第20話 ハイエルフと行く運命の旅

 瑛斗たち一行は、森の中を最深部へ向けてひたすら歩む。

 ここ『運命の森』は、不思議な静寂に包まれた森であった。

 今まで経験してきた森には、様々な表情があるものだ。瑛斗はそう思う。

 例えば、すっかり馴染んだ聖なる森グラスベルの大森林は、光と影、双方が混然としつつも生命の神秘と精気に溢れる森。チルダと共に闘ったオークの住む森は、木々を雑然と散らかした印象だったし、レイシャと出会った森は、静的で整然とした無表情な森だった。


 しかし改めて考えれば、森の印象は出会った人間に影響を受けている気がする。

 グラスベルの大森林は、気高くて気紛れなアーデライードそのものだ。雑草みたいに生気に満ちたチルダの様な森。無表情で感情を表に出さないレイシャの様な森。その時その場で出会った人間の印象を、色濃く残すものなのかも知れない。

 森に深い思い入れを持ち、専門家でもあるアーデライードの教えがいつも、瑛斗の中に存在する。


「森はその時の心の中を映す鏡みたいなものよ。森林浴を楽しみに森へ踏み込めば、光溢れる生命の森になる。死にたいと思った人間が森に足を踏み入れれば、そこは死を招く闇の森になる。そういうことは、ままあることなのよ」


 それが全てではないにせよ、そういう側面が往々にしてあるのだろう。

 では、瑛斗がこの『運命の森』に感じる、この感覚はなんだろうか。強いて言うのであるならば――悲嘆に暮れ、静かに涙を流す乙女のような――うーん、止めよう。詩的な表現が苦手な瑛斗には、それが精一杯である。


「けど、ちょっと妙なのよね」


 先頭を歩くアーデライードが、何やら呟きながら首を傾げる。

 彼女曰く、確かにこの森は人の手が入らず手付かずの状態であるが故に、或る意味では怪物モンスター達にとって居心地のいい森かも知れない。

 しかしそれは、或る意味では、である。この森が必ずしもいい環境と条件ばかり揃っているわけではない。

 まずはここ『運命の森』に、幾重にも張られている古代魔法の大結界。時に惑わし、時に災いをもたらす、何らかの魔法が掛かっているという。

 この魔法が怪物モンスターにとってプラスに働いているとはとても言い難い。むしろ追い払う要素と考えていいだろう。

 それにアーデライード達は、今までここに住み着いた怪物モンスターなどを確認したことがないという。とすれば今回出くわした彼らは、改めて外部から侵入してこの森に住み着いたと考えるべきだ。

