第11話 アイスボックスクッキー
ハンスは、レイノルズが右手の傷が痛むのか小さく呻いてから松脂を落とすのを見て、楽屋でそれを拾って渡す。
「大丈夫ですか?、、範囲は広くないけど、結構深い傷なんですね。手を怪我されるなんて。」
ハンスは松脂を拾って渡しながら、右手の包帯を直しているレイノルズに言う。
ハンスはたまたまネクタイを忘れて楽屋に戻ったが、レイノルズは包帯を直すのもあり、リハーサルとコンサートの短い合間に楽屋に一人戻ったようだ。
「ああ、、ありがとう。見た目は大袈裟だけど大したことないよ。皿を割ってしまってね。
、、ネクタイ忘れたのか?リハ中は外していたからか。、、お前は結構天然だよな。」
「あはは、、天然かはわからないけど抜けてるとは言われますね、気をつけます。
、、お、甘いモノ好きなんですね。美味しそうなクッキーが、、、。」
ハンスは包帯の近くにクッキーらしき袋があるのを見て微笑んだが、そのアイスボックスクッキーの不恰好さに遠い記憶を思い出し、いつもは童顔と言われがちな顔が険しくなる。
「お前も甘いの好きだもんな。いくつか食べて良いよ、みんなにも分けるつもりで持って、、ハンス?どうかしたのか?」
レイノルズはいつも穏やかで大人しいハンスがただならぬ表情なのを見て、微笑は崩さなかったが疑問に思いながら訊ねる。
「あなたが、どうしてこのクッキーを持ってるんですか!!こんな不恰好なクッキーは、、あの人しか作らない!ジャニスさんの居場所を知ってるんですか!あなたと確かに同世代でしたよね。ご友人なんですか?」
ハンスは形相を変えて詰め寄る。レイノルズは椅子に座ったまま、しまったと思いながらも首を振る。
「何のことだ?これはイギリスの知り合いが、」
「とぼけないでください!!手順が簡単なクッキーをそこまで不恰好に作る人なんてそんなにいません!どうなんですか!
前に話しましたよね、僕がヴァイオリンを上手くなりたいって思った理由を。。
僕の家はスイスやオーストリアに接するミッテンヴァルトのヴァイオリン職人が家業で、、僕が小さい頃ジャニスさんがよく楽器を見に来ました。それで、、とても素晴らしいヴァイオリンを聴かせてくれて。僕に優しく教えてくれた!生きているならまた会いた、」
「会ってどうする?
彼女はヴァイオリンに関するすべての記憶を、精神的トラウマから健忘してる。私の存在以外は全てな。私のことだってヴァイオリンに関することは抜け落ちてる。きっとお前のことも覚えてない。ヴァイオリンの構え方すら思い出せないんだから。
、、会えば傷つくのは彼女だけでは済まない。、、お前も傷つく。会いたいのはお前が過去の思い出に浸りたいだけだろ?なら居場所は教えない。」
レイノルズは包帯を巻き直し終わってから松脂を弓に塗ってから立ち上がる。
「じゃあなんであなたは彼女に会うんですか!!あなただって、、過去の思い出に浸りたいんだ。違うんですか?」
「とにかくあと20分で本番なんだ、準備に戻ってくれ。この話はコンサートが終わってからだ。」
レイノルズはハンスに背中を見せて先に出ていき、言い捨てる。
「嫌です!!こんなことを知っていつも通りになんて弾けない!彼女はあれから何をしているか不明だったのに、生きていたのがわかった!話を聞かせてください。」
「逆だ。これ以上聞いたらもっといつも通りには弾けなくなるに決まってる。それに、お前はアマチュアじゃなくうちの副コンマスなんだ。これくらいで動揺して弾けないなら不適任だよ。」
レイノルズはハンスに呼び止められても振り返らずに返し、話を無理やり終わらせてドアを閉じた。
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