第15話 なんでもない日常の旅
アーデライードは、眠れぬ夜を明かしてしまった。
窓の外では空が白み始め、小鳥の鳴き声が聞こえている。
もうそんな時間なのかと、我が目と長い耳を疑う。
瑛斗とレイシャ――二人はまだ、同じベッドで仲良く眠っている時間だろうか。
私だって瑛斗とそんなこと、まだしたこともないのに。とか。まだとか。いや、別に。そんなこと思ったりなんかしないけど……しないわよ。ホントよ?
なのにどうしても二人のことが気懸りで、よく眠ることができなかった。
最近瑛斗は、あのダークエルフとばかり一緒にいる気がする。
そんなの別に大した話じゃない。日常の些細な出来事だ。あんなちびすけが気になってしまうなんてどうかしている。それは十分に分かっているつもり。
二人で過ごしてきた半年間に、ちょっとした異物が割り込んだだけに過ぎない。
でも何故か気になってしまうのは、靴の中に入り込んだ小さな小石と一緒だ。大して痛くもないくせに、取り出さないと気が済まない時があるじゃない。
でも待って。よくよく考えたら瑛斗に限って万が一がなくても、あのダークエルフのちびすけは何を考えているのやら。得体が知れないというか、掴みどころがないというか。
もしかしたら、やっぱり瑛斗を狙って……って、いやいや待て待て。いくらなんでもそれは考え過ぎというものだろう。
レイシャが瑛斗に感じているのは、父性。それは間違いないはずだ。
……ホントに?
ああもう、どれもこれも瑛斗が悪い!
瑛斗がハッキリしてくれないから、こんなに気分がモヤモヤと――って、何をハッキリさせろというのだ。ハッキリされてしまっても、それはそれで、その、なんだ、えと、困る。
でもでも、ずっと曖昧で、宙ぶらりんなままだから、不安になってしまうのだ。
って、だから何がよ! 曖昧なままって、宙ぶらりんって、何がよ!
――というようなことが、ぐるんぐるんと一晩中頭の中を駆け巡っていた。
瑛斗の部屋へ押しかけるには、まだ早い。
空は白んできたものの、陽はまだ昇っていない。
いつまで待てば、朝なのだろう。どこからどこまでが、朝?
……決めた。朝なんて私が決めてやるわ。
だから今はもう朝。私が瑛斗の部屋へ行っても、何ら問題なし。
そうと決め込んで、今すぐ寝起きに押しかけると決めた。
この『古代樹の塔』には、最上階から一階まで一気に貫く縦穴がある。
そこには『レビテーションボート』と呼ばれる
アーデライードはこの『レビテーションボート』を呼びつけると、すぐさま飛び乗って三階まで降りる。
基本的に瑛斗は部屋にいる時に鍵をかけていない。いつアーデライードが訪ねて来ても大丈夫なようにしているためだ。ゴトーも同様に鍵をかけていなかった。
この『古代樹の塔』のある周囲の森には、悪意や害意を持つ者を寄せ付けぬ、
よって危険は少ないものの、瑛斗たちは大らかな民族だなぁといつも思う。
瑛斗の部屋のドアノブを握ると、果たして鍵はかかっていなかった。この辺りが、あのダークエルフの小娘との大きな違いなのよ、とよく分からぬ悦に入る。
そっとドアを開き、瑛斗の部屋へと足を踏み入れた。
薄暗い部屋の中、ベッドを見れば瑛斗がぐっすりと眠っていた。レイシャの姿が見えないが、恐らく掛け布団の奥の方に潜り込んでいるのだろう。
瑛斗は寝覚めてしまえば速いが、それまでの寝起きは悪い。恋愛感情に鈍感なのと同じくらい簡単には気付かない。そう考えるとちょっとイラッとしたが、余談である。
寝起きの悪い瑛斗のためと悪戯心が働いて、勢いよくカーテンを開け放つと同時に、掛け布団を引っ剥がすことに決めた。
瑛斗は驚いて声を上げて飛び起きるだろうか。想像すると含み笑いが漏れそうだった。タイミングを見計らい、一気に計画を実行する。
「さぁ、エイト! 朝よ! 起きなっきゃあぁぁーッ!!」
悲鳴を上げたのは、アーデライードの方だった。
ぐっすりと眠る瑛斗に寄り添うように、ぴったりとくっついたレイシャ。
だがこのダークエルフの小娘は、一切の服を身に纏っていなかったのだ。
「……ん、アデリィ? もう朝っぷぁっ!」
身を起こしかけた瑛斗へ向け、すぐさま掛け布団をおっかぶせる。
「何やってんのよ、アンタたちーッ!?」
「えっ、え? なに……?」
瑛斗はまだレイシャの姿に気づいていないようだ。
そのレイシャが瑛斗の胸の上を這って、布団の端っこから顔を出す。
「んぅ……」
