第3話 ハイエルフと思い出の旅
「ちょっと異世界へ行ってくる」
爺ちゃんは、いつもそう言って出掛けていたそうだ。
まるで近所をふらりと散歩するかの雰囲気で。
鍬一本を肩にかけ、腰に手拭ぶら下げて。
親戚一同、爺ちゃんが何処へ行っているのか知る者はいない。
だが、裏山へ行っているのだからと、心配する者はいなかった。
そこには自作の小屋もある。数日間は泊まり込んでいても不自然はない。
裏山で
なんね、それは。狐や狸の集まりかいね?
なぁに、仕事熱心な瑛吉さんのこっちゃ。
夢中で畑仕事に精を出しているんじゃろうよ。
たまに笑い話になるような、そんな程度の認識だったようだ。
でも――そう言われてみれば、確かに。
爺ちゃんにとって、異世界は畑みたいなものだったのかも知れない。
異世界は広大な未開の農地。つい耕したくなる巨大な畑。
時折現れる怪物たちは、熊や猪くらいの感覚だったのかも。
そう考えると、自然と笑みが零れてしまう。
いかにも爺ちゃんらしいや。
異世界だって、この世界だって。
様々な人々が生活を営んでいることは、何一つ変わらないんだ。
爺ちゃんの遺した言葉、行動、そして功績。
一つ一つがそう教えてくれている気がする。
やっと踏み出した、異世界への第一歩。
爺ちゃんを見習って、その軌跡を辿って行こうと思う。
だから俺も、異世界へ出掛ける時は、決まってこう言うのだ。
「それじゃあ、ちょっと異世界へ行ってくる」
◆
容姿端麗なハイエルフ・アーデライードは、酷く後悔していた。
彼女の
人生最大の敵を前にして、その両膝を屈してしまったのだ。
『
『
いずれもアーデライードを讃える通り名である。
だが、今やそんな大仰な通り名など、寧ろ滑稽に感じざるを得ない。
こんな無様な失態を演じておいて、その名を冠する資格などあるものか。
何が、高位精霊使いだ、大賢者だ、六英雄だ!
高慢ちきな鼻っ柱をへし折って、地の底へ埋めてしまいたい。
過去の栄光など、誇りなど、名誉など、何の役にも立ちはしない。
そのどれもがこの難局を前して、如何なる効力も発揮しはしないのだ。
今まで築き上げてきたものなど、全て崩れ去った。
たかがこの程度。大したことはない。なぁにまだまだ大丈夫。
そんな油断が命取りになることなど、幾度となく経験してきたはずなのに。
甘く見ていた昨日までの自分を責めたい。責め倒したい。
小一時間ほど責め倒して、何処かへ消えてしまいたい。
けれど、もう。何処かへも。望む安寧の地へと赴くことは叶わない。
鉄鎖の束縛から逃れることはできず、この身の全てを委ねる恥辱。
荊の森に絡め取られ、深き眠りの中へ。その快楽に堕ちてゆく背徳。
嗚呼、神よ。我が森と水と大地の神よ。
この惨めで愚かなハイエルフを、その温かき御手で救いたまえ!
