。もしかしたら新宿の歌舞伎町やら池袋西口辺りはこんな感じなのかも知れないが、健全な青少年である瑛斗にはあくまでイメージでしかない。
「でもゴトーは、よく赤提灯で飲んでいたそうじゃない」
言われれてみれば爺ちゃんには、赤提灯のぶら下がった行きつけの居酒屋が近所にあった。でも家族経営でやっているアットホームな店だったから、アーデライードの思い描いている所とは違う気がする。
繁華街裏通りの赤提灯居並ぶ飲み屋街ってこんな感じなのかな、と偏見含みで想像してみるに、そこでふと思い当たったことがひとつある。
確か、終戦直後にはガヤガヤと騒がしい雰囲気の「なんとか横丁」みたいなのが多かった、と爺ちゃんが言っていたはずだ。
アーデライードが爺ちゃんと旅をしていた時代は、そういう横丁を飲み歩いていた頃があったのかも知れない。恐らくこの宿場町は、その雰囲気そっくりそのままの面影を残しているのだろう。
瑛斗が真面目に推測を導き出す寸前で、アーデライードから別の質問が寄せられた。
「ところでエイト、聞いてもいいかしら?」
「なに?」
「赤提灯って、何?」
アーデライードは「いまいちピンとこないのだけれど」と付け加えた。
瑛斗は心の中で、膝からがっくりと崩れ落ちていた。
宿を押さえた二人は食事をしようと、とある酒場に入った。
喧騒の酒場ではあったが、思っていたよりも雰囲気が悪くない。
実はアーデライードが事前に『悠久の蒼森亭』の酒場の
その辺り、まだ少年カテゴリーの瑛斗に気を配ってくれたものと思われる。
もしもアーデライードが現実世界にいる普通の女の子だったら、デートコースとかちゃっちゃと決めるのが好きなんだろうなぁ――と、他人事のように瑛斗は思っていた。だがそれは当たらずとも遠からず、である。
但し、この鈍感な勇者候補は、それに全く気付いていなかったが。
さて焼き固めた
「でね、アデリィ。赤提灯ってのは、ランタンの一種で――」
「そう。それは分かるの。でも問題はその先なの」
スープに浸したライ麦パンを齧りながら、アーデライードはテーブル上の水滴を集めて絵を描いて見せる。
「紙と竹の包みの中に、こう、蝋燭を立てるわけでしょ?」
「そうだね」
「燃えない? だって紙と竹なんでしょう?」
アーデライードの言いたいことはよく分かる。鉄と石の文化圏の者に「日本の昔の住宅は、その殆どが木と紙でできている」と言うと、大抵驚かれるものだという。
それに時代劇なんかでも、夜道で辻斬りに襲われて落とした提灯が燃え上がる――なんていうシーンを目にしたことが瑛斗にだってあるくらいだから、馴染みのないアーデライードが不思議に思うのは仕方がない事だろう。
「しかもそれを赤く塗って店先に飾るって、どういうことなの?」
そう言われても、瑛斗は明確に答えることができない。ただ一言だけ、
「誘蛾灯……みたいなものじゃないかな」
と、だけ答えた。例えば寒い冬の夜。赤い暖色を帯びた光をみれば、まるで炎に誘われる蛾の様に、あったかいお酒を呑みに誘われてしまうものではないだろうか。
ちなみにこれは、瑛斗の父が「あれは誘蛾灯なんだよ。だから仕方がないんだよ」と母によく言っている台詞である。するとアーデライードは、
「……分かる」
と一言だけ、極めて真剣な表情で呟いた。
このハイエルフ、漢字で書いたら『廃エルフ』なんじゃないのかな、と思う事が時々ある。瑛斗が口にすることは決してないけれども。
口元に手を当てて「恐るべきは、このランタンを考え出した異世界の商人たちね」などとブツブツ呟いているが、瑛斗はもう無視してしまうことに決めた。
「あ、そうだ。ランタンといえば――」
そう切り出して、瑛斗は別の話題をアーデライードに提供する。
「あの精霊、ジャック・オー・ランタンともいうそうだね」
