第9話 エルフの奴隷と出会いの旅(中篇)

「おい、何してやがるって聞いてるんだ!」


 奴隷商人の大男が怒鳴ろうと、瑛斗は一切振り返らない。

 片手半剣バスタードソードの柄を力強く握りしめ、瑛斗は静かに怒りを押し殺していた。

 もっと近づいてみろ。もっといかってみろ。そして剣を抜け。

 そうすれば、容赦なく痛めつけることができる。そう考えていた。

 だが、そう考えていた瑛斗を、一瞬で冷静にさせたものがある。

 それはダークエルフの少女の手。震える小さな手だった。

 ぎゅっと握られたまま、瑛斗のシャツの端っこを掴んでいる小さな手。

 それに気が付いた時、瑛斗は思い出すことができた。

 怒りに任せて剣を振るっては全てを見失うことを。

 幼気な少女を前にして、自分は何をしようとしていたのか。


「もう大丈夫。安心して俺を信じてくれ」


 優しく少女の頭をなでると、離す様子のない手をそっと握る。

 ダークエルフの少女が、瑛斗の瞳を覗き込んできた。

 仄赤く、透き通る幼い少女の瞳。

 その瞳に誓うように、瑛斗は力強く頷いた。


「この野郎! フザけるんじゃねぇぞ!」

「おい、親方の声が聞こえねぇのか!?」


 相変わらず奴隷商人の大男は、幾度となく大声で怒鳴り散らす。

 だが冷静になって気が付いた。彼らはこれ以上近寄る気配がない。

 その理由、恐らく瑛斗の右手にある。この身の丈程ある剥き身の巨大な片手半剣バスタードソード。これを警戒しての事であろう。

 もしこれほどの長剣を自在に振り回すことができるのならば、それは勇猛な戦士か。はたまた歴戦の騎士か。警戒せざるを得ない程の武器であるということだ。

 稽古の時にアーデライードがよく言っていたアドバイスを思い出す。


「異世界人の特性を上手く生かしなさい」


 こんな場面シーンでも、このアドバイスは変わらない。つまり武器を振るわずとも充分にハッタリが利く、ということだ。心に余裕ができると、頭も動く。


「なるほど……よく分かったよ、アデリィ」


 そうと分からば、この特性を存分に発揮してやろう。

 瑛斗は一つの策を思いついていた。


「無視するんじゃねぇ! こっちを向きやがれ!」


 奴隷商人の怒鳴り声に応える様に、瑛斗はゆっくりと振り向いた。


「あっ! てっ、てめぇは、昨夜の小僧……!」

「小僧とは、俺の事か?」


 眉根を寄せ、脅す目付きで睨め付けると、重量のある剛剣をものともせずに、片手でブンブンと振り回す。最後にズンと肩にかけて構えると、更に凶悪な目付きで睨め付けた。


「この俺に何か用か?」


 胡桃を指先で砕いて見せた昨日の今日だ。効果は絶大である。

 奴隷商人たちは「ひっ」と小さく声を上げると、仲間同士で貶し合い始めた。


「おおお、おい、てめぇら! なんで奴隷をこんなトコに繋いどいた!」

「無茶言わんでくだせぇ。親方が押し付けたんじゃねぇですかい!」


 動揺した大男らはすっかり怯えきっていて、ひそひそ声にもなりはしない。


「だ、だって、ダークエルフなんて気味悪りぃし……」

「アイツ、チビのくせにヘンテコな魔術を使いやがるじゃねぇですか!」

「他の奴隷も気味悪がって騒ぐし、見張りだってしたかねぇよ!」


 奴隷商人たちは、我先にと勝手に事情を説明し始めた。その様子を瑛斗はじっと観察すれば、聞かずとも概ねの事情は呑み込める。

 事情を掴むと、瑛斗は目一杯凄みを利かせた声で脅しをかけた。


「おい、これはお前らの仕業か!」

「そ、そうだ。俺の奴隷だ! だから、ど、どう扱おうと俺たちの勝手だ!」

「そうか、お前らの仕業か……」

「ひぃぃっ!」

「この奴隷、気に入ったぞ」

「なん、だ……えっ、あっ……はぁ?」

「ダークエルフの奴隷とは、面白い」


 呆気に取られる奴隷商人たちを尻目にニヤリと笑うと、瑛斗は自らを「武門の出、貴族の三男坊」と自称し始めた。つまり瑛斗が思い付いた「異世界人の特性」の生かし方とは、ハッタリひとつで奴隷商人たちを出し抜いてやろう。そういう魂胆である。