 だがここ一帯は、仮にも王弟公国直轄の別荘地である。巡回の騎士団の他、警備は幾重にもあってしかるべき森である。

 街道沿いの人通りも多く、高台にあるこの森へ入るには、人目に付く可能性が高い。瑛斗たちの様に、空から直接森の中へ降り立った場合とは、全く別の話なのだ。


「不自然に感じるのは、うむ、確かじゃな」

「でしょう?」


 ドルガンも頷いて同意した。しかしこの周辺に気配はもう感じない。様々な精霊を使役し、広範囲に渡り探知サーチできる高い能力を誇るアーデライードである。


「これで暫くの間、この森は安心じゃろうて」

「うーん、まぁそれはそうなんだけれどね……」


 それ以上考えても分からないことを、アーデライードが気に掛ける方が珍しい。今までの経験から、心に引っかかる何かがあるのだろう。

 ドルガンは顎鬚に手をやると、じょりじょりと撫で始めた。


「ふぅむ……よし、心に留め置いておくわい」

「ええ。ありがとう、ドルガン」


 ドルガンは「ッほ?」とちょっと変な声が出た。あのアーデライードから礼を言われたのだ。しかも実に自然な調子で、である。

 形の良い顎に指を当てて考え込む仕草は昔のままであるが、中身は少しづつ成長しているようだ。恐らくそのきっかけとなったは、この異世界の少年か。

 我儘気ままな臆病ハイエルフに、その孫までもが影響を与え続けるとは。


「ふふん……ゴトーよ、お前さんは本当に面白い男じゃて」

「んぁ? ドルガン、なんか言ったかしら?」

「いいや、なんでもないわい」


 もしやこの頼りないハイエルフが心配で、しっかり者の孫をあてがったのではあるまいな。などと想像して、込み上げる笑いを必死で押さえつけるドルガンであった。



 歩くこと三十分程度。『運命の森』最深部と呼ばれる場所へ辿り着いた。


「最深部っていう割には、そう深い場所ではないような気がするね」


 瑛斗が率直な感想を口にした。最深部というからには、もっと険しい道程を覚悟していたからだ。


「これ以上先へ進むと、元来た場所に辿り着くからね」

「どういうこと?」

「そういうこと、としか答えようがないわ」


 先へ先へと進めば進むほど、元の場所へ戻ってしまうのだという。

 磁場の狂った富士山麓の青木ヶ原樹海樹海の様に、同じ場所をぐるぐると巡るような感覚だろうか。それにしては、元の場所へ帰してくれる分だけ『運命の森』の方が親切と言えよう。

 ともあれ、これ以上奥へ進もうとして道を変えても意味はない。だからこれ以上の奥がない――故にここが最深部だ、ということらしい。

 それまでずっと黙っていたレイシャが「んー」と唸りだした。


「どうしたの?」

「いろんないろの、オド、みた」

「いろんな色の魔力オド?」


 レイシャはこくりと頷いた。


「いっぱい、くぐった」

「くぐった?」


 レイシャは再び頷いた。これだけでは内容が掴めないが、レイシャもそれ以上は説明ができないようだ。よってその原因や理屈などの解明までは難しいだろう。


「ま、なんらかの多重結界が掛けられている、と考えてよさそうね」


 だがそれがなんなのか分からない、という今までと変わらぬ結論と相成った。


「エリノアがおったら何か分かったかのぅ?」

「どうかしら?」


 エリノアとは六英雄の一人、『冥界の魔女』と呼ばれた魔術師である。


「ええと、ここへ来たことのあるモンと言えば、ワシとゴトーとアデル……」

「あとは一応、エルルカも来たことあるわね。何回か泣かせたけど」


 この数か月で確実に分かったことがある。アーデライードは仲間である筈の六英雄が一人、エルルカ・ヴァルガに対して、とにかく酷い目に遭わせることに長けていた、ということである。

 もし彼女と出逢うことが叶ったならば、


「うちのアーデライードがご迷惑をお掛けしまして、本当に申し訳ありませんでした」


 と、未だ見ぬ六英雄に謝りたい気持ちでいっぱいになる瑛斗である。


「さて、と……エイト。後はあなた次第なのだけれど」


 と、ここでアーデライードが妙なことを言い出した。


「アデリィ、そう言われて俺は、何をどうすればいいのさ」


 瑛斗は困惑した。それというのも『運命の森』の最深部と呼ばれるこの場所には、何もなかったからだ。

 ここにあるのは、せいぜい石を積み重ねて作ったであろう祠が一つ。あとはと言えば、その隣に這って入れる程度の地の裂け目がある程度である。


「えっと、祠があるでしょ」

「うん、あるね」

「その傍に、ううん、例えば、何か洞穴がないかしら?」

「洞穴はないけれど、地の裂け目はあるね」

「じゃ、それ」

「…………」


 とにもかくにも、アーデライードの説明が少なすぎてよく分からない。


「まぁいいから、潜ってみなさいな」

「この穴に?」

「そう」


 瑛斗はアーデライードに言われるがまま、仕方なしに荷物を背中から降ろし、身の丈ほどある片手半剣バスタードソードを背から外す。


「それじゃ、行ってきます」


 渋々行くにも拘らず、きちんと挨拶をしてから行こうとするところが、何事にも律義な瑛斗らしい。

 瑛斗はこの旅の間、学校帰りに直接異世界へと来たので制服姿のままだ。地の裂け目へと身体をねじ込めば、明日も着なくてはならない制服が致命的に汚れてしまいかねない。慎重に注意しつつ、足の方から身体を滑り込ませてゆく。

 レイシャが子猫の様な吊り目を、真ん丸に見開いてこちらを見ている。

 そんな顔をしなくても、中を確認したらすぐに戻ってくるつもりだから、安心して欲しいところだ。

 ようやく穴の底へと足を付けると、洞内は意外にも広く、悠々と立って歩けるほどの高さがあった。灯りがないにも関わらず仄明るく感じるのは、トンネルのその先に何か光源があるからだと思われる。

 慎重に歩を進めると、光源は行き止まりにあった木製扉の隙間から漏れていた。

 瑛斗はそっと木製扉を開く。開いてすぐさま「あっ」と声を出して驚いた。

 洞窟内を駆け戻り、地の裂け目から慌てて顔を出す。

 顔を出して最初に目に飛び込んできたものは、にやにやと笑うアーデライードとドルガンの顔。そして泣きそうな顔で四つん這いになって、ますます真ん丸に目を見開いたレイシャの顔だった。


