第35話 ハリネズミ
「君から呼び出すなんて珍しいね。何かあったか?」
リチャードは、アメリカにソリストとしての演奏に行ったついでに、少し前から急用ではないが話したいと言っていたジャニスに会いに訪ねる。
ジャニスは最近は情緒が落ち着いているらしく、不安定だったときのようにリチャードに縋ってくるのではなく、本来の彼女らしい気遣いを見せる。それはメールや電話の言葉からもわかっていたが、実際に会うと事前にリチャードが好きな茶菓子や紅茶を出してくれたり、上着を預かってくれたりと細やかだ。
「うん。、、リチャードにね、聞きたいことがあったの。先生も、父さん母さんも、教えてくれないから。私の記憶のことよ。
リチャードは私と付き合いが長いのでしょ?だから何か知っているかな、って。」
ジャニスはリチャードがソファに座ったのをみてから微笑んではいるが、澄んだ緑の瞳の奥をこちらを試すように鋭くして見つめていた。
「、、先生も、、精神科のバーナード先生もまだ話さないんだろう?最近は良いみたいだけど、もう少し元気な時の方が良いんじゃないか。私は君の担当医じゃないし、勝手に話せないよ。」
ジャニスは、過去の記憶が殆どヴァイオリンに関するものであるせいで、脳の自己防衛反応から過去の大半が抜け落ちている。それをジャニス自身、不安に思わないわけはないが、それを少しでも思い出すと怯えて怖がってきた。なので、リチャードは彼女が一歩踏み出そうとしていることに驚きと同時に感動も感じた。しかし、医師の許可がないことが気がかりな上、2度もジャニスを壊したくないという恐怖もよぎり、慎重に言葉を選んで伝える。
この場にジャニスの両親もいない。ジャニスのトラウマの元凶である自分が、彼女がまた壊れたら1人で対処できるはずはない。ジャニスはわざわざ彼女の両親が、ジャニスの調子が安定しているので久しぶりに2人で出かけたタイミングを狙って自分に聞き出したかったのだろう。
「、、、リチャードがビジネスマンなんて嘘よ、、。私、クラシック音楽に関するものを見るとなんだか不安定になるから、、コンサートホールやその周りは避けてきたけど、、、やっぱり、リチャードにばかり頼るのは嫌だと思って。この前通ってみたの。
そうしたら、」
ジャニスは取り乱さずに、心を壊す前の彼女を思わせる静かな口調で話しながら、ヴァイオリンを持ったリチャードの写真が出たフライヤーを見せる。
「!!、、、」
「リチャード、ヴァイオリニストなのね。それもかなり有名な、、。ネットも母さんに検索に制限かけられてるから今まで知らなかったけど。。、、私は、、私がクラシック音楽や楽器が、特に、、ヴァイオリンに関わりたくないことに関係があるの??
私はリチャードと、、どう言う関係だったの??ねえ、教えてよ!」
ジャニスは、リチャードの隣に座り、彼女の華奢な身体で、上背がありそれなりにはがっしりしたリチャードの両肩を持って揺さぶる。
「別に、君に私が会いに来るのは会いたいからだ。君に一方的に頼られてるなんて思ってない。、、それに、前も言ったが忘れてるのは忘れてしまいたいほどのことがあったからさ。
君ほどじゃなくても、人の脳は都合よくできてるらしくてな、忘れたい記憶は忘れやすかったり都合良い解釈に上書きされやすいと聞いたことがあるよ。私だってそうさ。だから、」
リチャードは壊れ物を持つように、ジャニスの華奢で透き通るように白い腕を自分の両肩から外し、緑の瞳を見て話す。
「へえ、、、じゃあさ、リチャードは私にプロポーズしてくれるの??定期的に会いにきて、普通じゃないくらい親身になってくれる。なのにそんなことは一切ない!!
指輪だってしてなくて独身なのに、良い歳の男性が、好きでもない女性に優しくするの??
しかも、記憶のない変なやつなのに??
理由があるんでしょ?話してよ!
私は記憶がなくて、頭がおかしいかもしれないけどそのくらいは分かるわよ!」
ジャニスはリチャードを見上げ、身振りもつけて叫ぶ。病気のせいで不安定なのではなく、本気で訴えており、涙ぐんでいる。
「頭がおかしいとか記憶のない変なやつとか!自分で自分にそんなこと言うな!
私は君が好きだよ!!ずっと、、昔から、、どんな、いつの君でも、今の君も、だ。それは嘘じゃない。」
リチャードは言ってジャニスを落ちつけようとハグしようとしたが、ジャニスはリチャードを渾身の力で跳ね除けたので、リチャードはソファの背もたれに倒れ掛かる。
「ジャニス、」
「本当のことを言っただけでしょ。
好き?笑わせないでよ。あなたは私を女としてはもちろん、友人としても見ていない。庇護する対象でしかない。
最近、気持ちが落ちついてみたら、、それがわかってしまった。。
私は今はフラワーアレンジメントで、あなたほどお金持ちじゃなくても食べていけるし、、記憶がない以外は落ちついていれば普通にできるのに、、父さん母さんやあなたに庇護されて迷惑かけて、そんなのは嫌なの!!
、、だから、憐れみや責任から私に会うなら、、二度と来ないで!、、さ、お茶飲み終わったら帰って。話してくれないんでしょう?」
ジャニスは一方的に言うとソファから立ち、リビングを出ていく。リチャードには彼女に自分がかけるべき言葉がわからなかった。
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