 とにかく強気に。なにより居丈高に。奴隷商人やつら重圧プレッシャーを与える演技を。そうして交渉を優位に進めて、その先は――

 はてさて、こんな俺が演技だなんて。とんでもないことを始めてしまったもんだと思いつつ、こうなったら前へ前へと押して出るしかない。


 続けて、自称「貴族の三男坊」である瑛斗の言うことは、こうだ。

 我が領地の拡大に伴い、荘園に人手が必要となっていたところ。奴隷を求めて南方国境へ向かう途中だったが、こんなところで商人に出会えるとは、俺は運がいい。

 そう説明すると、瑛斗の剣のハッタリも手伝って、彼らは前のめりに耳を傾け始めた。


「この娘、いくらだ?」

「きっ、金貨十枚!」

「フン、吹っ掛けたな?」


 片手両剣バスタードソードを、わざと風切り音が立つように「ヴンッ」と振るい、切っ先を奴隷商人たちへ向けた。瑛斗の放った剣風が、遠くで棒立ちになっていた彼らの前髪を揺らすと、奴隷商人たちはあまりの迫力に「ヒューッ」と喉で息をする。


「俺を怒らせるな」


 瑛斗が奴隷の相場など知るわけがない。だが始めの交渉は高めの設定金額を設けるもの。こういう輩の場合は、命よりも先に本能のまま吹っ掛けてくると相場が決まっている。


「き……金貨三枚……」

「いいだろう前金だ。とっておけ」


 瑛斗は懐から金貨を出すと、指で弾いて大男へと寄越す。

 これはチルダに貰った記念の金貨だ。初めての冒険。共に戦った証。本当はずっと使わずにとっておこうと思っていた。だがこれを今使わずしていつ使うのか。瑛斗は躊躇うことなく、自らの思い描く策のために利用した。

 男は慌てて受け取ると、金貨をまじまじと眺めて確かめる。


「なるほど、こいつぁ失礼しやした」


 本物のようだと分かると態度が一変した。それもそのはず。金貨一枚で一ヶ月は暮らせるだけの価値がある。しかも金貨を投げて寄越す気前の良さなら、そうそう嘘ではあるまい。奴隷商人かれらはそう踏んだのだ。


「けども、これじゃあ足りゃしませんぜ」

「前金だと言っただろう?」


 わざと片手半剣バスタードソードを一閃すると、瑛斗はいささか大仰な素振りで背中の鞘に収めた。剥き身の剣を収めたことで、奴隷商人たちは人心地付いたように「ほっ」と胸を撫で下ろす。