先日、オークとの戦闘前にアーデライードが呼び出した、光を放つ精霊についてだ。暗い夜道を歩く時によく呼び出していたので、瑛斗も目にはしていた。
光の精霊「ウィル・オ・ウィスプ」は、別名「ジャック・オー・ランタン」とも呼ばれている。ランタンを持つ男という意である。
生前自堕落に過ごした
現実世界の言葉が使われていることからも分かるように、この光の精霊が「ウィル・オ・ウィスプ」と呼ばれ始めたのは、ここ数十年の事である。大陸全土で様々な呼ばれ方をされていた精霊を、現在では
ちなみに精霊語で呼び出す際には単純に、光の精霊、水の精霊、風の精霊、程度の意味しか持たないらしい。精霊界は個にして全。名前が必要のない世界だからである。
他にもここ数十年の間で、瑛斗の住む現実世界での呼び名と同様になったものは数多い。例えば怪物の名称や武器の名称。日本語で的確に表現できないものは、英語など主にヨーロッパ語圏の言語を
「あの光る精霊は、いつ見ても便利そうだよなぁ」
「そう? だったらエイトも覚えたらいいわ」
生まれついて精霊に馴染みのあるハイエルフは、難しいことをあっさりと言う。でも折角、師匠としては最高の
いつものグラスベルの森へ帰ったら、試すだけ試してみようと思う瑛斗であった。
食事も概ね終わり、アーデライードの時間になった。
アーデライードの時間とは、要するにお酒の時間である。この旅の間は夜だけと二人の間で決めているのだ。彼女は背もたれに深く腰掛けて、のんびりと寛ぎながら酒を傾け始めた。今宵の一杯は、オーク樽で寝かせた麦の蒸留酒だそうだ。
酒のアテには胡桃を注文した。この胡桃は異世界の亜種らしく、指で摘むとピーナッツのように殻が割れるので非常に食べやすい。瑛斗がぱきぱきと殻を割っては、アーデライードの皿の上に乗せてゆく。
アーデライードが陰でこそっと何かをやっているな、と思っていたら、氷の精霊を呼び出してロックアイスを作っていたようだ。いつの間にかグラスの中身は、ストレートからロックに変わっていた。
「これ、ウイスキーっていうのかしら? それともバーボンっていうのかしら?」
ちびちびと大事そうに酒を飲みながら呟く。言語学の研究者として、また
「アデリィがそれを頼んだ時、なんて注文したのさ?」
「ん、お酒頂戴って」
確かにそれでは種別など分かりようがない。この異世界には明確な酒類を設けず、ただの「酒」と呼ぶだけの酒場もまだ多い。
「だからいまいち違いが分からない」
「その違いを聞かれても、俺にも分からない」
アーデライードに詳細を問われる前に、先に釘を刺しておく。
「いいわ。エイトが大人になったら、一緒にお酒を飲みながら教えて貰うから」
彼女は「んふ」と笑みを浮かべながら、顎の下で指を組んでしなを作ると、艶っぽい流し目で少し大人びたポーズをとった。絶世の美少女の
「俺が酒についてアデリィに教えることなんて、多分ないと思うよ」
だがそこは相手が瑛斗である。鈍感な上にまだまだ興味は別の所だ。そして彼女の子供っぽい中身をよく知っている。だから気にも留めず「なんか背伸びしてるなぁ」程度に受け流してしまった。なんとも罪な少年である。
何の反応も見せやしない瑛斗に、アーデライードは面白くなさそうな顔で、胡桃の剥き身をポリポリと齧った。一方の瑛斗は、まるで自分の仕事であるかのように黙々と胡桃の殻を割る。
「まぁ、エイトをお酒に誘うのは、まだ早いものね」
ぽつりと呟いて、小さく溜息を吐き出した。
そこでふと気づいたように「でも夜な夜なお酒のお供をさせるのは、青少年の教育とやらによくないかしら」と不安そうに小首を捻る。
「大丈夫。爺ちゃんも父さんも、夜はお酒を飲んで過ごしてるもんさ」
瑛斗のナイスフォローと、少年らしからぬ気遣いが心憎い。
そんな瑛斗と共に旅をする幸せを不意に感じたのか、アーデライードは「んふー」と声を漏らすと急にニコニコし始めた。