「ア、アア、アデリィ! これって……!!」

「そう、二つ目の……異世界への出入り口よ!」


 グラスベルにあるトンネルの他に、もう一つの出入り口があったのだ。一つしかないと思い込んでいた瑛斗である。これには吃驚仰天のその更に上を行く程に驚いた。


「ちなみに何処へ出たのよ、そこは」

「いや……ああもう、爺ちゃんの掘った防空壕には違いないんだけど、食糧庫として造っていた部屋の側で、その、全然使ってない……茶箪笥ちゃだんすの扉から出た!」

「あはっ! 茶箪笥ちゃだんすの扉ぁーあーっはっはっはーっ!」


 アーデライードもドルガンも、堪らず大笑いし始めた。

 ただ一人、事情をよく呑み込めていないレイシャだけが、ポカンとしている。

 何せレイシャら異世界人には、この次元の裂け目や通り道を、通り抜けるどころか目

視することすら叶わないのだ。だからレイシャの瞳には、瑛斗が何もない地面へするりと吸い込まれて消えてしまったようにしか見えなかった。


「ねぇ、聞いてよエイト! レイシャったらね、這いつくばって地面をバンバン叩いて、今にも泣き出しそうな顔してたわよぅ!」


 これまでの復讐だろうか。アーデライードは如何にも底意地の悪そうな顔で嘲笑う。


「へぇ、レイシャが泣きそうな顔を?」


 変な方向へテンションの上がってしまった瑛斗も、それにちょっと乗っかってみた。


「ん、んんっ、んんんんーっ!」


 レイシャが膝を立て、アーデライードのお尻をポカポカと叩き始めた。


「エート、エートぉーっ! って、叫んでもうね、あれは泣いちゃってたかもぉ?」

「ゆーな! ゆってない! ゆーな!」


 レイシャが頬を紅潮させて抗議する。彼女が感情を見せるのはとても珍しいことだ。それだけ瑛斗が地面に吸い込まれていく状態が、ショッキングだったに違いない。

 魔力オドでも精気マナでもない力によって瑛斗が消えてしまったのだ。レイシャにとっては、さも恐ろしく見えたのだろう。


「あれ? じゃあ、今の俺の状態は?」

「歪んだ地面からいきなり生えているように見えるわね」


 アーデライードは瑛斗の様子に、どうにも笑いを堪え切れない様子だ。

 逆に瑛斗の目には、深い大地の裂け目の上に彼女の足が浮いているようにも見える。その辺りの境界が曖昧で、足を乗せている場所が水の波紋の様に歪んでいた。

 この大地の割れ目そのものが、次元の裂け目なのだろう。だから低次元に位置する異世界の者には、この地の裂け目に入ることや、認識することができないようだ。

 この法則は、グラスベルにある異世界への出入り口と全く同じものである。


「つまりね、こういう計画プランだったの」


 飛び石連休の『昭和の日』を利用して、ここ『運命の森』にある異世界への出入り口まで到達する。学校のある瑛斗はここから元の世界へ戻り、アーデライードたちは川沿いの街にて待機。そうして連休初日に、瑛斗は再びこの出入り口を通って皆と合流する。


「これならば瑛斗は、リッシェルよりも先の世界を見ることができるわけ」


 そういえばアーデライードはここへ着く前に「今日が瑛斗の大転換点になるかも知れない」と言っていた。それはつまり、瑛斗が「異世界への出入り口はひとつではない」と知ることを指していたのだろう。

 まさしくそれは、様々な可能性の広がりを指している。

 異世界人では成し得ぬ、魔法詠唱なしに瞬間移動が可能であるのだ。場所が限定されているとはいえ、超長距離を瞬時に移動できるポイントがあるのは、他者と比べて絶大なアドバンテージとなる。