「見ての通り、朝の修練中でな。今は手持ちがない」

「や、は、道理で、おっしゃる通りで……」

「奴隷はまだ用意できるのだろう?」


 他にも奴隷がいるのか探りを入れると、奴隷商人はこくこくと頷いて、


「もちろんでさぁ、御所望ならいくらでも用意できますぜ、旦那」


 と、少々余裕が出てきたようで、気前のいい返事をし始めた。


「いかほどご入り用で……?」

「そうだな、まずは金貨百枚分」

「ひゃ、百枚?!」


 驚く奴隷商人たちを見て「ちょっと大目に言い過ぎたかな?」と瑛斗は冷や汗をかく。


「そ、そうだ。できるか?」

「ははぁ、できます、できます!」


 今はまだハッタリが効いているのか、奴隷商人の大男は二つ返事で頷いた。

 ともかく「今はまだ」だ。奴隷商人かれらが冷静になった時はどうだろう。


「ならばこの小娘程度、手付には丁度良かろう?」

「へぇへぇ、宜しゅうございますぜ、旦那」


 厄介払いもできることだ。金貨一枚とダークエルフの小娘との交換なら、まずは御の字と踏んだか。彼らの事前の態度からして、そう出ることは容易く予測できよう。


「では夕刻までに用意してみせよ」

「へぇ、分かりやした」

「分かったなら、名を名乗れ」

「あっしはガストンと申しまさぁ」

「俺の名は……エリアス」


 わざわざ本名を教えてやる義理はない。瑛斗はわざと偽名を名乗った。


「ではこの奴隷、確かに貰い受けたぞ」

「へぇ。ところで旦那……」


 元来た道を戻りかけた瑛斗は、声をかけられ足を止める。


「やっぱりあのべっぴんさんは、旦那のイロなんですかい?」

「い、イロ?!」


 そんなこと考えもしなかった。狼狽した瑛斗を見て、奴隷商人たちは下卑た顔でニヤニヤとし始めた。何故もっと毅然とした態度を見せられなかったかと、瑛斗は悔やんだ。


「……余計な詮索は無用」


 瑛斗がギロリとひと睨みすると、奴隷商人たちは「えへへぇ」と愛想笑いを浮かべて、それ以上は追及してこなかった。


 そうして少なくとも宿までは、ダークエルフを連れて帰ることになった。


「大丈夫、心配はないよ」


 瑛斗が手を差し出すと、ダークエルフの少女は自ら手を繋いできた。少しは心を、開いてくれたのだろうか。

 さて……アデリィにはなんて説明しよう。道すがら考えなくてはならない。


「まぁ、なんとかなるだろう」


 瑛斗は気持ちを前向きに保つことにした。



「アンタ……私が寝ている隙に何やってるのよ……」


 早速、アデリィの不機嫌な顔と声に晒されることになった。


「しかもよりによってダークエルフだなんて」


 ダークエルフとは、エルフ族の遠い祖先が、高度且つ強力な暗黒魔術と引き換えに悪魔と契約し、暗黒面へと堕ちた者たちの末裔とされる。そのためエルフ族の間で最も忌み嫌われている種族である。ハイエルフとは対極の存在であると言って過言ではない。

 瑛斗はアーデライードの説教ひとつひとつに「うん、うん」と頷きながら、ダークエルフの少女の顔を濡れタオルで丁寧に拭いてやる。


「俺の名前は瑛斗。君の名前は?」

「ん……レイシャ」

「やっと話してくれたね。いい名前だな」


 相変わらずダークエルフの少女――レイシャの表情は変わらない。けれど彼女の名前を褒めた時に、少しだけ表情が和らいだ気がするのは、贔屓目だろうか。


「いったいどうする気なのよ」


 アーデライードの小言を聞きながら、瑛斗は自宅から持ってきたサバイバルナイフを腰のバッグから取り出すと、レイシャに「動かないでね」と告げ、彼女の首輪を断ち切った。


「これでよし、と」

「ねぇ、ちょっと聞いてる!?」

「聞いてるよ、アデリィ。実はね……」


 真面目な顔で立ち上がると、購入の約束をしてきたことを告げた。


「はぁっ!? アンタ何言ってんのよ!?」


 瑛斗が彼女の立場だったら、きっと同じことを言うだろう。


「犬や猫を拾ってくるのとワケが違うのよ!?」


 アーデライードのいう事は至極尤もで、瑛斗は返す言葉がない。


「けど、放っておけなかったんだ」


 瑛斗はそう言うと、あとは彼女の小言を黙って聞くしかなかった。頷くばかりの瑛斗に埒が明かなくなった頃のこと。アーデライードが焦れたように言った。


「この子、臭うわ」


 鼻を押さえて顔を歪める。やや潔癖症のきらいがあるアーデライードは、汚れや臭いに少しうるさい。特に臭いには敏感だ。


「やっぱりタオルで拭いたくらいじゃダメか」

「この子、お風呂に入れなくちゃダメよ」

「アデリィ、レイシャを……」

「私、嫌よ」


 そう言うと思った。仕方なくレイシャに尋ねる。


「お風呂、わかる?」


 レイシャはこくりと頷いた。だが一人で入れるかを尋ねると小首を捻る。

 宿場町には共同浴場があったが、人間ばかりの宿場町にダークエルフの少女が一人。しかもこれだけ薄汚い恰好では、入れて貰えるかどうかも怪しいところだろう。

 瑛斗は頭を捻って考えると、宿からたらいを借り、お湯を貰うことにした。

 この宿にはちょうど裏庭に井戸端がある。生垣も高く人目に付きにくい。そこでなら行水も許されるだろう。


「レイシャ、歳はいくつ?」


 首を傾げながら九本の指を立てて「まだ」と言った。恐らくは「まだ九歳だが、あとちょっとで十歳だ」ということだろう。

 子供をお風呂に入れてやれるギリギリの年齢だな、と瑛斗は思った。従妹の女の子も確か、十歳くらいから父親とのお風呂を嫌がり始めたハズ。などと思い出して自分を納得させることにした。

