第9章 舞踏への勧誘
第122話
イザベラは、ライブハウスの最後列の席に、黒い地味なキャップ帽のつばを目鼻立ちが隠れるように下げて座る。服装もヴァイオリニストとして名が知られてから着ている服とは変えて、薄紫と白のトレーナーに、ジーンズと運動靴にした。ヴァイオリンも、持っていたら目立つのでマネージャーに預けてきた。
長い金髪も普段はポニーテールだが垂らし、顔が見えにくいようにした。自分がヴァイオリニストとしてそこそこ知られてきたため騒がれたくないのもあるが、何よりもヨハンに見つかりたくない。自分はヨハンと、1年前半に別れてから一度もまともに話せていない。ずっともう一度日常的に会いたい、手を繋ぎたい、話したい、顔を見たい、そう思ってきたが、ヨハンには自分の存在は苦しみでしかないのだ。せっかくヴァイオリンをもう一度手にしたヨハンの邪魔をしたくない。
ヨハンはクラシックはもう弾かないようだが、今やジャズの本場とも言えるこのアメリカで頻繁にアマチュア向けのライブハウスで出演し、その演奏はいつも好評だ。
少し調べたところ、アメリカに来て1年が経った今では、たまにアルバイトでセミプロやプロと肩を並べて弾くことすらあるようだ。
ヨハンが所属する名門大学のジャズカルテットはもともとインディーズでCDを出すほど上手いようだが、ヨハンが入ってからはより人気が上がっている。
ヨハンの父親で、イザベラの恩師であり、クラシックのヴァイオリンに関しては右に出る者がいないリチャード•レイノルズも、それは知っているほどだ。遊び半分、とまだ思っており微妙な表情で3ヶ月前に会ったときは話していたが、この勢いだとレイノルズすら黙らせる可能性もある。
(レイノルズ先生もきっとヨハンが力を発揮すれば喜ぶわ。私とはもう分野が違うし、、二度と話せることはないけど、、こうしてたまに聴いたり遠くから見つめるくらいはしたい。
だって、、あれから色んな男性にも接したけど、ヨハンとどうしても比べてしまう。私にはヨハンしかいなかったんだよ、、他の人が素敵なとこがないわけじゃない。でも、ヨハンのほうが私には素敵に写る。絶対に他の誰かと付き合ってもヨハンほどじゃないって思って駄目。
ヨハンがヴァイオリンを生き生き弾いていたら嬉しいけど、私はヨハンが弾いても弾かなくても、、ヨハンが好き。)
イザベラは、ヨハンが他の3人と一緒に登場しながら名前を叫ばれたりして人気な様子なのを見ながら考える。
ヨハンは真面目な性格は変わりなく、いつも通り喝采やコールにも丁寧に手を振ったりして応えてから、ピアノと合わせてチューニングをして、自然なタイミングでセッションを始めた。
性格や、ヴァイオリンに関してはピカイチの技術力は変わっていないが、以前より笑顔が増え明るくなった気がする。
少し気になったのは、アメリカに来てからベルリンにいた頃のストレスの拒食も完全に治り、長身に対して不健康に痩せすぎていたのが健康的な細さになり、肉がついたり筋肉がついたことだったが、今日は少し痩せて見える。
もちろん別れた頃の拒食に苦しんでいた時のようではないが、筋肉は減っていないものの肉は減っている。照明のせいかもしれないが、少し表情に疲れも感じる。
(どうしたのかな、、名門大学だし、勉強も大変なのにジャズで人気になって、上手いからオケ部でも引っ張られてるみたいだし疲れたのかな、、。周りのメンバーは止めないの?ヨハンは頑固だけど、、頑張りすぎちゃうし繊細なのに。あたしなら絶対に止めるのに!)
イザベラがやきもきしながら見ているうちに、演奏がヒートアップし、ピアノの黒人と白人のハーフの女性メンバー、アクセルとの息を合わせたデュオが始まった。2人以外のコントラバスやサックスも演奏はしているが伴奏的な役割で、2人がクローズアップされている。
これまでヨハンたちの演奏を4回聴いているが、彼女のピアノはクラシックでも通用するような技術もあり、ヨハンとはとても息が合っている。2人は見つめ合ったりもして、時に微笑みあったりもして心から楽しそうにデュオを行う。
演奏が素晴らしい上、2人とも外見も絵になるような美男美女なのもあり、他の客が盛り上がる中、イザベラは自分がヨハンとはあんなふうな演奏ができないこと、演奏どころかただ見つめ合うことすら叶わないことが悔しく、アクセルが妬ましくも感じた。同時に、かつては自分もヨハンと一緒に演奏していたこと、ただ微笑みあって時間を共有していたこと、その記憶が蘇りますます腹が立つ。
悲しいのはそれだけではない。自分はヨハンと数年間恋人だったのに、しっかりしたヨハンにいつも何かしてもらうばかりで、ヨハンが心身を病んだ時には何もできなかったのだ。それなのに、アクセルはたった一年でヨハンに生き生きと演奏させ、あんなに楽しそうな笑顔にすることができる。いくらヴァイオリンを褒められても、自分にはそれができない。それが心から悔しい。
自分がレイノルズに習わなければ良かったのだろうか。上手くならなければ良かったのだろうか。でも、ヨハンはそれを望まなかった。ヨハンは別れるときも、「君が君らしく輝いてほしい」と言っていた。ヨハンにヴァイオリンの実績で差がついたことで一方的に避けられ、振られてしまったのはとても悲しかったが、その言葉を支えに、たまにヨハンに顔立ちや雰囲気が似通うリチャードにも会って面影を懐かしむことで、どんなに大変なリハーサルも練習も、最近感じるようになったプレッシャーも乗り越えてきた。
他にどうしたら良かったのだろう。自分も、ヨハンも、レイノルズも誰も悪くないはずだが3人とも苦しまなければいけなかったのはなぜだろう。そして、ヴァイオリンがなければ自分とヨハンが出会うことはなかった。何が正解だったのかわからないが、目の前の光景はまるで自分のやり方が間違いだったと言われているかのようだ。
考えているうちに俯き、涙が溢れてきてイザベラは演奏も佳境だったが席を立ち、逃げるようにライブハウスを出た。注文して少しだけ飲んだカルーアミルクは全く減らず、テーブルに寂しく佇んでいた。
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