「ゴトーったらね、忘れたくわをグラスベルへ取りに戻ったことがあってね。その時はこの出入り口を知らなかったから、私はとびきり驚いたわよ!」


 それを聞いて、瑛斗はふと思い出したことがあった。


「そう言えば爺ちゃんは、リッシェル周辺に畑を作ったって言ってたけど……」

「うっふふっ、そうね」


 アーデライードは、つい堪え切れずに笑いだした。


「そう、この祠……異世界への出入り口があったからよ」


 瑛斗はずっと疑問だった。何故グラスベルから徒歩で十日以上もかかるこの場所を選んで畑を作ったのか。しかしこの出入り口があるならば、わけのない話だ。


「だからね、この森の北西にゴトーの畑や別宅があるのよ」


 春休みの旅の時、何事もなければそこまで足を運ぼうと思っていたのだそうだ。チルダとの冒険やレイシャとの出会いで日程が削られ、予定変更を余儀なくされたが。


「どう?」

「どうもこうも……」

「驚いた?」

「アデリィったら……驚いたに決まってるじゃないか!」


 そう言うと、瑛斗はもう溢れ出る笑顔が止まらない。アーデライードもドルガンも可笑しくて仕方がないといった様子だ。なにせこんなサプライズは、瑛斗の様な異世界人がいなくては成し得ないことなのだから。何しろゴトーと旅をした時以来の出来事だ。六英雄二人の心に懐かしさが去来していた。


「よっと……ああ、ごめん。アデリィ、ちょっと手を貸して」


 地の裂け目から這い出ようとした瑛斗が、アーデライードに助けを求める。


「しょうがないわね……って、ぅきゃっ!」


 しかし真綿の様に身軽なアーデライードである。逆に瑛斗側へ引き寄せられてしまった。

 瑛斗は突然胸の中へと飛び込んできたハイエルフを、そのままぎゅっと抱きしめる。そうして足の力だけで力強く地の割れ目から這い上がると、華奢な彼女の細い両肩をグッと掴んでそのままひょいと持ち上げてしまった。


「あっはは! 凄い、凄いよアデリィ! この旅は君に驚かされてばかりだ!」


 されるがままのアーデライードを持ち上げたまま、瑛斗はくるくると回転し始める。


「ひっ、ひゃ、ひゃい……!」


 あまりに予想外な出来事に為す術がないアーデライードは、長い耳の先までピンとさせてその身を硬直させた。きゅーんと固まったままの彼女をそっと地面へ落ろすと、そのままの形でじっと動かぬ。いや、動けぬ。大地に突き刺さった様になってしまった。

 それでも瑛斗は構わずに、再びアーデライードを抱きしめる。


「本当にありがとう、アデリィ! この旅は感動と驚きでいっぱいだ!」


 そうして口から魂の抜けたハイエルフをやっと解放すると、瑛斗は興奮冷めやらぬ様子で、幾度か飛び跳ねながらバク宙までして見せた。

 そんな瑛斗を愉快そうに眺めていたドルガンが、腕組みを解いて口を開く。


「ま、この出入り口に関しては幾つかあると言っておくぞい」

「そうなんですか?」

「うむ、しかしゴトーはワシらに詳細を語らなかった」

「俺もです。グラスベルの出入り口しか教えられていません」

「そうなれば、ヤツにはヤツの考えがあるのじゃろうよ」


 爺ちゃんの意図までは計り知れない。伝えなかったと言うことは、それが最善だと判断していた節があるのかも知れぬ、というのが六英雄たちの見解だったそうだ。


「だからの、エイトよ。他の出入り口は自分で見つけるが良いかものぅ」

「それはそれで、望むところです」

「ほぅ?」

「俺には俺の冒険がありますので」

「うむ。その意気やよしじゃ」


 ドルガンがニヤリと笑って、顎鬚を満足げに撫でつける。

 必要なときが来ればきっと見つかる。そして見つけ出すつもりだ。爺ちゃんの足跡を辿るだけじゃない。それが異世界での冒険で、異世界の歩き方に違いない。瑛斗はそう思うのだ。