その直後あたりの事だろう。アーデライードの後ろの席にいた男たち数人が、ガタガタと音を立てて席を立った。男たちは何やらニヤついた表情で、アーデライードの真後ろへ真っ直ぐに向かっているようだ。
彼らが先程からこちらの様子をチラチラと伺っていたのは、瑛斗も気付いていた。だがもう隠す気がないようで、横柄な態度を見せつける様に近寄ってくる。
気配の察知に優れたアーデライードのことだ。きっと彼女も気付いていることだろう。だが万が一を考えて、瑛斗は警戒を怠らない。気づかれぬ程度に椅子を引いて腰を浮かす。
「よう、姉ちゃん。ご機嫌じゃねぇか」
男の一人がアーデライードの後ろから声を掛けてきた。
「こっちに来て一杯やらねぇかぁ?」
「色々と楽しませてやるぜぇ? なぁ! うへへぇ!」
なるほど。どうやら男たちはアーデライードの酔いが回るのを待っていたようだ。彼女がニコニコとし始めた様子を見て、声を掛けてきたというところだろう。
中身はさておき、外見上は超絶美少女のアーデライードである。彼女が男性に声を掛けられるのは、実は一度や二度のことではない。その度にまるで蝶がひらりと蜘蛛の巣をかいくぐるかのように、彼女はするりとその手を躱すのだ。
しかし今日は少し様子が違う。宿場町の雰囲気同様、客層も今までよりは良くないようだ。完全に無視を決め込んでニコニコとしているアーデライードに、しつこく声を掛けてきていた。だがそれにもそろそろ焦れてきたようだ。
「おい姉ちゃん、無視を決め込んでるんじゃねぇぞ!」
そう凄んだ男が、アーデライードの肩を掴もうとした寸前。
「邪魔よ」
彼女は男の手をぴしゃりと叩いた。男は「うっ」と呻いてたじろぐ。
その手には、いつ掴んだのかテーブルナイフが握られていた。恐らくはナイフの背で男の手の甲を叩いたのだろう。彼女の素早い動きに、瑛斗はいつも感嘆させられる。
アーデライードの切れ長の瞳が、冷淡な色を帯びて男を睨め付ける。
「汚い手で触らないで。虫唾が走るわ」
「なんだと、この
瑛斗は「いつ優しくしたんだろうな」などと思いながら立ち上がると、掴みかかろうとした男の手を掴んでピタリと止めた。すぐさま相手の手首に持ち替えて内側へ捻る。そうして動きを封じると、相手の男たちの方へと突き飛ばした。
瑛斗が覚えた技の一つ、護身術だ。
「やっぱりアデリィよりも動きが遅いや」
「私の
そう呑気に話をしていると、大男がのしのしとこちらへ歩いてきた。男たちと同じテーブルにいたのだから、恐らく仲間だろう。ずっと様子を見ていたようだったが、仲間がやられたのを見てしゃしゃり出てきた、というところだろうか。
瑛斗の倍はありそうな体重。二回りは大きい上背。恐らくこの連中のボスだろう。
「おいおい、誰だぁ? 俺の馬場に馬を止めたヤツぁ?」
と、大男は妙な事を大声で言い出した。
「俺たちは徒歩だ。馬には乗ってない」
「いいや、見たことのない馬だ。お前ら以外にありえねぇ!」
完全に後付で無理矢理にこじ付けた因縁である。
「ま、仲間がナンパに失敗して撃退されたとなれば、喧嘩の理由にしちゃ最悪だものね」
「ああ、そうか。そういうことか」
周囲はすっかりこちらに注目している。それで妙なアピールを始めたのか。アーデライードの説明に、瑛斗はやっと納得した。一方の大男たちは、恥をかかされて真っ赤になっている。
「もういいわよエイト。あなたは座って胡桃でも割って頂戴」
アーデライードがそう言うならば何か策があるだろう。瑛斗はやれやれと席に着く。
「ああぁん? 胡桃だとぉ?」
大男とその仲間たちは一斉にニヤニヤと嗤い出した。何事かと様子を伺っていると、先程の騒ぎでテーブルの上に転がった胡桃の中で、比較的小さなものを一つ、厳つい手で摘み上げた。
「いいか、よーく見ていやがれよ」
大男が胡桃を両掌に挟むと、憤怒の表情と唸り声を上げて力を籠め始めた。
