第42話 ハイエルフと挑むエキドナの旅(前編)

 エーデルシュタイン公国直轄領・エキドナ地方。

 エディンダム王国への玄関口として、主に海運業で栄える地方である。

 海運業といえど、この地に海はない。代わりに公国の南北を横断する広大な河川、旧北方大陸語でいう「エドゥ川」下流を擁し、公国北方の山岳地帯より流れ出る豊富な水源を利した運河網による、運搬船を使った貿易をおこなっている。

 その貿易範囲は大陸の盟主・エディンダム王国は元より、南方国家群、北方帝国及び北方諸島群、果ては未開なる東の大陸にまで及ぶという。


 そんなエキドナ地方は「運命の森」の程近く。高地に位置する山間に、エーデルシュタイン王家の所有する別荘地、エキドナ別邸は存在する。

 公国の主・エルマー王の一人娘であるイリス姫は、現在この別荘地に静養と称して滞在を余儀なくされ、ほぼ軟禁状態で過ごしているという。だがその事実を知る一般の公国民は誰一人としていない。

 イリス姫はこの別荘地にて大変優雅な生活を送っている――公国民の大半にはそう伝えられており、貧困に窮する平民の一部から反感を買うに至る。

 これら真実を知る者は、極少数の上級貴族のみであった。


 夕刻。そろそろ日も西の地平線へと沈もうという頃のこと。

 イリスはエキドナ別邸にある自室にて、従者騎士のエレオノーラと共に寛いでいた時だ。手に取ったティーカップを口にすることなく受け皿ソーサーへ置いてこう言った。


「何やら、お屋敷の中が騒がしいようだけれど」

「は、左様でございましょうか? 自分はまるで気付きませなんだが……」


 そうして暫くすると、扉をノックする音が響いた。

 入室を許可すると、姿を現したのは初老の男。日用品を中心とした商家との取り引きを主な職務としているマッテス執事である。


「イリス様、クレーマン子爵御一行が御出でになられました」

「クレーマン子爵……ですか?」


 イリス姫が問うと、従者として側仕えるエレオノーラが首を傾げる。


「いや、本日の公務にそのような予定は入っていないが?」

「何しろ火急の要件とのこと……邸内は謁見室にお招きしております」

「なんだと? 貴様、何を勝手な事をしている!」


 エレオノーラはこの老執事を叱責した。主人の許可なく執事如きの判断で、屋敷の邸内内へ突然の客人を勝手に引き入れるなど通常はあり得ない。

 しかもクレーマンの爵位等級は子爵である。王家に名を連ねる身分であるイリスに、たかが一地方の長であるクレーマンが、主人の許可もなく易々と謁見出来るほど高い身分ではない。エレオノーラが憤慨するも理屈である。


「お待ちなさい、エレオノーラ。まずはお話を聞きましょう」

「……はっ、姫のご命令とあらば」


 物腰柔らかく温和しやかなイリスは、憤るエレオノーラをやんわりと嗜めると、準備があるため面会まで暫し待たれる様にと申し伝え、老執事を退室させた。

 老執事が恭しく出て行くのを見届けると、エレオノーラは静かに窓辺へと立つ。そうして広い庭園の木々の間に間を、目を細めて注意深く観察した。

 やはりいた――警護の兵に紛れて、見たことのない騎士の姿が。

 小心者のクレーマン子爵は、いつでも数多くの兵を引き連れ、自らの威容を示すかのように街中を闊歩する。エレオノーラはこの手の手合いがどうにも好きになれぬ。

 しかも昨夜の事件の噂は、心ある仲間の騎士を通じてエレオノーラの耳にも届いている。火急の用件とは、恐らくその噂についての申し開きであろうと想像に難くない。

 此度こたびの会談は面倒なことになりそうだ、とエレオノーラは気を引き締めた。


 エキドナ別邸の謁見室は、少々特殊な造りとなっている。

 室内に置かれた重厚な造りの長テーブルの先、イリスの御座す席との間には、白い紗のカーテンが引かれていた。これは目の見えぬイリスの姿を、面会者の目に直接触れぬよう為された工夫であった。異世界にはない装飾だが、女性であり高貴な身分であるが故、と目が見えぬ真実を知らぬ諸侯には説明を付けている。