――などと、自室のベッドで悶え苦しんでいた。
アーデライード人生最大の敵の名は「二日酔い」という。
ここは『悠久の蒼森亭』最上階にあるアーデライードの
彼女は六英雄の一人であり、『古代樹の塔』創生の功労者の一人でもある。その功績により与えられたこの部屋を、自由に専有している。
その功労者であり部屋の主はといえば、だらしなくベッドに転がっていた。
昨夜の愚かな葡萄酒一気飲みを演じたせいで、こんな状況に陥っているのである。
酷い頭痛に、胃の中を
ベッドの上で身動きすることも苦痛で叶わず、羽毛の枕に顔を突っ伏していた。
今は瑛斗が用意してくれた、頭にちょこんと乗っかった水袋が何よりも心地よい。
「バイダル湖の
故郷の森の奥深く、巨大な水源を湛える湖の名を思わず呟いた。
「何か言ったかい、アデリィ?」
隣の部屋から瑛斗がひょいと顔を覗かせた。
「なんでもない。アタマいたい」
「まだ若いからって無茶しちゃダメだよ」
瑛斗は母がよく父に言っている言葉を真似て言ってみた。
「私、ゴトーと……あなたのお爺様とそんなに歳は変わらないわよ?」
あの人とは十歳も離れていない。ハイエルフの年齢と外見を人間に換算すると、まだ十代そこそこではあるが。
「そうか、本当はいい大人なのになぁ」
「くっ……いっそ殺して……」
「なんか、アデリィが言うとシャレにならない」
何故だがわからないが、アーデライードにはその台詞が良く似合う。
「お水飲みたい」
「わかった、汲んでくる。あと何か胃に優しそうなものを見繕ってくるよ」
そう言うと瑛斗は、アーデライードの部屋を出て行った。ぱたぱたと忙しそうな足音が遠ざかってゆく。
アーデライードはボーっとした頭で「エイトは本当にいい子だなぁ」と思った。
良くできた彼に比べて自分といったら。お酒の飲み方も分からぬ淑女など淑女に非ず。その上、昨夜の自らの失態を殆ど覚えていない。
葡萄酒を一気に飲み干したものの、顔の火照りと心臓の鼓動は収まらない。むしろ早鐘を叩くようになってしまった気がする。
それはお酒のせいであると言えたが、適正な判断力を失ったアーデライードには、そんなことなどお構いなし。追加の葡萄酒を注文すると、瞬く間に飲み干した。
その先はと言えば……思い出すのも憚られるほど。酔っ払いの迷惑行為オンパレードを演じてしまった気がする。
そこで改めてハッとしたアーデライードは、のろのろと起き上がり自らの服装を見た。
ああああ、やっぱり。部屋着に着替えている……
ひとりで着替えられた気がしない。きっと瑛斗に手伝ってもらっている。
多分絡んだ。かなり絡んだ。過去を振り返るに、心当たりが満載だった。
あんな大失態のフォローをさせてしまった上、着替えまで手伝わせるなんて。
彼は勇者の孫。あの人の子孫。そしてまだ十六歳の少年だ。
そんな少年に、もしかしたらあんなことやこんなことをさせてしまったんじゃないか、と考えるだけで、顔から火を噴いて、大声で叫んで、木のてっぺんから飛び降りて、柱に頭を打ち付けて死んでしまいたくなる。
けれど今は、頭痛と胃のムカつきで、何もする気にならなかった。再びゆっくりとベッドに倒れ込むと、顔からぽすっと枕に沈みこむ。この頭を取り外して洗いたい。
「もうなんか、色々と酷い……」
ベッドの上で深い溜息をひとつ突くと、枕に顔を埋めて目を瞑った。
◆
何故あの人は、瑛斗に十六歳で旅立つ許可を与えたのだろう。
ぼんやりと薄れてゆく視界の中で、そんなことを考えていた。
「そういえば、私の旅立ちも十六歳の時だったっけ……」
思えばもうだいぶ過去の事になった。だが今でも鮮明に思い出す。
初めてあの人と出会ったのは、十歳を数えた頃。
その日、そっと村を離れひとり。森の中を彷徨っていた。
閉鎖的なハイエルフの森の中で、とても嫌なことがあったのだ。
帰り道は精霊たちが教えてくれる。そう思っていた私は幼かった。
精霊たちは悪戯好きで、私をもっと、もっと、と森の深い場所へと誘い込んだ。
怖くなった私は、村へ戻ろうと思ったけれど、戻ろうとしても戻れない。
心が落ち着かないから、それを察した精霊たちが言う事を聞かなかったのだ。
そうしている内に、小さな祠のある小さな花畑へと辿り着いた。
ぽっかりとその場所だけを、まるで祝福するかのように太陽が明るく照す。
深くて暗い森の中で、雲間から光が射すかの様に。
花畑と謳うには、あまりにも矮小なスペースだった。
けれど、とても幻想的な風景だったのを今でもよく覚えている。
そして私は――その場所で、あの人と出会った。
怯える私をチラリと見ると、何事かを話しかけてきた。
「君は、こっちの子かい?」
知らない言葉。日焼けした大きな身体。すごく怖い。
でも暗い森の中で怖い思いをしてたので、来た道を戻る気になれなかった。
身動きすることができず、私はその場に立ち尽くした。
そんな私を無視するように、あの人は祠の横にある大岩の隣に腰を下ろす。
胸ポケットから何かを取り出すと、火をつけて煙をぷかぷかと浮かせ始めた。
それは紙巻き煙草というもので、初めて見た私はそこから目が離せなくなった。
するとあの人は、その煙で輪っかを作り始めたではないか!
