第44話 ハイエルフと挑むエキドナの旅(後編)

 いまだ喧騒と剣戟の音響く、エーデルシュタイン公国はエキドナ別邸。

 謁見室を脱出した公国姫・イリスとその従者騎士・エレオノーラは、クレーマン子爵の追っ手を逃れ、イリスの寝室まで撤退を果たしていた。

 外部への扉を固く閉ざした三階寝室内には、いざとなれば隠し扉からの抜け道がある。そこから坑道を抜ければ、邸外へと脱出できるはずだ。エレオノーラはそう考えて、イリス姫をここまでお連れしたのだ。

 万が一ここまで敵に攻め込まれたとしても、我が身を盾として、なんとしても姫のお命だけはお守りせねばならぬ。エレオノーラは改めて胸に誓う。

 寝室へ着いてよりイリスは身動ぎ一つすることなく深く椅子へと腰掛けて、いつもと変わらぬ心静かな様子でそこにあった。

 しかし表情は普段よりも深い愁いを帯びている――エレオノーラはそう感じていた。

 此度の出来事に、心優しき姫は如何ほどにお心を砕いておられるだろうか。そう案じていると、イリスは静かな口調でエレオノーラに問い掛けた。


「勇者様は今、どちらにいらっしゃるのでしょう?」

「今は恐らく、一階の談話用控室に……閉じ込められているはずです」

「どうして?」

「私は……あのやから……いえ、あの少年を信じきれなかった」


 それは自らの失態であると、エレオノーラは激しく悔やんでいた。

 嘘を見抜く程に鑑識眼の確かな姫のおっしゃる通り、彼は真に勇者であったのではないか。そう信じられる根拠が、今はエレオノーラの心の内にある。


「実は、あの少年よりこの手紙を」


 そう言ってエレオノーラが差し出すは、粗雑に折り畳んだ小さな紙だった。

 瑛斗に挑発され激昂したエレオノーラがサーベルを抜こうとした時のことだ。サーベルの柄をかの少年に抑えられた際、エレオノーラの掌の中へこっそりと渡されていた物があった。それがこの手紙である。

 細い罫線の入ったこの紙も、異世界では見たことがない上質なもの――これは事前にレイシャに渡したキャンパスノートの一部を拝借して書かれた物だ。


「それには何と書かれているのですか?」

「はっ、恐れながら『全てを敵と疑い、イリス姫の傍より決して離れるな』と」

「勇者様が、それを……」

「はい……かの少年の助言がなければ、どうなっていたことか」


 故に誰よりも素早く反応し、戦端を先んじることができたのである。

 エレオノーラは悔しそうに口唇を噛む。瑛斗の挑発もこの手紙をエレオノーラへ手渡すための深慮であった。そう振り返れば自らは、なんと浅はかであったことか。思い返すに自らの短気と浅慮を恥じた。

 そんなエレオノーラの心情を、目の見えぬイリスは深く察していた。


「でも、結果として私の命を守ったのは貴女よ、エレオノーラ」

「しかし……」

「私の傍に貴女がいて、本当に幸せに感じます」


 そう言って、イリスはエレオノーラに微笑み掛けた。

 此度の件に於いて、夜分にエキドナ別邸を訪れたクレーマン子爵の罪状と謀略を暴き、邸内に不逞の輩が潜むを知らせたは、全て瑛斗ら騎士たちの功勲である。

 だが一方で、エレオノーラの働きがなければ姫を守れなかったのも事実。これこそ作戦会議中に四人の騎士らが声を揃え、エレオノーラを指して「最終局面で最も重要な鍵となる人物キーパーソン」と評した理由である。

 エレオノーラは我が姫イリスの気遣いに感じ入り、胸を熱くした。


「ははっ……ありがたき幸せに存じます、我が姫」


 しかし未だ危難は去ったわけではない。この難局を切り抜けるまでは油断できぬ。エレオノーラはますます以て気持ちを引き締める。


「寒い……」


 それまで静かな微笑みを湛えていたイリスの表情が急に曇った。

 自らの身体を抱える様にすると、イリスはその身を震わせた。季節は春といえ、高地の夜は冷える。火急の事変に暖を入れておらず、広い寝室内は夜気が漂っていた。

 それにこの切迫した事態である。イリスには極度の緊張が伴っているはずだ。そんな心境を億尾にも見せなかったイリスだが、喧騒の邸内で今も命を狙われるその小さき身体には、如何ほどの重圧が伸し掛かっているのだろうか。

