第177話

3楽章が終盤に入り、ヴァイオリン•ソロの低音でのソロが始まってから、曲が終わり父が右手の弓を弦から高く上げて離すまで、ヴァイオリン•ソロとオーケストラが一体となった演奏に会場も一体となって聴き入り、演奏後は大きな拍手と多くのブラボーが飛んでいた。

ヨハンも立ち上がりブラボーを父に向かい飛ばす。当の本人は、今回ばかりはトラウマの曲で不安だったらしく、演奏が終わった途端、片手で目頭を押さえて俯いてしまっており、指揮者によくやった、と言うように背中を叩かれている。


次々に客が立ち上がり喝采を送るのを見て父はようやく顔をあげ、目はまだ少し潤んでいたが微笑んで、客に対して礼を取った。

その後、ハンスと指揮者と握手してから、一旦幕に下がり、拍手が続くのでヴァイオリンを持ったまま出てきた。


父は特に何か話はせずに、ヴァイオリンを構え、アンコールを弾き始めた。曲は父の十八番でファンなら絶対に聴きたいパガニーニのカプリースから、17番ホ長調だ。24番ほど有名ではないがメロディーも美しい上に難易度が高く、パガニーニ自身が演奏会でアンコールによく弾いたと言われている。

長さは4分半程度のため、客はまだ聞きたい様子で拍手が続く。

それは想定していた様子で、父は今度は微笑んでヴァイオリンを片手に持ったままマイクを係員から受け取り、話し出した。


「本日は、ご来場頂き本当にありがとうございました。、、ブラームスのコンチェルトは、若い時には私の一番好きなコンチェルトであり、またありがたいことに周りからも得意な曲として評価いただいていましたが、、しばらく、私がこの曲に対して、最良のアプローチができずに納得できない状態で、お聞きいただくことを控えていました。でも今晩は、皆様やマエストロ、楽団、そして公演に向けて携わって下さったスタッフの方々のおかげで、私の今、出来うることを弾けたと思います。本当にありがとうございました。」


ヨハンにしてみれば、ステージでのパフォーマンスの完璧さや、コメントの行き届いた配慮は、普段の不安定な精神の、ヴァイオリン以外は頼りない点もある父とは別人のようだが、その別人のような周到さを見ると、舞台人としては一流なのだと納得せざるを得ない気持ちになる。


一度はヴァイオリンに挫折し、芸で食べて行くのは諦めたのに、そのような父に追いつけず悔しいという気持ちを最近のヨハンは感じていた。

今日の文句のつけようがない熱演を見たことと、イギリスで父から、再度ヴァイオリンを弾くことについてやっと認めてもらえたことで、自分の心に火が灯つつあるのを感じる。挫折した際の命さえ投げ出そうとしたほどの虚無感は怖いが、恐怖と灯がせめぎ合う。


(今日は父さんの応援に来たんじゃないか、自分の演奏なんか趣味でやってるんだし二の次だよ、、何考えてるんだ、、もう、、。)


「、、これから弾かせて頂く曲ですが、初演となります。作曲者は、、音楽を専門に学んだ才能ある友人ですが、、現時点ではJ.Sとさせてください。


、、もちろんバッハではありません、名前から取ったイニシャルですが、、近々このJ.S氏の弦楽曲を仲間と弾かせて頂くプロジェクトを発表予定です。そのときまで、作曲家の以降で本人の名前は伏せさせて頂きます。

、、そして、、私の演奏活動ですが、そのプロジェクトを持ってしばらくお休みいたします。

、、楽団のコンマスも退任となります。」


会場が謎のイニシャルと、続く唐突なプロジェクトの話、さらには引退のにざわつく中、ヨハンもどの話も初耳で、特に引退については寝耳に水で父を思わず凝視した。父は冗談も交えて場を和ませようとはしたが、引退の話に会場が一気に葬式のような雰囲気になる。楽団員たちはあらかじめ引退については知っていたらしく、動揺した様子はない。


(え、、引退??なんでだ??あんなに絶好調なのに??それにそんな重大なことを僕に黙って、、)


「、、唐突な話ばかりで申し訳ございません。詳細は明日以降、ホームページに載せ、記者会見も行わせて頂き、お話しいたします。

、、、J.S作曲、曲名は「祈りの光」です。

私が依頼して書いてもらった無伴奏ヴァイオリン曲です。」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る