どうやって輪っかを作っているのだろう?
何故あんなことをしているのだろう?
私はその様子を夢中になって眺めた。
そうしていると、再びあの人と目が合った。
あの人は不器用そうに、にこりと笑った。
私もつられて、にこりと笑った。
いつの間にか、怖さはなくなっていた。
それ以来、小さな花畑は、私の秘密の場所になった。
ハイエルフの森で嫌なことがあると、必ず花畑へと足を運んだ。
もしかしたらあの人に会えるかも知れない。
そんな淡い期待もあった。
いつもじゃないけれど、あの人はいた。
その時は決まって大岩の隣に腰かけて、ぷかぷかと紙巻き煙草を吹かしていた。
私は何も言わず、その隣に腰かける。
あの人が作る、ぽかりと浮かばせた輪っかの煙を眺めて。
そうして、二人でひなたぼっこをするのだ。
お日様に照らされているうちに、嫌なことなんてどこかへ吹き飛んでしまう。
会話なんて必要なかった。寡黙なあの人も同じようだった。
ただあの人の傍にいるだけで良かった。
やがて、嫌なことがない日でも、花畑へと足を運ぶようになっていた。
いつしかそれは、私の日課になったのだ。
それなのに、いつからだろう。
あの人と会話をしてみたくなったのは。
あの人のことを知りたい。あの人のことをもっと理解したい。
本を読むことが大好きだった私は、色々な言語を調べた。
けれど、どの言語を試してみても、あの人と会話をすることが叶わなかった。
どうすれば会話をすることができるようになるのだろう?
考え抜いた末に、私は一つの結論を導き出した。
もっと言語を勉強しよう。いろんな言語を習得しよう。
どの書物にもない言葉ならば、私がそれを初めて書物にしよう。
あの人に話しかけては、返ってきた言葉を綴って残し始めた。
まずは挨拶から。そして自己紹介。少しづつ単語を増やしてゆく。
初めて会話を交わせたと感じた時、凄く嬉しかったことを思い出す。
例えば、こんなことがあった。
「ゴトー」
「うん、合ってる」
「ワタシ、は?」
「あーでる……なんだっけか?」
「アーデライード」
「そうかすまん。横文字は苦手でな」
「アデリィ」
「うん?」
「アデリィ、で、いい」
アデリィ――それは、私の両親だけが呼ぶ、私の愛称。
あの人にそう呼んで貰いたかったので、ついそう言ってしまった。
「うん……アデリィ」
あの人が、私の愛称を呼んだ。
少し照れながら、でも生真面目な表情で。
至って真剣に、私の事をアデリィと呼んだ。
その時は嬉しくて。本当に嬉しくて。
胸の奥が、すごくポカポカしていたのを、よく覚えている。
そこからはもう一直線だった。脇目も振らずに言語学の研究に打ち込んだ。
私はゴトーのいう農閑期が大好きだった。
農閑期になると、ゴトーは決まってグラスベルに長居をするからだ。
そしてすることのない雨の日には、いろんな言葉を聞かせてくれた。
数少ない言葉の中で、ゴトーが異世界からやってきたことが分かった。
異世界の話。とても不思議な世界だった。
精霊とお話ができないとか、魔法がないとか、怪物たちがいないとか。
その代わりに、鉄でできた大きくて不思議な乗り物があるとか。
