第176話
ヨハンは、イギリスからアメリカに戻って二週間後、父のブラームスのコンチェルトの演奏会を聴くため、ベルリンに滞在していた。父にも聴きに行くのは話してあるが、2日に一回はヨハンの様子を気にして下らない内容をチャットしてくる父には珍しく、「ありがとう、頑張るよ。」とだけしか返信がなく、少々気にはかかっている。
ブラームスのコンチェルトはもともと難しい曲だが、母が死んだ日に弾き、演奏のせいで母の死に目に会えなかったトラウマの曲だ。弾こうとすると数年前までは手が震えるのはもちろん、過呼吸になったり失神する有様だった。それをカザリンと一歩ずつ治療して迎え、最近は、手の震えも殆どなくなっていたが、不安でも無理はない。
(さすがの父さんもやっぱり不安なのかな。。
もっと励ませば良かったかな。でもプライドは高いしなあ、、まあ、父さんなんだからヴァイオリンではしくじるわけないか。)
ヨハンが少し心配しながら、今回のコンマスのハンスがチューニングを終え、団員たちが席に着席し待機しているのを見ていると、指揮者に続いて、父が入ってきた。
父はソリストをやる際の、いつもの特注の燕尾服姿で高い身長とすらっとした体格で相変わらず舞台映えしているが、自分を含めた観客は眼鏡がないことに驚き、一部の客は同行者と小声で話すなどし始める。
「、、リチャードさん、、そう、、。素顔に戻したのね。」
隣で祖母が安堵したように小声で言うのに、ヨハンは振り返る。
「戻すって?、、僕が物心ついたときには眼鏡してたけど、、」
「、、マリアが病気になってから、眼鏡かけ始めたのよ。それまではコンタクトだったのに。
—自分は顔が派手で女性が寄ってくる。病気のマリアに余計な心配かけたくない—
ってね。マリアは自分に自信があったしリチャードさんを信じているから全然気にしてなかったのに、、マリアが死んでからは、もう女性とは付き合わない!だから顔もこのまま隠すんだ、なんて話していたわ。」
「父さんが、、そんなことを??知らなかった、、。」
ヨハンは新事実に驚きながら、ヨハンは小さいころに父が寝かしつけてくれたときや、父が眠っているときに見たことのある素顔の父がソリストの立ち位置に立つのを目で追った。父は、指揮者のタクトを真剣な表情で見つめ、オーケストラの前奏が開始されるのを待った。
1楽章では若い時よりも格段に多彩になった音色や圧倒的な技術力に聴き惚れるうちにあっという間に過ぎた。続く2楽章は、ヨハンが以前CDで聴いた若い時の父の演奏の感情をぶつけるような過度な表現を行う様子ではなく、親が子に語るような、子守唄のような優しく情緒的な演奏が繰り広げられた。
その演奏に会場が耳を澄ませ、一部は涙し鼻をすする音もある中、ヨハンも少し視界が滲み、隣の祖母はハンカチで目頭を押さえていた。父自身も少し瞳が濡れていたが、一瞬だけ余韻を味わうように目を伏せた後、打って変わって険しい視線で指揮者と目を合わせてザッツをし、あまり間を開けずにアタッカで3楽章に入る。
2楽章から3楽章の変わり方に客席は唖然として、体当たりでもするような力強い演奏に聴き入っている。ヨハンも危うく呑まれそうだったが、懸念していた父の手の震えが大丈夫か気になり手元に視線を送る。父の手は演奏が凄まじいので客の注意は音に行っているが、やはり若干震えていたが、父自身がジプシー音楽風の激しく、高揚感がある曲調に入り込んで行くことで手の震えはなくなって行った。
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