 心情を察しきれなかったエレオノーラは、気の回らぬ武骨な我が身を恨む他ない。


「も、申し訳ございません。只今、何か羽織るものを……」

「ならば、あちらの着物をお願い」


 慌てるエレオノーラに、イリスはベッドサイドの衣文掛けを指差した。

 その指す先には、瑛斗より『運命の森』の泉にて借り受けたジャケットが丁寧に掛けてあった。瑛斗より借り受けて以来ずっと、姫が大切に扱ってきたものである。

 エレオノーラは、瑛斗のジャケットをそっと姫の両肩に掛けた。


「温かい……」


 イリス姫は、儚げな微笑みを浮かべ、呟いた。

 その様子を見たエレオノーラは、かの少年への信頼の度を知った。数少ない信じられる者の中で、かの少年は姫にとって一筋の光明ではなかったか。

 そう振り返れば振り返るほど、あの少年の勇気ある行動を信じきれず、周囲への疑念が深くなり過ぎていた自らの行為を後悔した。

 じっと押し黙ってしまったエレオノーラにその気配を感じ取ったか。イリスはゆっくりと口を開き、自らの心情を切々と語り始めた。


「実はね……貴女を近侍として警護の騎士に任命したことには、後悔があるの」

「申し訳ありません。若輩の我が身は力不足でありますが、精一杯務め――」

「違うわ」


 非才を詫びるエレオノーラの声をイリスは頑として遮った。


「私はね、エレオノーラ……」


 そうして上げた顔を背ける様に、哀しげに俯く。


「これから起こる事を考えると、貴女を巻き込むことが不安で仕方がない」

「そんな……勿体ないお言葉です。この命に代えましても、我が姫は私が」

「命に代えるだなんて、そんなことは言わないで、エレオノーラ」


 イリスは悲しげに首を振る。

 昔から――幼き頃から心優しい姫であったことを、エレオノーラは思い出す。


「これから巻き起こるであろう様々な事変は、きっと貴女を危険に晒してしまう……だからこそ私は、貴女を従者騎士として傍に置くことを拒んでいたの」

「しかし姫は、私をお選び下さいました。それを私は……!」

「ううん……これは黙って置くように言われていたのだけれど……」


 危機迫る有事の中、心に留め置けぬイリスは重たそうに口を開いた。


「次の傍仕えには貴女を、と――これはエルヴィーラが私に言い残したこと」

「私を……姉が……!?」


 エルヴィーラ――彼女は政務秘書官であり、エレオノーラの姉――そしてイリスが最も信頼し、共に莫逆の友と信じる仲である。

 利発で優秀な彼女はいつだって時流を読み、遥か先を見つめている。イリスはそんなエルヴィーラの進言を信じ、周囲の大臣たちの反対を押し切ってまで、若いエレオノーラを近侍に据えた。だがそれらは全て、これから起こる波乱をエルヴィーラが見越してのことではないか。今日の様な有事を予見してエレオノーラを近侍に推薦したのではないか。確かな剣の腕前を持ち、信義に篤く、最も信頼のおける我が妹を――今までずっとそう胸騒ぎがしてならなかった。

 もしもそうであるならば、この真面目で心優しいエレオノーラを危険な目に合わせはしないだろうか。イリスはそう感じる度に、胸をぎゅっと締め付けられる思いであった。

 だがその反面、エレオノーラは自分の気持ちの奥底まで含めた何もかもをも、姉であるエルヴィーラに見透かされているようで嫌な気持ちになるだろう。

 だからこそこれは、イリスの胸の内に仕舞っておく様にと、エルヴィーラから固く口止めされていたことだ。


「今は姉の……反逆者の話は止めて下さい」


 エレオノーラは沈痛な面持ちで、姉を反逆者と呼んだ。

 公国内に於いて我が姉であるエルヴィーラは、国の機密書類を持ち出して逃げた、とされている。いまだ真偽の程は解明されず。彼女の無実を晴らそうと、アードナーを始めとした同期の騎士たちが躍起になって行方を探し回っているが、行方は依然として知れぬ。