瑛斗にへばりついたまま、まだ眠そうに目を擦る。
「なんでアンタ、裸なのよッ?!」
「ん、え、裸?」
瑛斗がようやくレイシャの姿に気付いたようだ。
「ああ、またか……」
「またかって、何よ!?」
瑛斗は頭を掻きながら、ひょいとレイシャを抱え起こすと、手近にあった自分のTシャツを頭からスポッと被せて着せた。その手慣れた様子は、一度や二度ではなさそうだ。
Tシャツを着させられたレイシャは、ぽてっと倒れて再び眠りに着いた。
「夜中にちょっと起きた時は、まだ服を着てたんだけどね」
そう言って、ベッドサイドに落ちていたレイシャの寝巻きを拾い上げる。瑛斗もまだ眠そうで頭が働き切っていないようだ。のんびりとした声でのろのろと動く。
瑛斗を叱ってもダメだ。ここはレイシャを問い詰めるべきだろう。
「くぅ……」
「ちょっと、アンタ! 寝るな! どういうことよ、これは?!」
目を瞑って寝息を立て始めるレイシャに、アーデライードが怒鳴る。
「レイシャ……ねるとき、いつも、はだか……くぅ……」
「なんで?!」
「すごく、らく……くぅ……」
それはアーデライードも理解できないことはない。夏場など暑い日は、いつも決まって全裸で寝ている。それは凄く楽であるから、とても好みだ。
とはいえそれは部屋に独りでいる時に限る。特に男子と同室の時になんて、そんなことできるはずもない。レイシャはその辺りをなんと心得ているのか。
「いつもこうなの、アナタは?!」
「くぅ……」
再び寝てしまったのか、瑛斗のお腹にへばりついたレイシャから返事はない。
代わりに瑛斗がアーデライードの質問に答えた。
「いつもじゃないけど、ちょっと暑いとこうなってるみたいだね」
「こうなってるって、どうしてこうなってるのよ?!」
「それは俺にも分からないんだ。いつの間にか気が付くと全裸なんだ」
「なにそれ、技?! 達人レベルの技か何かなの?!」
いつの間にかパンツ穿いてなかったり、全裸だったり。卓越した魔力の他に、レイシャはエクストリーム脱衣の天才児とも言えるのではないだろうか。
「この
「そうは言ってもなぁ……」
「異世界では、男女七歳にして
「へぇ、よくそんな難しい言葉を知ってるなぁ」
瑛斗が感嘆の声を漏らす。けれど問題はそこじゃない。
「でも旅の間も一緒だったから、それは今更な気がする」
そう言われてしまうと身も蓋もない。なにせ、きっかけを作ってしまったのは、他ならぬアーデライードであるのだから。
「ところでアデリィ……」
「なによっ!?」
「まだ朝日が昇って……ない?」
眠そうな目で窓の外を眺める瑛斗から、クリティカルな質問が飛び出した。
「んんっ、あっ、そっ、そうね! でも、もう朝だわ!」
押し切る。多少強引でも、押し切る。
まさか二人の状態が気になって眠れず、夜明け前に押し掛けたとか。
言えない。口が裂けても言えるはずがない。
「何か予定でもあるの?」
「あるわ!」
仁王立ちしてそう答えたっきり。何も予定を口にしないアーデライードを、瑛斗は寝ぼけ眼でぼんやりと待っている。待たれても、そんな予定なんて、何も、ない。
追い詰められたアーデライードは、破れかぶれで適当なことを口走った。
「早く準備しなさいよ! 今日はもう、もの凄い猛特訓だからね!」
そう言い残すと大股で戸口へ向かい、大音を立てて扉を閉めるのだった。
◆
瑛斗たちの準備が整うのを待つ間。
アーデライードは自室へ戻ると、乱暴にベッドへ寝転がる。
そして顔の上に枕を乗せて、天井に向かって叫ぶ。
「莫迦ッ、莫迦ッ! エイトの、莫迦ーッ!!」
叫ぶと言っても、枕で声はかなり抑え気味にしている。
嫉妬の末の悪口なんか、誰にも聞かせるわけにはいかない。
この言葉をこんなに連呼したのは、どれくらい振りだろうか。
ゴトーが聞いたら「汚い言葉を覚えたな」と言われそうだから自重していた。
瑛斗のヤツ、レイシャと何やってるのよ。
二人で、ずっと、一緒のベッドで。
羨ましいとか、別に、そんなの、ちっとも。
抱き合うとかは、ちょっと恥ずかしいから、私はダメ。
だけど、一緒にゴロゴロできたら幸せだろうな、と思う。
柔らかなお日様の光を浴びながら、のんびりするの。
瑛斗の腕枕で、お腹の上には読みかけの本を置いて。
ふと隣を見れば、すぐ傍に瑛斗の横顔があって。
たまにふざけあって、ギュッて、し合ったりするの。
ああもう! だめだめ!