顔を真っ赤にして力を込め続けていると、やがてバキンと音を立てて胡桃が割れたようだ。そうして粉々に粉砕した胡桃を、テーブルの上にバラバラとぶちまけた。
「ワッハハハッ! 貴様の頭蓋もこうなりたいか!」
「……え?」
瑛斗は思わぬ出来事に、ついきょとんとする。
ふと気づくと余裕の下卑た笑いを浮かべていた大男たちが、瑛斗を見て一斉に青ざめていた。一方のアーデライードといえば、ニヤニヤと小悪魔のような笑みを浮かべている。
指先でパキパキと胡桃を割る瑛斗。その胡桃をぽくぽくと食べるアーデライード。
「実はね、それ指先でパキパキ割って食べるような代物じゃないわよ」
「……酷いな、アデリィ」
瑛斗は「しまった」と思った。異世界では物によって力加減が違う上、たまに予想外に柔らかい素材がある。どうやらこの胡桃がその一つだったようだ。
気を付けていたつもりだったがやってしまった。だがアーデライードがくすくすと笑っている様子を見るに、もしかしたら――いや、知っていてやらせていたのだろう。
治安の悪そうな宿場町である。邪魔な狼藉者たちと無用な揉め事を避ける意味もあったのだ。ただ相手のアンテナ感度が低ければ意味をなさない。と、そういうところか。
ところでその感度の低い連中はといえば、すっかり震え上がっていて、どうも生きた心地がしていないようだ。
「ちっ、ちっくしょう! おおお、覚えてやがれよ!」
悪役が退却する時の定型文を口にすると、大男たちは取り囲んだ酔客らの大笑いに見送られながら酒場を出て行った。
「あっははは! こりゃあ痛快だぜ!」
「おいマスター! こっちにも胡桃を一皿頼む!」
「おう、こっちも一皿! まさか胡桃で胸がスカッとするなんてな!」
酒場の中はちょっとした騒ぎになってしまった。中には胡桃を素手で割ろうと奮戦する者まで現れている。こうなると悪目立ちしてしまったようで、瑛斗としては気恥ずかしい。
「ア、アデリィ……」
「いいじゃないのよ。堂々としていなさいな。うっふふ!」
アーデライードは本日最高の笑顔で微笑んだ。
酒場の喧騒がひと段落地着いた頃。酒場の
主人の話では、彼らはこの宿場町に最近よく駐留している奴隷商人とのことだった。
元から住んでいるこの町の者たちは、彼らの存在を快く思っていないそうだ。金回りはいいものの、粗野で横暴な連中が多いためだ。
奴隷商人たちが立ち寄るようになってからは、他の街から流れ着いた傭兵団や無頼漢どもも居つくようになってしまった。宿場町に金を落としてゆくのは良いが、町の治安悪化には、ほとほと困り果てているという。
奴隷がどうこうという話は、どこかで聞いたことがあるような。そこで瑛斗はつい先日のオーク退治の際に、馬車の中で少し話題に出てきていたことを思い出した。
「ねぇアデリィ。そういえば奴隷解放戦争があったって言ってたよね」
「ええ。二十数年前、王国騎士団を破竹の勢いで打ち破った戦争よ」
奴隷解放戦争とは、未開の南方国家群と共に『傭兵王』と呼ばれた男が起こした戦争である。かつてエディンダム王国は、南方部族に攻め入っては奴隷として連れ帰り、安価な労働力として過酷な環境下で働かせていたという。
そんな状況に憤激した『傭兵王』が、王国の悪しき慣習を打破すべく南方部族をまとめ上げ、巨大国家群と精強な軍へと変貌させて、王国相手に宣戦布告したのだ。
戦場に於いて『傭兵王』は、常に先陣を斬って南方軍を鼓舞し指揮をした。その天下無双の豪剣と、戦場を縦横無尽に駆け巡る用兵術。また勇猛果敢な南方軍の士気は素晴らしく、数多くの王国騎士団は為す術もなく敗れ去った。
全てのエディンダム王国兵を南方の地から駆逐し、国境騎士団を機能不全まで瓦解させると、王国との和平協定と不可侵条約に加え、奴隷制度の廃止を約束させたのだ。
