カノン•カナン

Canarie

1章 子供の領分

第1話 薄灯り

朝4時半。ジャケットのポケットから携帯電話を取り出し、画面で時間を確認すると明け方だった。オフィスワーカーやビジネスマンならば活動していない時間に帰宅するのはしょっちゅうだ。自分には、これ以外に選択肢はなかった。これしかやりたいものもないし、これをやるべきだ。その考えが幼い頃からあった。そうして、後に退けなくなって行った。


今にも閉じそうな瞼を押し上げ、街灯を頼りにして鞄の中を覗き、鍵を探し出し、ドアを開ける。

一階のリビングに直行して、背中に背負っていたヴァイオリンケースと、手に持っていた鞄をソファに置いた。それから、すぐにその場を離れ、息子のヨハンの部屋に向かう。深夜や朝に帰ってくると、いつもこの順に足を運ぶため、何も考えずとも身体が動く。


起こさないよう静かに階段を上がる。階段の灯りをつけてしまうと、自分に似て神経質な傾向のあるヨハンは起きてしまうから、視界が見えにくくとも、つけないのが常だ。それに、慣れている自分にはヨハンの部屋の薄灯りでも階段を上がる頼りになる。ヨハンは、暗い部屋を怖がるため、部屋には就寝時にも薄灯りがついている。


自分は仕事柄、まだ8歳の息子を、夜中から朝方にかけて家に一人にしてしまうことも多い。その時、子どもの世話ができるハウスキーパーを呼ぶか、死んだ妻の母親のゾフィーに、ヨハンの世話と家事を頼んだりする。

今晩は、ゾフィーが来てくれている。この時間は、おそらくいつものように、妻のマリアが生前使っていた部屋で寝ているだろう。


疲労がピークに達したとき、ヨハンの顔が見たくなる。だが、今晩はそれが尚更だ。ヨハンを昨日から今日にかけ、悲しませたのは自分だからだ。ゾフィーから電話で、ヨハンが学校から帰ってきてから、寝るまでの間に泣いていたと言われた。原因が最近自分と口論になったことだったので、注意も受けた。それからずっと様子が気になっていた。本当は、ごめんね、と謝りたかった。

今晩も、そしてこれからも、謝ることはできない分、顔を見て頭を撫でたかった。


自分とヨハンが口論になったきっかけは、ヨハンがヴァイオリンを教えて欲しい、忙しく教えるのが難しければ、誰かに習いたいと言い出したことだった。


ヨハンには絶対にヴァイオリンを弾かせない。

これは5年前に死別した妻のマリアにも、ヨハンが生まれたときから、協力してほしいと言って来たことだった。

ヨハンがヴァイオリンやれば苦しむのは目に見えている。ヨハンがどんなに素晴らしい奏者に成長しても、彼の父親であり、名の通ったヴァイオリニストである自分と一生比較される。ましてやヨハンは目鼻立ちと黒髪が自分にそっくりなのだから尚更だ。


自分は何もかも切り捨て、ヴァイオリンで音楽を奏でることだけに向き合ってきた人間だ。だから人よりは弾ける。でも、それは決して楽しいものではなかった。

息子が自分と比較されて苦しまないようにするには、きっと息子に自分がやってきた以上にヴァイオリンにコミットすることを強いなければいけなくなる。まして、今から始めるのなら、自分は3歳から弾いてきたのに比べると5年も遅い。


ヴァイオリンをわざわざ今からやらなくても、ヨハンには既に、芽がいくつもある。これ

から沢山の物事に視界を開いていけば、さらにそれも増えていくだろう。

それらの芽を、自分よりも過酷な道を歩かせ、摘んだり曲げる勇気は持てない。


ゾフィーからの電話を思い出し、揺らぐ感情を抑えるために、ヨハンをわざわざ傷つけている理由を考えながら階段を上がる。そして、深呼吸してから部屋のドアを静かに開いた。


ヨハンの寝顔には、泣いた跡があった。涙が残っていたために、起こさないように拭ってやる。その手を、さらに上へ伸ばし、ふわふわと柔らかいブルネットの髪に、そっと乗せ、数回小さく静かに上下させた。しばらくして手を髪から離し、腕を曲げて手のひらを軽く握る。


薄灯りのなかで、右手の掌から不快な感覚が迫ってくる。自分の存在のせいで、ヴァイオリンへの純粋な興味を否定して、ヨハンにきつく当たってしまっている事実と、その罪悪感が、頭の先まで上っていくような気がした。

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