やっぱり私に恋愛小説なんて、書けそうにない。
はぁ……すっかり疲れ果ててしまった。
一晩明かした寝不足が、今になってゆっくりと襲ってくる。
今日はこのまますっぽかして、不貞寝してしまおうかしら。
そう思いながら寝返りと打つと、あるモノと目が合った。
こちらをじっと見つめるそれは、瑛斗から貰ったアデリーペンギンの抱き枕。
「なによ。何こっち見てるのよ」
と、いちゃもんをつけてみたりする。
問いかけたところで、答えが返ってくるはずもない。当たり前か。
黒い瞳でじっとこちらを見つめるそれは、何かを待っているようだ。
抱き枕が待つ用途と言えばひとつ。これを抱いて寝るものだというけれど。
これって何? ぬいぐるみの形をした枕なの? へんなの。
ぬいぐるみを抱いて寝るのは、子供までの話じゃない?
そう瑛斗に訊ねると「でも枕は大人だってするでしょ」との返事。
それとこれとは話が違う気がしたので、抱き枕として使ったことはない。
異世界では、へんなものが流行っているものだ。可愛いけど。
でも、ものは試しだ。のっそりと起き上がり、抱きしめてみることにした。
「こんなの。抱きしめて寝るなんておかふっ、ふぇっ、ふえぇーっ……」
抱き心地が良すぎて、変な声が出た。
なんなの、このフカフカな物体は!
あまりの柔らかさと肌触りの良さに、つい身体の力が抜けた。
腰の力が砕けて、耳までふにゃふにゃとヘタれてしまった。
これは人をダメにする。ハイエルフでもダメになる。
恐ろしいものを生み出すのね、異世界人。
赤提灯といい、なんという文明を持っているのかしら。
彼らの生み出す高度文明には、いちいち驚嘆せざるを得ない。
だが、このアーデライード。
このような辱めになど、屈するわけにはいかぬのだ。
「ええい覚悟しろ。おまえなんて、こうして、こうじゃー!」
両腕両足、全てを抱き枕へ回して、力一杯抱きしめてみる。
「おふぅ、っふぁーっ……」
ノックアウトされたのは、アーデライードの方だった。
初めて体感する抱き心地の良さに、腰砕けにならないわけがなかった。
これは、ヘンな声出る。こればかりはどうしようもない。
いや、むしろ耐えようとするからダメになるのだ。
激流に刃向おうとするから、溺れるのである。
川の流れに任せる様に、抱き枕にこの身を委ねる様にして、
「ふぇ、ふぇぇ、ふっふ、にゃあぁぁー……」
だめ……この子、強いわ。
そう、見かけの可愛さに騙されてはダメ、アデリィ。
この子はまるで、エイトそっくり。
見かけは幼いクセに、芯は強くて人を
そうと気付いたら、段々愛情が……いや、愛着が湧いてきてしまう。
ホントにもう、エイトったら人をこんなに心地よくさせて。
まったく酷い人ね。でも私だって、負けてないんだから!
このこのこの、こうしてやるわ、このーっ……
「このこのこの、こうして、このーっ!」
「あの……アデリィ?」
「あーでり?」
いつの間にか、瑛斗とレイシャが部屋の戸口に立っていた。
「にゃー! にゃー!! にゃああぁぁあぁーっ!!!!」
「エート、あれが、すごい、もうとっくん?」
「いやぁ……違うと思うよ」
だーえるのちびすけは何を口走っているのよ!