乗り物の中には、海を渡るものや空を飛ぶものもあるのだとか。
私は興味津々で、ゴトーの話に聞き入ったものだ。
でも、ゴトーはたまに凄く辛そうな顔をする。
それが何か、私にはわからなかったし、ゴトーは話そうとしなかった。
あの人はいつも、じっと遠くの地平線を見つめていた。
私たちの世界の美しさを、その目に焼き付けんとするかのように。
そして突然、忌まわしき日はやってきた。
「聞いてくれ、アデリィ」
「?」
「暫く、ここには来られなくなった」
「! なんで?」
「向こうの世界で、戦争があるんだ」
戦争――それは、グラスベルにも忍び寄りつつあった、暗い影。
遥か西方の彼方で、魔王と呼ばれる軍勢が怪物たちを選り集めているという。
幾つかの村々が焼かれ、グラスベル周辺でも戦禍の話題が囁かれ始めていた。
だから私は、戦争の恐ろしさを知っていた。
「私は戦場へ行かなくてはならん」
「やだ! いく、やだ!」
「それはできん。皆に迷惑がかかる」
「あ、わかた! こっち世界、すむ、いい!」
「それもできん」
「なんで!?」
「あっちの世界が、私の故郷だからだ」
「いく、やだ! だめ!」
「どうにもならん」
ゴトーはそういうと、洞窟のある方へ歩き出した。
「ゴトー! ゴトー!」
私がそう叫ぶと、ゴトーはその場に立ち止った。
ほっとした。戦場へ行くのをやめてくれると思ったから。
「必ず帰ってくる」
「ほんと、ほんとか?」
「ああ、本当だ。約束する。絶対に約束する」
ゴトーの声は、力強かった。
そんな時のゴトーは、約束を破ったことはない。
幼かった私は、その言葉をすっかり信じてしまった。
「まってる! ゴトー、わたし、まってる!」
そう叫ぶ私を、ゴトーはもう振り返ることなく立ち去ってしまった。
ゴトーは必ず帰ってくる。
約束したから。ゴトーは必ず帰ってくると。
私は、ゴトーを待ち続けた。
ゴトーを待ちながら、言語学の研究に励んだ。
もっと、話がしたいんだ。
いろんな話がしたいんだ。
あなたの声を。あなたの言葉を。
あなたの思いを。あなたの気持ちを。
もっともっと、聞かせて欲しい。
そうして月日は流れていった。
一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年を超えて――
ゴトーは、帰ってこなかった。
「私、十六歳になったよ……」
その日も私は、ゴトーと約束を交わした花畑にいた。
あの人の言葉も、今ではすっかり上手になった。
今ならきっと、あの頃よりもお喋りが弾むはずだ。
最初の一歩となった言語研究の本も、完璧にまとめることができた。
ハイエルフの村の中で、言語学において私の右に出る者はもういない。
そうして、ゴトー。
あなたとの約束を守って、私はずっと待っていたんだよ。
それなのに、ゴトーは帰ってこなかった。
嘘つき! 嘘つき! 嘘つき! 嘘つき!
絶対帰ってくるって言ったのに!
ゴトーの言葉だって、一生懸命覚えたのに!
貴方と話したいこと、もっといっぱいある!
いっぱいあるのに、貴方がここにいないなんて!
