第36話 いよいよ家久に……茅乃姫
戌の刻。
お涼が潜んでいるのは、趣向の粋を凝らした特別迎賓室の天井裏。
目の下、1丈(3メートル)足らずの畳の上に、大輪の牡丹が咲き乱れる華やかな夜具が延べられている。
唐風模様の煌びやかな幔幕。
美麗な花茣蓙を敷き詰めた床。
真新しい晒で覆われたふたつの箱枕。
唐風の凝った細工の煙草盆。
白もん(白薩摩)の水差しと湯飲み。
そして、ゆらゆらと白檀の香……。
――万事、抜かりなし。
とそのとき、ひそやかな衣擦れの音がした。
揚羽の案内で部屋に入って来たのは、
母親のお伊都姫と瓜ふたつの華奢な肢体に、豪奢な絽の小袖を纏っている。
紅、桃、黄橙、浅黄、深緑、水、灰、紫紺……鮮やかな色糸が咲き乱れる百花を透かし出し、薔薇、牡丹、水仙、菖蒲、朝顔、百合、蓮、桔梗、菊、萩などが咲き競う花園から、いましも1羽の鶴が清潔に白い羽を広げて飛び立とうとしている。
行燈の仄かな明かりに、帯の金糸銀糸の縫い取りが妖しげな光を放っている。
大人ぶりに結い上げた髪には、枝垂れ咲く桜の
涙のごとき花びらが小刻みに震えている。
やがて。
荒々しく床を踏み鳴らす音が聞こえて来た。
「殿、しばしお待ちくだされ。かほどに急がれずとも……」
「その急かれよう、如何にもお見苦しゅうございまするぞ」
「一国の国主には、国主としての威厳が必要かと存じ……」
家臣が口々に戒める声も追って来る。
「ええい、つべこべぬかしおって。そなた共はあっちへ行っておれっつうに」
湯気が立つばかりに興奮して押し入って来たのは、ほかならぬ家久だった。
「こら。何をしておる。おまえもとっとと失せろ。女衒のくせに気の利かん奴だ」
揚羽も追い出した家久は、狩を愉しむ鷲のような目で今宵の獲物を睨めまわす。
哀れ茅乃姫は、寝具から最も遠い場所に、小鳥のように射竦められていた。
「おお! 最高の上玉ではないか。揚羽の奴め、いままで何処に隠しておったのじゃ。国主に出し惜しみするとは女衒として実に怪しからん。どぉれどれ、さように怖がらずともよいわ。ははは、何もせぬ、もそっと、こっちへ来るがよい」
耳朶の繊毛まで
眼下の茅乃姫は堅く目を瞑り、悍ましさに堪えている。
打ち震える雛鳥に、野獣の狩猟本能はますます昂ぶる。
――ぽろん。
茅乃姫の襟元から、手鞠模様の
――これもまた、お伊都姫さまの母心……。
見守るしかないお涼の胸は、ぎゅうっと切なく絞られた。
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