ええい、こっちを見るな! 指差すな!!
「いや、ノックは何度もしたんだよ。それに鍵がかかっていなかった」
「ずっと、まってた。なのに、こない」
確か、部屋に戻ってドアを閉め、乱暴にベッドに寝っころがった。
鍵をかけた覚えなんて、これっぽっちもなかった。
アーデライードは何も答えず、スッと優美にベッドの端に座る。
ゆっくりと居住まいを整えると、澄まし顔で答えた。
「なにかしら、エイト」
「無理がないかな」
「ふふ……そうかしら?」
砂金を溶かしたような金色の髪をさらさらと跳ね上げる。
澄まし顔と優雅な態度を徹底して貫き通してみようと試みる。
「でも良かったよ」
「何のことかしら」
「アデリィが抱き枕を気に入ってくれたみたいで」
「あら、貴方。どこからご存じ?」
「激流に刃向おうとするから、溺れるのである」
思ったよりも、かなり前だったぁぁーっ!!
もう、ダメだった。ほんの一滴の気力も残されてはいない。
アーデライードは血の気のすっかり失せた顔で、ゆらりと力なく立ち上がる。
「本日の猛特訓は、中止になりました。各自、自主練です」
「えっ、でも……」
「後生だから、暫く独りにさせて頂戴」
二人を部屋の外へと押し出すと、今度こそ確実に鍵をかける。
そうして、ベッドの上へと受け身も取らずに前のめりに倒れ込む。
うわあああ、恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい!!
なんで寄りによって、寄りによって、寄りによって!!
「莫迦っ……莫迦っ……エイトの、莫迦ぁぁ……っ」
止め処なく溢れる涙で枕を濡らしながら、アーデライードは深い眠りに着いた。
アデリーペンギンの抱き枕は、そんな彼女を黒い瞳で見守っていた。
◆
緑眩しい『悠久の蒼森亭』の昼下がり。
酷い気分で目覚めたアーデライードは、退屈そうに廊下を歩く。
自主練を申し付けた瑛斗は、グラスベルの森の中へトレイルランに出てしまった。
トレイルランとは、
部屋の中でゴロゴロとしつつ本を読むのと、惰眠を貪るのが大好きなインドア派のアーデライードには、よく分からないトレーニングのひとつだ。
毎年幾多の遭難者を出す迷いの森・グラスベル。この森をトレイルランできるのは、グラスベルの歩き方を習得した瑛斗ならではだろう。彼にはこの森の歩き方をイロハから厳しく叩き込んである。それはもう、方角の見極め方から万が一の生存方法まで。
だから油断して精気濃い森の奥へ出向かない限り、まず迷うことはないだろう。
昼食時から外れた食堂は、人影まばらな時間帯。だだっ広いテーブル席の所々で、静かに談笑する旅人が数組見受けられる限りだ。
そんな昼下がり、バーカウンターの隅っこを見ると、目立たぬ場所にレイシャがいた。
瑛斗に貰ったキャンパスノートに、同じく貰ったボールペンで、何やら一生懸命綴っているようだ。悪戯描きでもしているのだろうか。何を描いているのか分からないが、子供がやることにいちいち興味も抱かない。
話しかけるのをやや躊躇ったが、退屈と今の気分のままよりはマシだ。
レイシャから一つ隣の席を空け、アーデライードもカウンター席に腰かけた。テーブルに背を向けて肘を乗せると、もたれ掛って斜め上を向く。
「エイトはね……」
不満を口にしそうになって、アーデライードは思い留まる。ほんの些細な色恋沙汰なんて、幼い子供に話しても仕方のないことだ。
「私たちに興味なんてないの」
アーデライードの問いかけに、レイシャは顔を上げることすらなくノートと向き合うことに夢中になっている。相変わらずの無反応に無表情。やはりこのダークエルフに話かけることなんて、意味のないことなんだろう。
とはいえ、声に出してはみたものの、本当にそうなのか考え直してみる。
「……ちょっと違うわね」
やはり違う。瑛斗が私たちに興味ないなんてことはない。色々と気遣ってくれているのは、普段から十分に実感できている。だからより強い興味が別の所にあると考えるべきだ。
「何よりも今は、冒険の事で頭が一杯なのよ」
少し言い換えてみた。これだとしっくりとくる。声に出して考えてみると「要するにこういう事なんだ」と、改めて認識できることがあるものだ。
ここで、アーデライードはぎょっとした。