そうして『傭兵王』は、南方国家群の独立を宣言したのである。
これによりエディンダム王国内での奴隷制度は撤廃され、現在では禁じられている。
「んー、ここ四半世紀で起きた事件の中では一、二を争う出来事だったわね」
そう言いつつも「魔王戦争に比べたら大したことないけどね」と付け加えることをアーデライードは忘れない。
「じゃあ、奴隷の売買自体が、今の王国内では違法行為ってことか」
「そういうことになるわね」
ここでアーデライードが酒杯を傾けると、中の氷が音を立てて鳴った。
「ところで『傭兵王』ってどんな人物なんだ?」
「詳しくは知らないけど、エディンダム王国側からは『彷徨の
戦争の功績以外にも言い伝えられる伝説は数多く、王国の姫君を誘拐したり、王家の秘法を盗み去ったりするなど、様々な逸話を残す魅惑的な人物のようだ。
「このあたりについては、幾多のラブロマンス小説などでも題材に上がる程よ」
「アデリィも読むの?」
「……読むけど。読みますけど。何か?」
活字中毒の選書に異論はない。ただ聞いてみただけである。
「ただね、この奴隷制度の最大の恩恵を授かっていたのは王弟公国なの」
王弟公国とは、エディンダム前王の弟が南方国境付近に分け与えられた公国領である。権力闘争に敗れ、王都に最も遠い地へ流転させられたとも伝えられる。
「南方国境沿いでは、いまだ奴隷売買行為が行われているようよ。特に奴隷制度廃止で最大の損益を蒙った王弟公国では、更に闇市場が盛んとの黒い噂もあるわ」
そこまで語ったところで、酒場の
「あーあ、楽しかった。それじゃ今日はもう宿へ帰りましょ」
この日の夜は、それでお開きとなった。
◆
早朝。まだ朝霧のかかる中。
昨夜の喧騒はどこへやら。寝静まった宿場町はひたすらの静寂に包まれている。
そんな宿場町を離れ一人、街道沿いを外れた森に瑛斗はいた。身の丈程もある巨大な
まだ眠っているアーデライードを宿屋へ置いて、瑛斗はこっそりとここへ来ていた。
背中から外した
上段に構え、朝の涼やかな空気を胸の中へと静かに引き入れる。
ヴンッ!
森の大気を引き裂くように、瑛斗は剣を振り下ろした。
初めての戦闘から四日目。身体の芯にじんわりと残る、熱。
日中の街道に
そのことに不満があるわけではない。ましてや戦闘を望むわけでもない。
ただ漠然と、自らの未熟さを取り返したい焦りがあった。
初めてのオークとの戦闘。大きな怪我なく終えたのは良かったと思う。
だがそれも、チルダやアーデライードの助力があってこそだ。
なにも一人で戦い続けるつもりはない。
さりとて、一人でも戦える力が欲しい。
そんなジレンマの中で、じっとしていることができなかったのだ。
鉄は熱いうちに打て、という。
いまはひたすら稽古を積んで、いずれ絶対に強くなりたい。
みんなを、仲間を、守れるくらいの力が欲しい。
その一心を両の腕に込めて、今はただ、剣を振り続けている。
十五分ほど素振りをし続けただろうか。
涼やかな春の朝とはいえ、じんわりと汗が染み出した頃。
不意に森の奥から歌声のようなものが聴こえて来た。
空耳だろうか。もしくは、何らかの動物の遠吠えかも知れない。
そう思いながらよくよく耳を傾ける。だがどうしても人の歌声にしか聞こえない。それもとても幼い少女のような
こんな早朝の森の中から聞こえるなんて。無視することもできるがどうも気になる。逡巡した瑛斗であったが、こういう時こそ持ち前の好奇心が疼く。
瑛斗は歌声の聞こえる方向へ行ってみることに決めた。
もしかしたら魔物かも知れない。歌声で旅人を惑わす魔物と言えばセイレーンか、マーメイドか、ローレライか。稀にハルピュイアも歌うようだが、さて。
街道沿いは王国騎士団の巡回に護られているため、凶暴・凶悪な怪物は概ね退治されているはずである。とはいえ油断は禁物。瑛斗は慎重に歩を進めることにした。