「……遅いな」


 そんな謁見室で独り呟くは、クレーマン子爵である。

 瑛斗らに此度の事件の首謀者と目される彼は、小太りの腹を落ち着きなく揺らして待っていた。その醜い緩んだ腹を揺らすは、貧乏揺すりのせいである。

 青年とも中年ともつかぬその容姿は、不摂生の賜物であろうか。まだ若いと言ってよい年齢に関わらず、皮膚からは張りと艶が失われ、土気色に顔色が悪い。そうして脂汗を垂らしながら、イリスの登場を今か今かと待ち侘びていた。

 彼が焦れたように、再び「遅い遅い」と呟いたその時である。

 落ち着いた深紅色を基調とした謁見室は、白き紗のカーテンの向こう側。その壁に別に備え付けられていた、重厚なドアがゆっくりと開かれた。


 その扉より姿を現すは、純真可憐が瓊姿けいしのイリス姫である。

 青色基調の瀟洒なドレスに身を包み、濡羽色の長い髪をなびかせて進み出た。

 そのすぐ後ろには、同様に青色基調の甲冑姿をしたエレオノーラが付き従う。


 その姿を見たクレーマン子爵が思わず「おおっ!」と感嘆の声を上げた。

 だが声を上げたは子爵だけではない。彼を始めとした側近の護衛騎士たちまでもである。当然その感嘆は、イリス姫の見目麗しき容姿からであった。

 当のイリスが御座すは、遠き向こうの紗のカーテン越し。しかも目元に青色のヴェールを身に着けているにも関わらず。如何に彼女を包み隠そうと、流麗にして気品溢れる彼女の一挙手一投足に至るまで、イリスの美は輝きを失うことはなし。その場に会した一同は、瞬時に両の目を奪われてしまったのである。

 イリスが身の熟ししなやかに、優美な仕草で自分の座席へ腰掛けると、


「おお、我が姫よ、なんと美しき哉! お会いできて恐悦至極に存じますぞ!」


 透かさずクレーマン子爵が大仰に叫んだ。挨拶もそこそこに、土気色の皮膚を紅潮させて次々と紡ぎ出されるは、歯が浮く様な美辞麗句の数々。

 この男、自らの目的を忘却したか。このままでは埒が明きそうにない。


「クレーマン子爵殿、我が姫は忙しきお方。早急にご用件を」


 鬱陶しい世辞に嫌気したエレオノーラが、顔に出さぬよう注意しつつ用件を促す。

 するとクレーマン子爵は、果たして獣人族の村襲撃事件の噂に関して釈明を並べ始めた。それはエレオノーラが事前に予想した通りであったが、切り出し口からその内容に至るまで、お世辞にも上手いと言えたものではない。焼き付刃の言い逃れである。

 エレオノーラがいい加減うんざりとし始めた頃、ちらりと横目で我が姫の様子を窺ってみた。そこには表情一つ変えず、穏やかに頷きながら聞き入るイリスの姿があった。

 眼の見えぬイリスは、相手の声を聞くだけで容易く嘘を見抜く。それ故に当然、子爵の嘘には気付いているはずである。それでも表情一つ変えぬとは。

 改めて恐れ入ったエレオノーラは、表情を引き締め直して再び前を向いた。



 しかし――黒幕と目されたクレーマン子爵が、これほど稚拙であったとは。アーデライードがこの様子を見れば「愚者な小者ね」と一笑に付すに間違いない。

 瑛斗がそう思いつつ横を向けば、瀟洒で傲慢なハイエルフは仁王立ちして、エキドナ別邸の三階へ侮蔑の眼差しを流し込みながら、実際に鼻を鳴らして一笑に付していた。


「あー、やだやだ、ああいう輩。愚者な小物は、本当に虫唾が走るわね!」



 クレーマン子爵の一派が屋敷を訪れる、小一時間ほど前の事である。

 この後、エキドナ別邸周辺を取り囲むであろう子爵一派に対して、アーデライードはレイシャを伴って、周囲の森の状況から予想される布陣を子細に調べ上げていた。

 アーデライードは精霊使いシャーマンにして優秀な地図製作者マッパーである。

 森の中のエルフに対して子爵一派の騎士たちは、彼女たちの存在にまるで気付くことなく、ただただ情報を提供し続けることとなった。

 アーデライードの精霊語魔法サイレントスピリット「ウィンドボイス」により、矢継ぎ早に「銀の皿騎士団」へ指示が飛ぶ。布陣を終えた一行にアーデライードらが合流する頃、瑛斗たちはすっかり準備を終えていた。