「ゴトーの、
そう叫んだ時だった。
「これはいかんな……」
暗い洞窟のずっと奥から、確かに声が聞こえてきた。
それは、忘れもしないあの人の声。
この数年間、一度たりとも忘れたことのない、あの人の声。
「どうも良からぬ言葉を覚えてしまったようだ」
「ゴトー……?」
「ただいま、アデリィ」
洞窟の奥から、あの人はゆっくりと現れた。
あの日と同じように、少し照れくさそうな不器用な笑顔。
よく日に焼けた、あの人の笑顔。
そんな笑顔を見た瞬間に、とめどなく涙が溢れてきた。
「努力したな。随分と上達したじゃないか」
「莫迦……莫迦……ゴトーの、莫迦……」
いっぱい覚えた言葉があるのに、そんな言葉しか出てこなかった。
あんなに言いたかった言葉たちが、一つも出てきてはくれなかった。
「約束通り帰ってきたのだから、機嫌を直してくれないか?」
「駄目よ」
「何故?」
「私も約束を守ってずっと待っていた」
「待たせ過ぎてしまったな。すまない」
「そう思うのなら、私のお願いを聞いて頂戴」
涙を拭きながら、悪戯っ子のような笑みを返す。
ここから先は、随分と前から言おうと決めていた言葉。
「もうこれ以上、待つのは嫌なの」
「どういう意味だ?」
「森の外へと出たことのない私を、外の世界へ連れ出して欲しい」
ハイエルフの村を飛び出して、広い世界へ歩き出したい。
貴方との出会いで得た言語の研究を、より一層深めたい。
言語の研究者として、その第一歩を踏み出してみたい。
その為に――
「私と一緒に旅をして、ゴトー!」
そうして、私とゴトーは共に旅をする。
ゴトーは、待たせていた三年間を、私にくれた。
これからはこの人と、会話できることだろう。
ずっと聞きたかった、あの人の声を。
ずっと話したかった、たくさんの言葉を。
思う存分、この三年間で取り戻すつもりだ。
世界の語学を修めてきた私だけれど。
この人の言語は、まだまだ分からないことだらけだ。
日常会話ならば上手になったけれど、会話だけじゃ駄目。
文字の研究も必要不可欠だから、みっちりと教えてもらうつもりだ。
いつかきっとこの人の言葉を、一冊の本に纏めてみせる。
さぁ、いったいどんな素敵な旅になるのだろう?
旅の間には、色んな仲間ができて、出会いがあって、別れがあって。
様々な出来事に出会うのだろう。それはもちろん、この人と一緒に。
そんな最初の第一歩を、私とゴトーは踏み出したのだ。
◆
「どうしたのアデリィ……泣いてるの?」
目を開くと、お盆の上に小さな陶器の鍋を乗せた瑛斗が覗きこんでいた。
「泣いて、ないし」
目を擦りながら答えたこの言い訳は、ちょっと見苦しかったかも知れない。でも瑛斗は、それ以上追及してこなかった。
「起きられそう?」
「ええ……私、どれくらい寝ていたのかしら?」
「うーん、だいたい三十分くらいじゃないかな」
そう答えつつお盆をサイドテーブルに置くと、コップの水を手渡してくれた。
何も言わずにそれを受け取ると、のろのろと頭を少しだけ上げて口にする。焼けていた喉を冷たい水が潤してゆく。その清涼感が心地よい。
「ところで、その鍋はなに?」
「これはパン粥。
瑛斗は一通りのことをこなすことができる。料理もその一つで、異世界での冒険に備えて習得したのだと言う。そんなに生活力のある姿を見せられると、何もできない自分に決まりの悪さを感じてしまう。
「少しでも食べられそう?」
「ん、たぶん……」
のそのそと重そうに身体を上げるアーデライードを見届けた瑛斗は、ベッドサイドに腰かけると、
「それじゃあ……はい、あーん」
パン粥を乗せたスプーンの先を鼻先に向け、口を開くように促してきた。思わず口を小さく開くと、柔らかなミルクの香りにほのかな蜂蜜の甘さが口の中に広がった。
美味しい。胃に優しそうな、まろやかな味。でも、そうしてから気が付いた。
ああ、なんてことなの! あーんして、食べさせてもらうなんて!