 アーデライードは相変わらず仏頂面でむくれている。彼女の助力はどうにも得られそうにない。瑛斗は一人、淡々と行水の準備に取り掛かった。

 裏庭に出てたらいを井戸端に設置すると、レイシャをひょいと抱えてその中へ入れる。

 彼女の身体は細く、羽毛のように軽い。屈めばたらいの中へすっぽりと収まる程に。それはエルフ族の身体的特色ではあるが、こうも軽いと栄養状態が心配になる。


「服を脱ぎ終わったら、このタオルを身体に巻いて待っててね」


 レイシャは素直にこくりと頷いた。それを見届けた瑛斗は、勝手場へお湯を取りに行く。

 この季節、春の気候は麗らかで日差しは暖かい。外で行水させるのに適している気候で良かった。

 木桶いっぱいに熱湯を張り、瑛斗が井戸端に戻ると、


「レイシャ、お待たせって……うわわっ!」


 言いつけ通りレイシャはタオルを巻いていた。

 但しタオルを首にかけてマントのようにして。だから前が全開で、レイシャの全てが丸見えだった。

 瑛斗は危なく木桶を取り落すところをぐっと堪えた。


「違う違う、そうじゃ、そうじゃないよ」

「エートのいいつけ、まもった」

「そうだけど、そうじゃないんだよ、レイシャ……」


 そよそよと春風にたなびくタオルマントを外してやると、瑛斗は赤面しつつ身体に巻き直してやる。


「こうやるんだよ、わかる?」


 レイシャはこくりと頷いた。口数は少ないが、これなら意思疎通は十分だ。

 瑛斗は熱湯と水を混ぜながら程よい湯加減にしつつ、たらいへ注いでゆく。


「それ、なに?」

「これ? 石鹸っていうんだ」


 瑛斗が手拭で泡立てているのをレイシャが気付いた。環境にいいものを選んで瑛斗が異世界へと持ち込んだものだ。異世界にも石鹸は存在するが、主に獣脂と木灰から作られたものなので、当然ながら性能はおろか、泡立ちも香りも非常に悪い。なのでアーデライードのリクエストにより、異世界へと持ち込んだ品物の一つだ。

 但し異世界への影響を考慮して現実世界からの持ち込みは、最低限のものを選択している。他にはサバイバルナイフと衛生用品。それと医薬品といったところか。

 例えば、チルダの腕に巻いてやった包帯なんかがそれである。

 さておき、この石鹸はやはり物珍しいのだろう。レイシャは瑛斗が泡立てた泡を、目を離すことなく興味津々に眺め続けていた。


「これをこうして……こう」


 瑛斗が泡立てたタオルに息を吹き込むと、一気に泡が膨らんでいくつかのシャボン玉が飛んだ。いつも冷たい無表情だったレイシャの顔にほんのり赤みが差して、「ふあっ」という小さな声が漏れた。

 レイシャはシャボン玉が割れて消えるまで、ずっと目で追いかけていた。


「これで身体を洗うよ」


 瑛斗は少し逡巡したが、折角レイシャの身体に巻いたタオルは外すしかなさそうだ。仕方なしにレイシャを生まれたままの姿にすると、まずは背中を流すことにした。


「んっ、ふ……」

「どうしたの?」

「くすぐったい」

「ああ、なんか、ごめん……」


 なんだか凄く恥ずかしい。全裸にされているレイシャの方が、むしろ堂々としている気がする。恥ずかしいのは疚しい気持ちがあるからだ、と自らを律して意を決する。とにかくこの少女の全身をくまなく洗うこと。集中してこれに専念することとした。


「エート、ん、ふぁ……んっ……」


 洗われ慣れていないせいか、無口なレイシャが時折くすぐったそうな声を上げて身をよじる。悪いことはしていないのに、純情な瑛斗はそれが堪らなく恥ずかしくなって、どうしても赤面せざるを得なかった。


 ――などという様子を、アーデライードは上階の窓からこっそりと見ていた。


「もうエイトったら! あんなちびエルフといちゃいちゃして、なに赤くなってるのよ!」


 そう思うとなんだか悔しくなっていて……いつの間にか歯ぎしりをしている自分に、ハッと気付いて少しヘコむ。見なきゃいいのに。しかも拒否したのは自分なのに。私は何やってるんだろうな……そう思えば思うほど、彼女の長い耳はゆるゆると垂れてゆく。