 準備を済ませた今は、突入のタイミングを計るため、レイシャの古代語魔法ハイエンシェント「ウィザーズ・イヤー」を使って、邸内の様子を窺っていたところだ。

 ぼんやりと佇んでいたクレーマン子爵を見つけたレイシャが、彼の右肩にこっそりと仕掛けておいたものである。魔法抵抗力マジックレジストを大して持たぬクレーマン子爵は、気付くこともなくあっさりと魔術にかかった。魂を持たぬ物品に仕掛けるほど簡単過ぎたせいか、レイシャは何度も首を傾げながら「ちょろい」と呟いていた。


 だが、本番はこれからである。


 クレーマン子爵らは、何も赦しも咎めもなくすんなりと邸内へ手引きされるのを見届けている。つまり邸内の警護兵の中に、味方はいないと考えた方がよい。

 瑛斗はアードナーとエアハルトの三人でパーティを組むと、ドラッセルは残りの「銀の皿騎士団」たちを纏める騎士隊長チームリーダーとなった。またソフィアは別の作戦を遂行するため、この場にはいない。

 一筋縄ではいかない作戦と状況が、この先に待ち構えている。


「さってと……そろそろね、エイト」

「うん」


 アーデライードは風を纏って颯爽と立ち上がる。


「エイト、油断は?」

「ない」

「教えたことは?」

「覚えている」

「ならいいわ。それじゃ行ってらっしゃい!」


 アーデライードのいつもの声を背中に受けて、瑛斗たちは歩き出した。

 そんな瑛斗の背中へと、アードナーの力強い声が掛る。


「よし、作戦開始だ。そうだな「エキドナの庭作戦」ってのはどうだ?」


 カッコいい命名付けの大好きなアードナーが、作戦名を勝手に名付けた。

 そうしてニヤリと口角を上げる赤毛の騎士に、エアハルトが苦笑いを浮かべる。だが一世一代の大勝負を前にして、真面目なエアハルトにしては珍しく否定をしなかった。

 王姫の御座すエキドナ別邸の門扉へ向かって歩きながら、無駄口を叩くのも悪くない。

 瑛斗が「いいんじゃない」と言ったから「エキドナの庭作戦」の開始である。


「ところでどうするつもりなんだ、エイト?」

「どうもこうもないさ」


 先頭を歩く瑛斗は歩みを一切止めることなく、ズカズカと正門の真正面へと進み出た。


「お、おい、エイト!?」


 慌てるエアハルトの声が届かぬように、瑛斗は一際目立つ巨漢騎士の前へ立つ。

 背の小さな瑛斗が飲み込まれんばかりの巨躯――その男が手にするは、愛用の槍斧ハルバート。彼こそがクレーマン子爵の従弟であり、公国きっての武辺者。

 豪槍の使い手、エゴン・クレーマン上級騎士アーク・ナイトであった。


「フン、またぞろ凝りず陳情に来たか……下級騎士共が!」


 エゴン・クレーマンを筆頭とした警護の騎士が、瑛斗たちの行く手を阻む。

 ちなみに公国内に下級騎士などという正式名称はない。面と向かってこのような対応では、気の短いアードナーが怒り狂ってしまうのもよく分かる。

 だが今回は事情が違う。今日のこの時、この場には瑛斗がいた。


「我が道をけよ、公国の騎士たちよ!」


 肺腑の底より猛然と息を吐きだして、瑛斗が叫んだ。

 周囲を圧倒するかのような、凛とよく響く毅然とした声である。


「俺は『イリスの瞳』だ! この意味が分からぬ雑兵は、引っ込んでいろッ!!」


 この言葉に、エゴン・クレーマンは怯んだ。

 なにせイリス姫の瞳に関するくだんの噂は、例え流言飛語と耳にしていたとしても、公国最高の機密事項にして、無暗に洩らせば首が飛ぶとも謂われている。


「なっ……なんだ、と、おぉおッ!?」


 その刹那、計ったかのように、一陣の風がひゅるりと警護騎士らの間を吹き抜けた。

 するとエゴン・クレーマンは元より、警護騎士らの身体を風がふわりと持ち上げて、あれよという間に、彼らを二手に押しのけてしまった。


 これはアーデライードの、風の精霊語魔法の仕業である。