 騎士として体裁と面目を鉄のように誇るエレオノーラは、ようとして明らかにならない真実を前にして、エルヴィーラを姉と呼ぶことを頑なに拒んで、反逆者と呼んだのだ。

 反逆者――この言葉は、莫逆の友と信じるイリスにとっても、尊敬する姉と信じていたエレオノーラにとっても、互いに辛く胸に刺さる。


「今は、それでいいわ」


 イリスはそんなエレオノーラを諌めることはなく、優しく問いかけた。


「私のかけがえのない友……そして貴女の姉、エルヴィーラ。彼女はきっと生きていて、私たちに真実を打ち明けてくれるはずよ」


 その時、廊下側のドア前より、騒がしき数人の足音が二人の耳に届いた。

 カチャリ………ドアの鍵を開ける音が響く。エキドナ別邸にあるイリス寝室の入り口は三つ。そしてその鍵の全ては、エレオノーラしか持っていないはずだ。

 だが無情にも、その扉はゆっくりと開かれてゆく。まさかの事態にエレオノーラは、すぐさまサーベルの柄に手をかけて、我が姫イリスを護る様に身構える。


「ひはははっ、みつけたぞぉ、我が姫ぇぇッ!!」


 開かれた扉よりそう奇声を上げて現れたは小太りの男――クレーマン子爵である。

 彼は所領より連れてきた護衛の騎士二人に守られつつ、邸内を我が物顔で闊歩して、遂にはイリス寝室まで辿り着いてしまったのだ。

 無礼な態度と下品な嗤い声に激昂して、エレオノーラが叫ぶ。


「貴様ァッ! ここを何処であるか知っての狼藉であろうな!!」

「もちろん知っているとも……吾輩がこれほど用意周到に準備するまで、いったいどれ程の時間を掛けていると思っているのかね……んん?」


 よもやこれほどまでクレーマン子爵一派の手が邸内に配されていようとは。恐らく合鍵も公国内部の上層部へと手を回して用意した物に違いない。

 公国直轄領であるエキドナ別邸の管理と運営は主に、王弟府ヴェルヴェドの宮廷管理を司る省庁の管轄である。その管轄内に広く影響力を持ち、公国の内務を取り仕切る上級貴族とクレーマン子爵を繋ぐラインを紐解けば、此度の黒幕が知れる可能性は高い。