言われたままに素直に口を開いてしまった。なんという迂闊。例え二日酔いで頭が回っていないとしてもだ。どこまでこの少年にお世話されてしまえば気が済むんだろうか。
ただでさえ落ち込んでいた所に追い打ちをかけられた。そのクセ、ちょっとだけ胸がポカポカする気持ちになってしまうのは、なんというか非常に複雑である。
対する瑛斗は何事もなかったような顔をして、今見てきたことを尋ねてきた。
「それにしても驚いたよ、三階にあるキッチン」
冒険者が自炊できるよう、三階にも台所が設置されている。長期滞在客の為の施設で、日本の木賃宿をモデルとして爺ちゃんが提案したという話だ。
「石のシンクがあって、壁から水が湧きだしていた」
「それはね、ここから北西の高台に湧水地があってね。そこから石樋を通して三階のキッチンまで、清水を引き上げているのよ。ええと、確かそのことを……」
「ああ、パスカルの原理かな」
パスカルの原理を応用した工法で、サイフォン工法と言われている。液体の出発地点が高い位置にあれば、より低い位置を通したとしても、汲み上げることができる。
日本の建築物では『伏越の理』と言われ、金沢城がこの原理を利用していることで有名だ。
「あなた、よくそんなのすんなり出てくるわね」
「学校で習うんだよ」
「ふぅん。学校も大事だっていうのは、よく分かったわ」
どこか含みのある言い方をしてしまった。春休みにはずっと一緒にいるという約束を、彼が破るはずなんてないのに。大人げないのは自分でもよく分かっている。
「なんだよもう。大丈夫だって。絶対に約束する」
「……うん」
瑛斗の不服申し立てに、アーデライードが珍しく素直に頷いた。
あまりに素直だったので、瑛斗は少し不思議そうな顔をする。だがアーデライードは満足げだったし特に拘ることでもないので、それ以上は何も聞かなかった。
「でも学校があるのに、よくこっちに来ることにしたわね」
「そりゃね。学校も必要だけど、夢の実現はもっと大事だったんだ」
両親にはひどく反対されたけれど、爺ちゃんは一言「十六歳は、旅立ちの時だ」と言って、それ以上は何も言わなかったのをよく覚えている。
「旅立ちの時?」
「うん」
瑛斗は頷いてすぐに、はたと何かに気付いた顔をして呟いた。
「そういえばアデリィも十六歳で旅立ったんだっけ」
不意に言われて、アーデライードには直感的に感じることがあった。
「ねぇ、もしかしてエイトの旅立ちの日は……」
「うん? 誕生日だよ。十六歳の誕生日」
アーデライードは、大きなつり目を真丸く見開いた。
「爺ちゃんがさ、『旅立ちにはそれが最適な日なんだ』って」
ああ、私は何故そんな大事なことに気づかなかったのだろう!
私の旅立ちの決意を、誰よりも近くで見ていたのはあの人だったのに!
恐らくあの人は、エイトと幼かった頃の私を重ねていたんだ。
私の時と同じように、エイトの努力をずっと見守っていて。
もしもそうだとしたら――これほど嬉しいことがあるだろうか!
「ねぇ、エイト。あなたの世界の暦で誕生日はいつなの?」
「えっ? 九月八日だけど?」
「そう。だとしたらちゃんと覚えておいてね」
アーデライードは、過ぎし日の悪戯っ子のような表情で微笑んだ。
「私も、その日が誕生日だから!」
あまりに奇跡的な偶然の一致。
奇跡的過ぎて、まるで気付くことすらできなかった。
十六歳の旅立ちの日であり、ゴトーが帰還した日であり、私の誕生日。
それがエイトの誕生日と同じだったなんて!
おまけにエイトが私と同様に、誕生日に旅立ったなんて!
ゴトーは、きっと知っていたんだ。
記念日には必ずあの花畑に、大きな花束を持ってゆくことを。
そして、ほくそ笑んだはずだ。
この少年が姿を現した時、私が花束を取り落すほど驚くことを。
「アデリィ、孫を頼んだよ」
そう言うあの人の不器用な笑顔が、真っ先に想い浮かんだ。
改めて運命的に「ゴトーに託されたのだ」と感じていたから。
私は全然だらしなくて、まだまだ未熟なハイエルフだけれど。
ゴトーが私にしてくれたように……
今度は私が、この勇者候補の少年を見守っていこうと決心した。
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