「荷物はワシが預かろうて。お前さん、今日はもう帰るが良いぞ」

「わかりました。お言葉に甘えます、ドルガンさん」


 瑛斗はドルガンと固く握手を交わしながら深々と頭を下げた。


「それじゃ、ドルガンさん。レイシャとアデリィも!」


 瑛斗は元気良く手を振ると、レイシャは小さくグーパーと手をにぎにぎした。

 アーデライードは直立不動で後ろを向いたままだったが、こういうこともたまにあるので、瑛斗はさして気にしなかった。


「おう、また次の休日じゃな!」

「はい! みんな、ありがとう!」


 瑛斗は手を振りながら、次元の裂け目へと消えて行った。

 それを見届けたドルガンは、必死に堪えていた笑い声をやっと吐き出して、アーデライードへと振り向いた。


「ワッハハ、アデル! ありゃあ天然じゃて。お前さん苦労するのぅ!」

「……ひゃい」


 返事が返事になっていない。というか、今のは返事なのか鳴き声なのかも分からぬ。

 怪訝な顔でアーデライードの表情を窺ったドルガンがぎょっとした。

 たすたすと近寄ってアーデライードの顔を覗き込んだレイシャの表情も凍りついた。


「こりゃもう、いかんわい」


 そう言われても、アーデライードは硬直したまま身動き一つしない。

 林檎の如く真っ赤に頬を染め、トロけにトロけたトロけ顔で、恍惚として固まっていた。恋するハイエルフとは斯くいうものかという姿である。

 こんなにだらしない顔でも、彼女の美に曇りなしとは不思議でならない。むしろ上気した顔に艶めかしさが増しているとは、そんじょそこらの美人ではとても手に負えぬ。

 かと思えば、何かのスイッチが入った様にぴくんっと身体を跳ね上げて、唐突におろおろと慌て始めた。


「どどど、どうしよう……ドルガン……」

「何がじゃ」

「私、エイトにギュってされちゃった……」


 ふわふわと何処を見ているのか分からぬ瞳。確実にドルガンを見ていない。

 精霊の見えぬドルガンの目にも、恋の精霊が舞い踊っている様が見えそうだ。


「う、うむ、そうじゃな」

「ひぅぇえぇ……ねぇ、私ヘンじゃなかったかな?」


 ヘンじゃなかったかどうかと問われれば、今が一番ヘンである。


「まぁ、大丈夫じゃろ」


 ドルガンは適当に返したが、アーデライードは気付きもしない。


「あっ、匂いとか! 匂いとか大丈夫だったかな……?」


 アーデライードは小さな鼻をすんすんと鳴らせて、身体のあちこちを嗅ぎ始めた。


「ええい、大丈夫じゃて。落ち着かんか、アデル!」


 この憐れなハイエルフは、瑛斗の行為に何もかも粉微塵に打ち砕かれて、どうかしてしまったかのようだ。すっかり恋する乙女となってしまった彼女の足元では、小さなの草花が花の蕾をほころばせ始めている。


『もしかしたら、今日が瑛斗の大転換点になるかも知れないわ』


 などと言ってた自分が、大転換点をお迎えしてしまった気がする。

 いらっしゃいませ! ようこそ、大転換点!

 もしかして、これが運命の森の、運命の魔法なの?


「ああっ、神様! これは運命の旅なのかも知れない……!」


 もう、身体のあちこちがふわふわとして、何処に立っているのかもわからぬ程だ。


「レイシャ、こやつはもうダメじゃ」

「ん」

「こやつを運ぶのを手伝ってくれい」


 とととっと駆け寄ったレイシャが、心配そうにアーデライードの手を引いた。


「アーデリ、びょういん、いこ」

「や、そこまではええじゃろ」

「びょういんが、こい?」

「それもちょっと違うぞ」


 扱いの厄介なエルフ二人に囲まれて、ドワーフは一人弱り果てた。

 とにもかくにも、この森を抜けて街まで降りて、宿へ行き着かねばなるまい。そうして部屋へ放り込んでベッドへ寝かしつけるまでは、不安極まりない二人である。


「アデルよ、今日は街で大いに飲め、な?」

「ううん、今日は飲まない……」

「なんとな?!」

「ドルガン、今日は飲まないわ、私……」


 吃驚仰天のドルガンを一人置き去りにして、アーデライードはどうにも地に足がついていない足取りで、ふわりふわりと歩き始めた。


「こりゃ、アデル! どこへ行く気じゃ?!」

「だーいじょーうぶー。どこへ行っても外へ出られるわー」

「いや、そうかも知れんが……」


 運命の森の魔法で、どこへ行こうと元の入口へ辿り着く。

 行き止まりが入口で、出口へ向かえば入口へ出てしまう。

 どこか頓智の効いたような、不思議な魔法だと言える。

 今のアーデライードに相応しい、とはまた不思議なものだ。


「ああ、こりゃ重症じゃわい」

「アーデレ、こわれた?」

「そうじゃな」

「レイシャ、しゅうり、できない」

「ワシにも無理じゃわい」


 こりゃもう、やってられん。

 驚かせる方が期せずして驚かされた挙句、ワシまで驚かされるとは。

 アーデライードが飲まんとしても、今日は大いに飲んでやるわい。


 そう心に決めた、ドルガンであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る