 だがその為にも、まずはこの危機を切り抜ける必要があろう。


「自害して世の悪政を謝罪為されよ、我が姫よ!」

「生きてその筋書きを覆し、必ずや貴様らを弾劾してやるぞ、クレーマン!!」


 舌鋒鋭く叫び返したエレオノーラは、勇ましくサーベルを抜き放つと、襲い掛かる敵騎士に応戦を開始した。意気軒昂なエレオノーラの斬撃は、一瞬足りとも隙を逃さず。

 イリスを護りつつ二人の騎士を相手にする不利な状況ながら、巧みな剣裁きと鋭い突き技で二人の敵を自分へと釘付けにする。

 しかしそう長い時間は持つまい。敵を短時間で仕留めるか、さもなくばその間に隠し扉より姫を逃がし果せるか。いずれにせよどこかでその決断せねばならない。


「ハハハッ、いいぞぉ、いけぇ! やってしまえっ!」


 クレーマンがまるで闘技場でも楽しむ観客のような熱狂の声を上げる。

 目の前で起こる命のやり取りを、他人事のように傍観者然とする。実戦を知らぬにも程がある。この男の指揮官としての資質と素養が知れようというものだ。

 だが敵の騎士らの実力は、その上司の無能とは関係がない。実践経験の差に不利を悟ったエレオノーラが隠し扉への脱出を決めかけた時、もう一つの声が響き渡った。


「化けの皮と共に貴様の粗野が転げ出ているようだな!」


 そう叫んで飛び込むは、アードナーとエアハルトだ。

 くすんだ赤髪を暴れ馬の如く棚引かせたアードナーは、暴風の如き剣で捩じ伏せる。一方のエアハルトは、静けき深い森を吹き抜けるかの如き流麗な剣裁きで追い詰める。

 そうして二人は瞬く間に敵騎士を圧倒すると、身動きできぬ程に昏倒させた。


「やれやれ、敵とはいえ同情するぜ……」

「いや、仰ぐ主君を間違えた者に同情の余地などないよ」

「ま、それもそうだな」


 無駄口を叩いた二人の騎士は、同時にクレーマンを睨め付けた。

 勇猛な騎士らを前にして、震え声のクレーマンが呻いた。


「ま、まさか貴様ら、四人の騎士と『黒豹ゲイラー』を倒したのか……?」

「ハッ! 当然だ、あんな雑魚。今頃謁見室でお寝んねしてるぜ!」

「黒豹……? あれは『黒猫』の間違いではないのかね」


 そう言って余裕を見せる二人だが、実際は体力的にかなり厳しい。何しろ倍に値する兵士と、上級騎士アーク・ナイトを敵に回して大立ち回りを演じたのだ。

 だがそれこそが実戦上の駆け引きである。事実、その言葉に踊らされたクレーマンは、追い詰められた表情で負け惜しみと罵詈雑言を散々並べ立てた。


「くそぉくそぉ! 吾輩は本国の系譜を継ぐ貴族ぞ、この下級騎士どもが!」

「言いたいことはそれだけか、とっちゃん坊や」

「元より今宵、あのつまらん噂についての抗弁が通らねば、吾輩の実力を以てして亡き者にするつもりだったんだ……だから遅かれ早かれ死ぬ運命なんだぞ、我が姫よ!」

「何が実力だ! 貴様一人では何一つ為せぬくせに!」

「ひぃっ……ひひっ……吾輩に何の策もなく、ここへ乗り込んだと思うか?」


 その時、じっと静かに耳を澄ませていたイリスが叫んだ。


「エレオノーラ! 暖炉より左へ七歩の位置に大量の足音です!」

「! イリス姫ッ、我が背中へ……!!」


 暖炉より七歩の位置――そここそが隠し扉のある場所である。

 その隠し扉を突き破り現れるは、かの傭兵の面々。その数は六名。この傭兵たちは獣人族の村襲撃事件の際に、敵側に同行していた者たちであった。


「おおお、遅いぞ、お前たちッ!! いったい何をしていた?!」

「チィッ……バラしちまいやがって、無能貴族が……」

「なぁっ、何だと貴様ら!!」

「ああ、なんでもねぇよ。後はオレたちの仕事だ」

「クソッ……貴様ら、後で覚えているがいい……ッ!!」

「……へっ、てめぇに後なんざあんのかねぇ?」

「なんだとッ?!」


 貴族と傭兵らは完全に反りが合わないのか。恐慌に陥っていたせいか口汚く悪態をつくクレーマンに、傭兵たちはイライラと面倒臭そうに応酬する。

 そんな中、エレオノーラはあまりの悔しさにキリキリと歯噛みしていた。


「こうまで用意周到に……!」


 最悪の事態を想定して造られていた隠し扉からの抜け道を、内通者らに探り出されて逆に利用されてしまうとは。予め準備されていた邸内の鍵といい、当初から綿密に計画されていたであろう子爵一派の行動は、抜け目なく用意周到であった。恐らく今夜のアードナーらの乱入こそが、唯一の誤算と言ってよい状況だったのだろう。

 今までエレオノーラは騎士学校の主席として輝かしい経歴を残してきたが、今日ほど自らの無力さや配慮の足りなさに打ちのめされた夜はない。


「なるほどな……ここへ出るのか」


 六人の傭兵らに続き、最後にのっそりと現れた大柄の男がいた。

 両手大剣グレートソード蟀谷こめかみの傷――堕獄の騎士・ランドルフである。


「よぅし、いいぞランドルフ! さっさと我が姫を殺ってしまえ!」

「ああ……アンタはその隙にそっから逃げるんだな」

「ハハハハッ! そうさせてもらうぞ!」


 クレーマンは傭兵たちに守られる形で隠し扉を潜り、坑道の奥へとその姿を消していった。戦況を最後まで見届けることなくさっさと逃げ出したのである。


「仕事だ、ランドルフ」

「ああ、任せておけ」


 その声を合図としたか。傭兵団の六名は得物を手に手に次々と、アードナーとエアハルトへ群がるように襲い掛かった。

 騎士とは違い傭兵たちは、絶対に一対一では勝負を仕掛けない。


「無粋な真似はイケねぇなぁ、ギャハハ!」

「グッ……おのれ、傭兵ども……ッ!!」

「ここは任せたぜぇ、ランドルフ!!」

「くそっ! 頼む、エレオノーラ……ッ!」


 二人の騎士は、傭兵団と乱戦状態に追い込まれた。

 アードナーら二人は、雪崩式に六名の傭兵を相手しつつ、寝室の外へ押し返される形となった。内側から開かれた扉の向こうは、廊下とテラスがひと繋がりとなった広い空間がある。そこは集団戦に向いた場所と言える。

 二人が消えて行った扉は、無情にも音を立ててゆっくりと閉じた。

 そのドアと廊下側、ふたつの開いたドアの鍵を、ランドルフは内側から掛けてゆく。これでそう易々と乱入する者はいない。室内に残された戦士はふたり、エレオノーラとランドルフ。小柄な従者騎士は大男の傭兵と、一対一に相対する状況となった。

 エレオノーラはこれまでにランドルフと剣を交えたことはない。だがその凶暴なまでの腕前とその噂は、当然の様に彼女の耳にも届いている。

 絶望的ともいえる状況に、エレオノーラは死を覚悟した。

 だが決して諦めるわけにはいかない。その背中には、敬愛する心優しき我が姫の命がかかっているのだ。今までずっと「我が命に代えても」と、答え続けてきた自分の言葉に嘘偽りは、無い。

 圧倒的な実力差を前にして、エレオノーラは怯まずに剣を構え立ちはだかった。


「私はイリス様の従者騎士だ……命を懸けてでも、我が姫は必ずや護リ通す!」

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