第7話 愛子夫の兄・久保への引け目





 そのとき、廊下を荒々しく蹴り立てる足音が迫って来た。

「どうじゃな、室よ。出立の用意はできたかな? 何か不自由はあるか?」

 ふだんは限りなく不愛想なくせに、如何にもわざとらしい作り声。妻の亀寿ノ方さまより短い肢体をちゃかちゃか動かす家久の所作は、さながら玩具の鼠である。


 ――げげっ、気色わるっ! 


 全身の毛穴を全開にして忌避しながらも、お涼はいたって丁重に平伏してやる。

 亀寿ノ方さまのためなら、何だって出来る。どんな嘘だって平然とついてやる。

 

 だが、国主の特権とばかりに手当たり次第に女を漁る家久の目には、中肉中背の筋肉質で嫋々じょうじょうとは縁遠い侍女など壁や畳にしか見えぬらしく、一顧だにされぬ。


 すうっと表情を消された亀寿ノ方さまに、家久は性急に畳み込んだ。

「なあ、室よ。できればわしとて、かような仕打ちはしたくないのじゃよ」

 心にもない空言に、亀寿ノ方さまは昂然と面を上げられたまま微動だにされぬ。


「だが、わかるじゃろう。その……中央がな、何かと注文を付けて来おってのう。まあ、これを申しても詮無いことではあるがの……ほれ、そなたは子どもを産めぬ身ゆえ、世継ぎを考えれば、中央としても何かと口を出したくなるのじゃろうて」


 顔を背け、微かに眉をしかめられた亀寿ノ方さまを目ざとく見咎めた家久は、「む。さような顔をするでないわ。それだからそなたは可愛げがないと申すのじゃ」堪え性もなく、いきなり激情を叩きつけた。饐えた深酒がぷんと匂う。


 ――はぁ? お子がお出来にならない? 何を寝惚けた世迷い言を……。


 丁重な平伏を放棄したお涼は、顔を上げ、怒りの矢束をぴゅっと家久に放つ。


 文武両道に優れ、有徳のお人柄も相俟ってご人望が厚かった兄上の久保さまとは文字どおり月とすっぽんの浅学愚弟である(蹴鞠が唯一の趣味とは何ともはや……)。


 その小身が分不相応に第18代島津当主としての威勢を張っていられる由縁は、ひとえに先代の義久さま、ならびにご令嬢の亀寿ノ方さまのおかげであろうが!


 なのに、ひとたび家督承継が完了するや、大恩ある義久さまを露骨に蹴落とし、疎ましい血を根絶やしにせんとばかりに、亀寿ノ方さまの閨に近付こうともしなかった。卑劣きわまりない事実を城内のだれもが知らぬとでも思っているのか?


 「これ、室よ。何とか言わぬか。こう見えて、わしとて暇ではないのじゃぞ」

 目障りな妻を一刻も早く追い出してしまいたい家久は、性急に畳みかけている。


 上には平身低頭しつつ、下には威張り散らす小者の常で、太閤秀吉への取り入りが巧みな家久は、その秀吉に瓜ふたつの容貌から「猿二代」と陰口されているが、こうして見ると、たしかに! 猿の国の国主の生い立ちを、お涼は反復してみた。



       *



 生まれ落ちたときから「部屋住み」が宿命の3男坊。どこぞの有力大名に婿入りして大過なく過ごせれば儲けもの……その程度におのれの人生を値踏みしていた。


 そんな覇気のない男に、思いもよらぬ運が転がり込んだのは18歳の春のこと。

 だが、揺すぶった覚えもない棚からとつぜん降って来た牡丹餅をわがものとするには、「兄の未亡人を妻に迎える」という一大条件を呑まなければならなかった。


 美男美女で知られた兄夫妻は、雅な内裏雛のように華麗な一対だった。そこに割って入らねばならぬ家久の憂鬱は、たしかに相当なものであったろうとは思う。


 ゆえに、舅憎さのあまり、愛娘の亀寿ノ方まで遠ざけたと周囲は思っているが、容貌から見識まで、ことごとく愛子夫いとこせの兄と比較されることを恐れる余り、迂闊に手を出せなかった……というあたりが、案外、本当のところかもしれなかった。


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