 精霊語魔法サイレントスピリット「コントロール・エア」は、一定範囲内の空気の流れを自在にコントロールして、その範囲内にある全ての物質に影響を与えることができる。


 この仕掛けを知らぬ者は、まるで彼らが自ら進んで道を譲ったように見えた筈だ。事実、傍から見ていたアードナーとエアハルトには、そうとしか見えなかった。


「よし皆の者、警護ご苦労!」


 清々しい程よく通る声で瑛斗は叫ぶと、颯爽と騎士たちの間を抜けてゆく。

 暫し呆然と鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたエゴン・クレーマンが、ハッとした様子で慌てて周囲の騎士へ向けて怒鳴る。


「なっ、何をしている警護兵ども! 誰が奴らに道を譲れと言ったか!?」


 だが誰よりもいち早く最初に道を譲ったのはエゴン隊長である――と、部下の目には映っている。戸惑う彼らに理不尽な指示を飛ばそうと、もう遅い。

 瑛斗を先頭としてアードナーとエアハルトは、問答無用でエキドナの庭を走る。


「どうだ、アードナー! 少しは溜飲が下がったかい?」

「ああ、爽快だ! 何の魔法を使いやがった、エイト!」

「それは後で教えるよ!」


 その頃、謁見室では耳の良いイリスが、瑛斗の声をしっかりと聞きつけていた。

 イリスまで声が届けば事態はより一層好転すると、わざと図って大声を出してはいたが、こうなればますます無事に瑛斗の思うがままである。


「おや……外で何事かあったようですよ、エレオノーラ」


 イリスはエレオノーラに向け、やんわりと穏やかに微笑みかけた。

 何事か分からぬエレオノーラであったが、他ならぬイリスの命である。

 彼女に従って窓を開き、顔を出して外の様子を窺うと、真っ先に瑛斗の姿が目に飛び込んだ。まさかあの時の、敬愛して止まぬイリス姫が勇者と信じる少年が、果たしてそこに居たのだ。邸内が不穏な空気に包まれている今この時に、こんなことがあるのだろうか。

 ふと瑛斗の意志が強そうな力強い瞳と真正面からぶつかって、エレオノーラは眼が眩んだ気持ちになった。青褪めた顔と心を悟られぬよう、必死に動揺を抑え込む。


「イ、イリス姫……暫しこのエレオノーラの、離席する無礼を御赦し下さい」

「ふふ……しっかりとご挨拶を頼みますよ、エレオノーラ」


 子爵の話を聞いていた時のイリス姫と比べ、今は心底楽しそうである。姫は間違いなくあの少年の声に気が付いている。気が付いていてエレオノーラに命じているのだ。

 慌てて外へと飛び出るエレオノーラは、途中「ついて来い、お前たち!」と邸内の警護騎士らに向かって叫び、三人ほどを引き連れて正面玄関のドアを開く。


 果たしてそこには、瑛斗と二人の騎士が立っていた。

 彼らの周囲を取り囲むエゴンら邸内の護衛騎士らと、一発触発の状態であった。

 だがイリス姫が勇者と呼ぶこの少年は、生意気――否、不敵な眼差しで余裕すら感じさせる。この敢然たる態度と豪胆さに、さすがのエレオノーラも怯まざるを得ない。

 瑛斗の両を固める二人の騎士、アードナーとエアハルトの顔は見知っている。政務書記官であり我が姉であるエルヴィーラの、親友であり同級生であったからだ。

 だが私事を抜きにして、この状況を問わねばならぬ。それが今や姫直属の従者騎士となった自分の役割である。そう自らに言い聞かせ、エレオノーラは叫んだ。


「何事か! 姫の別邸と知っての狼藉ならば決して赦さんぞ!」

「俺は、イリス姫との『約束』を果たしに来た!」


 エレオノーラの詰問をも圧倒する大声で瑛斗は叫んだ。

 イリス姫との約束――それは、俺は俺の冒険でこの国を見極めること。

 曇りなき眼で国情を見極め、嘘偽り無い真実をイリスへと伝えること。

 その約束を、エレオノーラはイリス姫よりしかと拝聴している。


 なんということだろうか……!