 窓に背を向けると、アーデライードはずるずると座り込んだ。

 困った人を見るとすぐに助けたくなる。それが瑛斗の魅力。

 それは十分に分かってるつもりだ。


 けれども。それでも。


 彼の主張を、決意を、しっかりと確かめずに受け入れるわけにはいかない。ただいたずらに人助けをするだけでは、きっと自らをすり減らす結果になり兼ねない。

 それが今後、彼が冒険者としてやっていくための試金石になるはずだ。

 ゴトーもきっとそうしただろう。

 アーデライードは心を鬼にして、瑛斗に真意を問い質すことに決めた。



「もう一度聞くけどね、エイト」


 レイシャの行水を済ませた瑛斗に、アーデライードは問い質した。

 彼女レイシャはだいぶ疲れていたのだろう。今は瑛斗のベッドの上で、安らかな寝息を立てていた。ボロボロだった服は廃棄して、今は瑛斗のTシャツを着せてある。

 アーデライードは腕と足を組んで座り、瑛斗にも椅子に座るよう勧めた。じっくりと話を聞く気構えであることが、彼女からよく伝わってくる。


「あなたはそうやって誰も彼も助けて回るつもり?」


 チルダに旅立ちのアドバイスを求めた時にも、アーデライードが瑛斗に投げかけた言葉である。だがそれは、瑛斗も十分に承知していた。


「アデリィの言う事は、尤もだと思う」


 瑛斗も肯定するしかない。王国内での奴隷制度は廃止され公には禁止されているとはいえ、未だに奴隷として裏取引されている数の多さは尋常ではないだろう。

 今の世で全ての奴隷を解放するなど夢物語に等しい。だから「誰も彼も助けて回る」などという台詞を、瑛斗は言葉にする気になれない。

 そして瑛斗自身にも降りかかる、子供一人を引き取るその難しさ。まだ少年の年齢である瑛斗に、その責任を背負えることができるのかどうか。考えれば考えるほど、気持ちが重くなることばかりである。しかしあの時はそうすることが正しいと思ったのだ。

 だがそれは何故か。自分のずっと内側、拠り所とする核心に触れる部分にある。ずっと、遠い過去にまで遡って、深く、より深く、瑛斗は考える。

 そうして瑛斗は一つの言葉を導き出すと、一言一句、噛み締める様に吐き出した。


「勇者の理念……」


 瑛斗はそう呟いて、腰かけた椅子に深く寄り掛かり上を見る。そして目を瞑る。深く吸い込んだ息を慎重に吐き出すと、かつて爺ちゃんが言っていた言葉を口にした。


「悪の小なるを以って之を為すことなかれ」


 思いも寄らぬ言葉に、アーデライードはゾクッと武者震いした。

 瑛斗は続けて言う。


「善の小なるを以って為さざることなかれ」


 瑛斗の声と、アーデライードの声が、ぴたりと合わさった。

 三国志好きの爺ちゃんが教えてくれた言葉。これは三国蜀志の中にある、蜀漢の初代皇帝・劉備の言葉だという。意味は、例えほんのわずかな悪事だとしても、それは行ってはならない。例えほんのわずかな善行だとしても、行われなくてはならない。

 瑛斗は、そう言って目を瞑ったまま動かない。暫くの間をじっくりとおいて、ゆっくりと口を開いた。


「あの時の俺にとって、レイシャを捨て置くことは悪事で、レイシャを救うことは善行だったんだ。どうしてもあの状況は……あの状況だけは見過ごせなかった」


 アーデライードが目にしていない瑛斗の状況判断。それなのに彼女は、この少年の言葉がするりと身の内に入り込むような、不思議な感覚に囚われていた。


「これは俺の自己満足に過ぎないかも知れない」


 瑛斗は反芻する。若気の至り。己の未熟さ。色々なものを噛み締める。


「けど、爺ちゃんの勇者の理念に反する。そう思ったんだ」


 アーデライードの脳裏には、瞬時にあの頃の思い出が鮮明に蘇っていた。

 あの人から聞いたことがある。戦時中の戦地に於いて、余りの貧しさから泣く泣く自らの子供を売りに出す者を見たという。あの人は異世界でも同様に、奴隷を見ては涙を流して「できることならば助けてやりたかった」と言っていたものだった。

 なんということだろう。なんという懐かしさだろう。幾歳月と数えて今、よもやあの人の思想に、再び触れる機会があるなんて。瑛斗の思想は、あの人と瓜二つ。もう二度と触れることができないと諦めていた、あの人の言の葉コトノハ

 思い出すアーデライードは、震えるあまりに思わず腰から砕けそうになっていた。


「いいわ……その言葉を聞いて、引き下がるわけにはいかない」


 もう十分だ。いや、十分過ぎた。瑛斗の真意は十二分に確かめた。


「分かったわエイト。ちょっとだけ付き合ってあげる」


 久々にアーデライードの心に、煌々と燃ゆる炎が宿っていた。

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