第34話 家久の陰謀に呼応する家康





 10月12日酉の刻。

 人払いした奥御殿で、お伊都姫は声をひそめながらも喜色を露わにしていた。

 恋の手ほどきや逢引きのお膳立てを手伝ったお涼も、上々の首尾に鼻が高い。


「それもこれも、そなたの心尽くしのおかげじゃ。心から礼を申しますぞ」

「滅相もござりませぬ。『亀寿組』のご大義に天がお味方くださったのでございましょう。ご吉報を伺った亀寿ノ方さまも、たいそうお喜びでいらっしゃいました」


 ひらひら手を振って謙遜しながらも、お涼は湧き上がる興奮を抑えきれない。

 うれしそうに何度も首肯していたお伊都姫は、あらためて膝を乗り出して、

「ところで、こたびの件じゃが、事前にいささかでも相手方に不審を抱かれることは絶対に避けねばならぬ。でな、またしてもそなたに頼みがあるのじゃ。身籠ったことを悟られぬようなとぎの所作をな、茅乃に教えてやってほしいのじゃ」

 それこそ、くノ一の腕の見せどころ、お安い御用である。


 

      *


 

 11月1日(陽暦12月21日)酉の刻。

 鶴丸城下の町屋の外れ、「艶」と大書された深紅の一枚暖簾が下がっている。

 その道向かいに、白髪の老爺と老婆が営む鄙びた茶店があった。

 早々に店仕舞いしたあと、年季の入ったすだれが取り残されている。

 格好の隠れ場所だ。忍者装束のお涼は、素早く簾に身を入れた。


 日は暮れきっていないが、人通りは、ぱたっと途絶えた。

 黒い犬が1匹、埃っぽい道の真ん中に立っているばかり。


 そのとき、残照の中から1挺の駕籠が現われた。

 駕籠かきに付き添う供の者は、左右に2名のみ。


 近付くところを見れば、地味な男駕籠。

 どこのお武家やら、家紋も判然とせぬ。

 男駕籠が深紅の暖簾に入りかけたとき、


 ――殺気!


 全身の毛孔を耳にしたお涼は、低く腰を落とし、蟹のように両腿を踏ん張る。


 ――ピュッ!


 男駕籠を目がけ、黒いつぶてが空を切る。

 影絵のごとき供侍どもが太刀を抜く。

「カツッ!」

 擦過音と同時に、お涼は宙を飛ぶ。

 一回転して起き上がったときには、

「ピュッ、ピュッ、ピュッ、ピュッ!」

 4連発で手裏剣を打っていた。


 と、蜘蛛が湧くがごとく、黒覆面の一団が現われた。

 無数の手裏剣がいなごのように空を掻っきる。

 一瞬の隙を突き、男駕籠が紅暖簾に雪崩れ込んだ。

 招じ入れているのは、もちろん女衒の揚羽である。


 多勢に無勢と逃げて行く敵は5、6人。

 その内のひとりは負傷しているらしい。

 

 ――あの焦茶の袴は、たしか竈局かまどのつぼねの……。


 お鍋だの五徳だの、奇名好きの信長も吃驚きっきょうの仇名は、嫌われ者の老姥だった。

 たしか西条局とかいったはずだが、気の毒にも本名で呼ぶ者はだれもいない。


      *


 先代・義久公が没する前の年、隠密裏に大坂へ上った家久は徳川家康に謁見し、

「まことに僭越ながらお願い奉ります。ご3男の中納言(秀忠)さまのご子息を、ぜひとも、わが島津のご養子にお預かり致したく、伏してお願い奉ります」

 蛙の面に何とやらの厚かましさで、前代未聞の所望を行った。

 もちろん、一笑に付される状況を重々見込んだうえで……。


 その当時の家康は、念願の天下取りを前に、最も遠隔地の九州の手なずけに苦慮していたので、飛んで火にいる夏の虫とばかりに、家久の本心に易々と呼応した。


「言いも言ったり、まことにい心掛けじゃ。如何なわしとて、おいそれと孫を養子にはやれぬが、後継ぎを切望する心情は、国主としてもっともである。もし奥方に子ができぬのなら、やむを得んだろう、よその腹を恃むがよろしい。いやいや、おぬしほどの男前ならば、相手はいくらでもいよう。はっはっはっはっ」


 家康はここぞとばかりに鷹揚なところを見せたそうな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る