 エレオノーラの心は激しく揺さぶられた。


 明らかに圧倒的不利な状況下で。王宮に巣食う裏切りの連鎖の中で。

 これほどまで約束を守らんとした少年に、久しく出会うことがあっただろうか。

 瑛斗の言葉が真っ直ぐに、エレオノーラの胸の奥に突き刺さった。


 どう判断すべきか――狼狽しつつ仰ぎ見れば、三階の窓にイリスの姿が見えた。


 目の見えぬ彼女が、さも当然のように、にこりと微笑んでゆっくりと頷く。まるでエレオノーラの迷いを、目に見えて気付いているかのようだった。

 イリスは目が見えぬ分、耳がいい。そして時折、心を読むかのような仕草を見せる。

 瑛斗のことを勇者と信じる姫。姫との約束を守る為に現れた少年。

 こうなれば実直なエレオノーラには、誤魔化しも言い逃れもできぬ。


「……入れ。我が姫との信頼は、決して裏切れぬ」


 頑固頑迷と名の通るエレオノーラが、瑛斗らをすんなりと邸内へ招き入れた。彼女をよく知るアードナーらは、ますます魔法にかかったような不思議な気分に陥って、ただただ顔を見合わせるのみであった。



 一方、邸外の森の中は抜きん出て背の高い木の枝に、ふたりのエルフの影。当然に周知の如く、ハイエルフのアーデライードと、ダークエルフのレイシャである。


「ヒューゥ! エイトやるぅ!」

「レイシャのエート、とーぜん」


 などと能天気な声を上げて、一連の爽快な流れを愉しんでいたふたりは、瑛斗の動向を見極めるため、高い木の枝に腰かけて邸内の様子を悠然と窺っていたのである。

 しかし何かしら瑛斗の身に事が起きれば、例え超長距離であろうとも、尋常ではない魔力を駆使して、その場を荒しに荒らして強引に押し通してやろうと企んでいた。


「さぁて、次の場所へ移動するわよ、レイシャ!」

「ん」


 二人のエルフは樹上から羽根のように軽々と飛び降りると、次の準備に取り掛かるため、疾風の如く森の中を駆け抜ける。


 さて――無事に突破できたけれど、これが瑛斗の言うハッタリかしら?

 ところで瑛斗の言っていた『イリスの瞳』とか『約束』ってどういう意味だろ?

 よく分かんないから、後で瑛斗に聞こうっと!


 夕闇に落ちた森の中を苦も無く走り抜けつつ、アーデライードがそんなことを考えているなど、その時の瑛斗は知る由もなかった。



 エキドナ別邸の、長い廊下をアードナーたちと共に歩く。

 日が落ちて暗くなった邸内を、所々吊るされた灯火器ランプが照らす。

 前を歩くエレオノーラの周囲には、いまだ三人の騎士がいる。彼らはエレオノーラの、そしてイリスの味方か、敵か。そのどちらかと知るすべを、瑛斗たちは持ち合わせていない。