歌声の方へとかなり近づいた頃、その歌が急にピタリと止んだ。瑛斗の気配に気付き、歌うことを止めてしまったのだろうか。
しんと静まり返った森の中は、もう何の気配も感じられない。先程まで聞こえていた歌ですら、幻聴だったのではないかと思わせる程に。
瑛斗はじっと森の奥へと目を凝らした。木々の一つ一つを確かめるように。
すると一本の木に縄が巻き付けられているのを見つけた。不自然さを感じた瑛斗がその木へと近づいてみる。
果たしてそこには一人のまだ幼い少女が座っていた。
然してそれは、尋常な様子では、ない。
身体には拘束具。首輪を付けられ縄に繋がれていた。
歳の頃は見た感じ、十に満たないくらいだろうか。
手には木製の手枷。粗末で簡素なボロボロの服。
ボサボサに乱れた真っ白な髪。傷だらけの細い手足。
感情の抜け落ちた無表情な顔。赤みを帯びた虚ろな瞳。
そして何よりも特徴的なのは、アーデライードのように尖った長い耳。
ただ、
外見から察するに、この幼い少女は『ダークエルフ』。
爺ちゃんから幾度となく聞いた、エルフ族に於いて異端とされた種族。
暗黒魔術を極めんと、悪魔に魂を売り渡した祖先を持つとされる種族。
全ての種より忌み嫌われる、呪われた宿命を背負う種族。
瑛斗は昨夜の話を思い出していた。
「南方国境沿いでは、いまだ奴隷売買行為が行われている」
此処から南方国境までは随分と遠いはずだ。だがここは国境から内陸へ街道を進めば必ず通る
「酷いことをする」
沸々と湧き上がる怒りを抑え、
一瞬、びくりと身体を震わせた少女に向かい、
「大丈夫、怖がらないで」
そう声を掛けると、瑛斗は剣をフルスイングさせて縄を断ち切った。
「絶対に動くなよ」
続いて手枷を大地へ押しやると、剣を垂直に宛てがう。留め金具に狙いを定め全体重を乗せ突き抜くと、見事中心からへし斬れた。
これで少女を束縛する全ての拘束具は外れ、自由になった。
幼い少女の目線に合わせてしゃがむと、瑛斗は彼女に尋ねた。
「もしも行く当てがあるならば、好きな所へ行くといい」
しかし少女は動かない。表情一つ変えることもない。
余程怖い目に遭ったのだろうか。感情そのものが壊れてしまったように、虚ろな表情で身を
帰るべき場所があるのだろうか。それとも何処へも行く当てはないということか。少女の意志が分からぬ以上、無暗に連れ回すわけにはいくまい。
瑛斗が問いあぐねたところで、ふと当初のきっかけを思い出した。
「ああ、そうだ。もしかしてさっきまで歌っていたのは君かい?」
少女はこくりと頷いた。
「そうか。とても綺麗な歌声だった。いつかまた聞かせて欲しい」
そう言って瑛斗は、屈託ない笑顔を少女へ向けた。
されど少女は感情を顕わにすることはなく、語る言葉は何一つなかった。
たったひとつの行動を除いて。
少女の、細い右手がゆっくりと伸ばされ、瑛斗のシャツを掴んだ。
小さく震える手。じっと見つめ返す瞳。
少女の奥底に眠らせている心を。殺されていた感情を。瑛斗は垣間見た気がした。
ただ気付く事が出来ぬだけで、きっとそこには存在している。
そう思える確信めいたものを、感じさせる何かがあった。
「おい、てめぇ。そこでなにしてやがる」
瑛斗の背中へ声が掛った。この声は聞き知っている。
昨夜の酒場にいた奴隷商人、そのうちの一人。テーブルの中心にいた大男。
近付く者がいたことは気付いていた。だがそんなことはどうでもいい。
瑛斗は一切振り向くことなく、じっと少女の目を見つめて立ち上がる。
「心配いらない。俺が絶対に護ってやる」
初めて、この幼い少女から能動的に求められたこの手を。
突き放すことなど、決してできるはずがなかった。
少女の意志は受け取った。ここから先は瑛斗の領域だった。
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