第35話 家久の乳母・竈局の野心



 

 思惑通り中央の言質げんちを採り付けた家久は、狂ったように女漁りを始めた。いや、家康公のお墨付きを得て、秘密裡から正々堂々に転換したと言うべきだろう。


 城主の女狂いをだれよりも喜んだのは、ほかならぬ家久の乳母・竈局だった。

 乳をもらい、襁褓むつきを替えてくれた乳母には、さしもの家久も頭が上がらない。

 かげでやんやと家久をたきつけ、目障りな正室・亀寿ノ方の追い出しに成功。

 粗暴な野心丸出しで奥御殿の采配に、思うさま権勢を振るっていた老乳母は、


 ――この上は、われらの息が掛かった女がお屋形さまの側室になり、さらに男子を産めば、われらの地位は盤石。奥御殿はおろか、国の仕置きまで、思うがままに操るのも夢ではない。


 自ら竈組へっついぐみと称する悪辣な一派と共に、よからぬ算盤そろばんを弾いたに違いない。


 ――なるほど、家久をほかの女に近付けたがらぬ由縁だな。


 だが、大義に逸る「亀寿組」の棟梁・兄弟子どのと、亀寿さま命のこのわたしがいる限り、竈ごときの思いどおりにはさせぬ。せいぜい吠え面を掻くがよいわ。


 男駕籠が店内に入る様子を見届けたお涼は、即座に移動し、ふたたび物陰に身を潜める。今度は「艶」の斜向かいにある、一銭駄菓子屋のひしゃげた軒下である。


 やがて。

 日没と共に煌めき始めた天の川からの降臨のように、1挺の男駕籠が現われた。

 遠目にも格調が高そうだが、こちらも家紋は見えない。

 供の武士は10人ほどか。

 全員が笠の面を伏せている。

 お涼の前で直角に向きを変えた駕籠は、深紅の暖簾に、すいっと吸い込まれた。



      *



 半刻後。

 お涼は「艶」の店の外で、揚羽に誇らかに告げていた。

「揚羽どの。吉報です。『亀寿組』の大願成就に大きく一歩近づきましたよ」

 揚羽はふだんは鋭い眼光を別人のように和らげ、

「すりゃ、まことか。お涼どの、でかしたではないか。大仕事を成し遂げたのう」

 褒められたお涼は、ふと涙ぐみたくなった。


 感極まったお涼から、揚羽は目を逸らせ、

「如何いたした? 泣いたりすれば、せっかくの幸運が逃げてしまうじゃろう」

 お涼は慌てて袂で涙を拭き、赤い目で揚羽を見上げる。

「茅乃姫さまのお目出度をお聞きしたとき、わたしは神のご加護を思いました」

 乙女のごとく懸命に訴えるお涼に、揚羽は柄にもなく照れている模様。


「まあ、何だな。水は高きから引きへ流れるっちゅう、当たり前の道理じゃろう」

「はい、まことにさようにござります。神さまはご覧になっておられるのですね」


 今夜のお涼は何処までも素直、意地を張ったりはしない。

 それに揺り動かされたのか、不意に揚羽が近づいて来た。


 がっしりした腕を伸ばし、もう少しでお涼の肩を抱き寄せかけたが、

「お、いけねえ。万全の準備を整えねばならぬゆえ、かようなことはしておれぬ」

 すっと、手と視線を外した。

 

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