 そこで瑛斗は、一計を案じてエレオノーラに話しかけてみることにした。


「俺を覚えているか?」

「当然だ」

「では俺との勝負の行方を、忘れたわけではあるまいな」

「……当然だッ!」


 突然侮辱され激高したエレオノーラは、振り向き様にサーベルを抜いた――否、抜こうしたが、瑛斗はエレオノーラの柄を瞬時に抑えて抜かせない。

 運命の森は泉の前での決闘の如く、またも先の後を取られてしまったのだ。すなわち瑛斗のスピードが、エレオノーラよりもまさったのである。

 これは高い敏捷度アジリティを誇るアーデライードとの日々の特訓の成果であった。


「折れた切っ先を見せるつもりか?」

「くっ……!」


 小声ではあるが、わざとらしく口元を歪ませて意地悪を言う。

 これは瑛斗の案じた策の一つだが、誠実な瑛斗には少し心苦しい。


「火急の要件ゆえ、万難を排してでも押し通る義が我らにはある」


 騎士らしい凛とよく響く声で、エアハルトは主張する。

 瞳の中に焦燥が揺れるエレオノーラは、瑛斗を苦しげに睨みつけた。


「……では、公国の騎士たちは通す。だが貴様は駄目だ」

「わかった」


 信頼ある公国の騎士は姫への謁見を赦せるが、どこの馬の骨とも分からぬ瑛斗をあっさりと通すわけにはいかぬ。それは護衛を兼ねる従者騎士としての道理である。

 ここで無駄に時間を取られるわけにはいかない。瑛斗は引き下がることにした。

 謁見室へ向かうエレオノーラやアードナーらとは別に、瑛斗は三人の騎士らに案内されて、一階の別室へと通されることになった。

 別室前には、老執事とメイドがそれぞれひとりが待っており、瑛斗を出迎えた。


「恐れ入りますが、その巨大な剣を当方へお預けくださいませ」


 老執事は入室前に、瑛斗の背負っている巨大な片手半剣バスタードソードをメイドへ預けるよう瑛斗に促した。用心深いことだ――瑛斗は気付かれぬよう顔をしかめる。

 だが邸内へ入る際に武器を取り上げられるであろうことは、想定の範囲内だ。

 大人しく渡してしまっても良かったが、瑛斗は「剣には呪いが掛かっているから、注意して扱うんだな」と、メイドをわざと脅すように告げてから、剣を片手で渡した。

 瑛斗の持つ剣は、異世界人にとっては超重量の代物である。そんな代物を軽々と突き出され渡されたメイドは、受け取った瞬間にその重さに面食らって、腰を抜かしてしまった。

 瑛斗はその様子を尻目に別室へ入るなり、背後でガチャリと錠を落とされた音を聞いた。



 その頃、アードナーとエアハルトは、エレオノーラに案内されて、イリス姫の待つ謁見室へと乗り込んでいた。

 深紅色を基調とした謁見室へ入ればすぐ目の前に、会議用の重厚な長テーブルが横たわる。その長テーブルの更に奥、紗のかかるカーテンの向こう側。そこに華美に装飾された議席と共に、イリス姫の御座す姿を確認することができた。

 遂に謁見が叶ったのだ――エアハルトはより一層、気持ちと表情を引き締める。

 すぐ手前に目をやるとそこには、不機嫌な顔をした中年小太りな男と、その側近と思しきの四人の騎士がいた。この不機嫌な小太り男こそが、クレーマン子爵であろうか。

 見るからに横柄な態度で椅子に深く腰掛け、まん丸い腹の上で指を組む。


「貴殿らは何事か! イリス姫は今、子爵様との面談中であるぞ!」


 アードナーらの姿を見た側近の一人が、居丈高に声を上げて叫ぶ。

 コイツの顔をアードナーは知っている。クレーマン子爵の近衛隊長・ゲイラーである。騎士学校時代、剣の腕は立つが素行が悪く、彼を良く言う者は少なかったと伝え聞く。

 この男が子爵様と叫ぶ、小太り野郎こそがクレーマン子爵その人であると確信した。


「聞こえんのか! 姫と会談中であるぞ!」


 再び叫ぶゲイラーを無視するように、エアハルトが良く通る声で申し立てた。


「恐れながら、急ぎ姫に申し伝えるべき義があり、参上仕りました」

「構いません……若き騎士よ、おっしゃいなさい」


 当然の如くイリスはエアハルトの発言を許した。

 エレオノーラがこの謁見室の間へ彼らを通した時点で、どちらに義があるかイリスには察しが付いている。そのエレオノーラはイリスから一瞬たりとも離れることがないよう、寄り添うように真横へと立った。