熱心にノートへ向かっていたはずのレイシャが、大きな瞳を見開いて、いつの間にかこちらへじっと視線を投げかけていたからだ。そうして、
「わかる」
と、それだけを口にすると、再びノートへと向き直った。
なんだ。この
耳にした話を全てきちんと理解しているとするならば、接し方も少し違う。では今までの、アーデライードの発言をどう捉えていたのだろう。自分の都合を一方的に押し付けてはいなかったか。ついた嘘を見抜かれてはいなかったか。
それらを仮想すると、アーデライードには
そうそう。子供の頃、こういう大人とは口も利きたくないと思ってたものよね。
実行する勇気なんて無くてとても適わなかったが、無意識でも実際にこなしているレイシャには、思わず苦笑して恐れ入るしかない。
そうと分かると、この少女に俄然興味が湧いてくる。レイシャの綴っているノートの内容が段々気になってきた。遠目からそろっと覗き込んでみる。
びっしりと書かれたそれは、
恐らく瑛斗が、昨日の内にレイシャへ渡していたのだろう。そうしてきっと瑛斗の自主練に倣って、自分も自主練に励んでいたに違いない。
では何故それ程までに、レイシャは頑張っているのか。アーデライードには、その気持ちが痛い程よく分かった。
それは冒険に夢中な瑛斗の力になるため。必死にもがいているのだと。
もしも同じ立場なら、アーデライードも同様に努力をしたに違いなかった。
身の丈もある大剣を振り回し、常に前線へ立ち向かう瑛斗。
大賢者と称される、誉れ高き
その間にぽつんと挟まれていたならば、ずっと庇護を受ける立場にはいたくない、と幼い自分も考えたことだろう。
そこでアーデライードは、自らの幼き日々を思い出す。
一日中――それこそ深夜まで、小さなランプの灯りを頼りに、日本語その他、多岐に渡るあらゆる言語を必死になって修めようとしていたことを。
それだって、あの人と会話をしたいばかりではない。認められたい、役に立ちたいと思って始めたことだったじゃないか。
「そこ、構文が間違っているわよ」
アーデライードがレイシャのノートを指差してある一文を指摘した。
「そこは『エルテス・ディール』ではなく『エスト』。読み替えて御覧なさいな。あとの文章がスッキリと読めるはずよ」
レイシャは書く手をピタリと止めて、こちらを向いて小さく目を見開いた。無表情ながら「これは驚いているのだ」と、アーデライードにも読み取ることができる。
「
形の良い顎に指を当て、内容の一つ一つを精査する。
所々に稚拙さは残るが、基本的に押さえるべき要所はしっかりと掴んでいるようだ。レイシャは優秀な記憶力の持ち主であったが、まさかここまでとは。十に満たぬ歳で習得するには、十分過ぎるレベルであろう。
ここまでノートを読みとって、レイシャへと目をやると、無表情ながら大きな瞳でアーデライードを見返していた。
ふむ……この反応なら如何な自分とてよく分かる。何故だ、という顔だ。
「なによ。私は言語学者よ。古今東西あらゆる言語の
そう言って組んだ足を解き、真っ直ぐにレイシャへ向き直る。
「聞きたいことがあればお聞きなさい。私に食らいつきたいなら猶更ね」
レイシャがこくりと頷いた。初めてアーデライードへ反応を見せたのだ。
やっと
これでアーデライードは、興味の対象となれたのだろうか?
全面的に勝ち得たとは思えない。言語に関してだけかも知れない。
それでも、だ。大きな一歩だと感じた瞬間だった。
顔を上げると、アレックスが目でエントランスを見ろと合図している。
そちらへ目をやると、首にタオルをかけた瑛斗がこちらを見ていた。
トレイルランから帰ってきたばかりなのだろう。額から汗が滴っている。
瑛斗の口が開く。声には出していないが、口の形ですぐにわかった。
「あ、り、が、と、が、ん、ば、れ」
そうして瑛斗は、廊下の向こう側へと姿を消した。
二人の邪魔をせぬよう、気遣ったのだろう。
アーデライードの胸の中は、じんわりと暖かくなった。
せっかちな自分の早とちりかも知れないけれど――
そうだった。仲間とはこうして絆を深めあっていくものなんだ。
そして、遥か昔に古き友らと結んだ絆を、懐かしく思い出すのであった。
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