 遂に、遂に若き騎士らに絶好の機会が与えられた。

 公国内部に巣食う腐敗した貴族政治に対し、全面対決を叩きつける好機が。クレーマン子爵をこの場にて厳しく問責し、直接吊し上げねば成らぬ。

 まずはこれが第一歩。絶望的な、血塗られた見えない高い壁に、風穴を穿つ。


 そうしてここからが、知性派組であるエアハルトの本領発揮であった。


 明晰な頭脳を持つ彼は、地図にない獣人族の村襲撃事件の発端から、全ての事の顛末までを、戸板へ水を流すかの如く、とどまることなく朗々と、あらゆる物的証拠と状況証拠を交えつつ子爵の罪を訴え上げた。

 言い訳がましく稚拙な答弁を繰り返していたクレーマン子爵とは対極である。


「証拠は全て揃っているのだ、子爵殿」


 エアハルトが激しくも冷静に糾弾しつつ、厳しい視線でクレーマン子爵を睨みつけた。


「そしてもうひとつ、貴公には目的があって動いていよう」

「何を言う。それ以上の無礼は赦さんぞッ!!」


 怒鳴り散らすクレーマンを、イリスが穏やかに制す。


「若き騎士よ、遠慮なくおっしゃいなさい」

「はっ、恐れながら!」


 エアハルトは歩を一歩前へと踏み出し、ますます弾劾の声を張る。

 獣人族の村襲撃事件の真相とは、怪物モンスター狩りに見せかけた奴隷狩りである。しかし彼らの作戦行動は、ただの奴隷狩りではない。


「奴隷の対象は、中級以上で高い知能を持つ怪物モンスターである必要があった」


 それは傭兵団の中に居た猛獣使いビーストテイマーの手足として、彼らを自在に操るための仕掛けの一つ。その仕掛けとは、ここ『運命の森』に於いて近日盛んに発生している異変。今まで確認のなかった怪物モンスターの出現情報と直結する。

 すなわち、何者かがある目的を持って、息の掛った警護兵たちに手引きさせ、ここ『運命の森』に中級以上の怪物モンスターを放った。そうして猛獣使いビーストテイマーの能力を以て、密やかに怪物モンスターを操り、止ん事無き目的を為そうとしている。その何者かの黒幕こそ、クレーマン子爵――エアハルトはそう申し立てたのである。


「偶然を装い、子爵ら一派が果たそうとした、その目的とは……」

「ざっ、戯言ざれごとぞ! 姫よ、この無礼者に、直ちに極刑を!」


 わなわなと口元を震わせていたクレーマン子爵が、耐え切れなくなって遂に叫んだ。だがイリスはその異議を受け入れることなく、エアハルトに続きを口にするよう促した。

 エアハルトが眉根を寄せ、冷静に、しかし怒気を含み口にした言葉。


「その目的とは、イリス姫の暗殺……!」


 謁見室の内部は、一瞬にして怒号に包まれた。


「きッ、貴様! 無礼にも程があろうがッ!!」

「無礼は貴公だ、クレーマン子爵! 今宵の行動が全てを物語っていようがッ!」


 それまでじっとエアハルトに任せていたアードナーが、遂に叫んだ。


「夜分に百騎以上の兵を屋敷周辺に配し、如何なる言い逃れをするつもりか!」

「貴公の臆病風が命とりとなったな、クレーマン子爵殿!」

「ぬぐぐ……」


 口角には無様に泡を吹き、子爵は何事かを呻いた。

 私利私欲という名の汚泥にまみれた彼の脳では、最早的確な判断を下せない。脂肪に濁った黄色い瞳をギラつかせ、気が狂ったかのように子爵は怒鳴る。


「ええい、我が姫はご乱心なされた! 屋敷諸共打ち壊し、皆殺しにしろォォッ!」


 遂に全員殺せと、怒鳴り散らし始めたのだ。

 子爵が最早、言い逃れできぬ程に馬脚を現した瞬間であった。


 今宵、子爵率いる子飼いの軍勢は、百数騎を優に超える。

 対する「銀の皿騎士団」は、若手を中心とした総勢十四名。

 それに加わるは、勇者の孫である瑛斗と、六英雄が一人アーデライード。


 公国建国史上『奇跡』と呼ばれる攻防戦が、今ここに幕を開けたのである。

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