第80話 夕餉の汁椀に毒物混入の一件




 

 今宵、お摩耶ノ方さまの身に、とんでもない災厄が降りかかる。

 命運はわが手ひとつに委ねられている。

 疾走するお涼の念頭にあるのは、先刻、卜占婆が告げた一事のみ。

 お涼はかつてない緊張と興奮を覚えていた。


 鶴丸城の奥御殿には、一見、平穏な日常が展開しているやに見受けられた。

 上辺はきれいに着飾っていても、肚の底にはとんでもない邪鬼を棲まわせている7人の側室たちも、いまはそれぞれの居室で、夕餉の膳に向かっているらしい。


 お涼はお摩耶ノ方の部屋の天井裏に潜む。

 侍女がしずしずと簡素な夕餉を運んで来た。

 平日の食事は、国主といえども一汁二菜。

 質実剛健を旨とする島津77万石の仕来りである。


 ――さて、今宵の献立は?……。


 入念に確かめる。

 蜆の吸物。茄子と南瓜の煮物。香の物……。

 いずれに危険が潜んでいるか、くノ一の勘で察知するしかない。

 お涼は昆虫の触覚のように、第六感を集中させた。


 今宵のお摩耶ノ方は、秋空を飛ぶ雁の模様の大人びた小袖を纏っている。

「何やら胸がむかむかする。今宵は欲しゅうない」

 顔を背けるお摩耶ノ方を、年嵩の侍女がたしなめている。

「さように仰られず、少しでも召し上がっていただかないとお身体に障りまする」

 仕方なさげにお摩耶ノ方の袖が伸び、優雅な仕草で朱塗りの汁椀の蓋を取った。

 薔薇の蕾のごとき唇に、椀の縁が宛がわれる。


 ――ピシッ!


 天井裏のお涼が打った小石が椀に命中する。

 お摩耶ノ方が口の中で何事か小さく叫んだ。

 無様に転がった汁椀は、華やかな花茣蓙に見る見る不気味な変色を広げて行く。

 すかさずお涼は、ふところに忍ばせた女郎蜘蛛を放つ。

 濡れた花茣蓙に降りた蜘蛛は小さな手足をバタバタさせ、たちまち絶命した。

 

 

 騒ぎを聞いた家久が、帯刀して駆け付けて来た。

「だれじゃ? お摩耶にかような物を運びおったのは!」

 猿面を赤黒く膨張させ、駄々っ子のように喚く。

「申し訳ござりませぬ。わたくしでございます」

 お運び役の侍女が、わっと泣き出した。


 短気な家久は早くも腰の物に手をやる。

「おのれ。許さぬぞ」

 いまにも斬り付けそうな有り様に、慌ててお摩耶ノ方が割って入る。

「殿。何卒ご堪忍くださいませ。この者がわるいわけではござりませぬ」

 お摩耶ノ方に取り縋られては、さしもの家久も矛を納めぬわけにはいかぬ。


「では、だれがかような不埒を働いたのか、徹底的に調べ上げるぞ。よいな、覚悟しておけ。必ず下手人を探し出して成敗してくれる。首を洗って待つがよいわ」

 足音荒く立ち去った家久と入れ替わりに、取り調べの目付衆が供連れでやって来て、まずはお運びの侍女を、次いで居並ぶ侍女たちを順に取り調べ始めた。


「ん? そなたが受け取ったとき、汁椀の蓋が微妙にずれていたと申すのか?」

「はい。ちらと不審が頭を掠めはしたのですが、まさか、かような大事に至ろうとは……」お運びの侍女は恐縮しきって、蚊が羽を擦るがごときか細い声で答える。


「では、訊ねるが、お台所で調理した者はだれじゃ」

「いつものとおり、幽典どののはずにござります」

 目付衆は、じろっと侍女を見た。

「む。はずとは何じゃ、はずとは! そなた、お運びの自分の目で確かめなかったのか?」

「今宵はお取次の笛野さまが台所の外まで運び出してくださったので、お任せを」

「笛野とはたしか、竈……いや、西条局お付きの侍女でござったな……」

 言い淀んだ目付衆は、一瞬、押し黙り、取って付けたように念押しする。


「されば、もう一度、確認する。他の者は、こたびの一件、与り知らぬのだな?」

 揃って蒼白の顔を並べた侍女たちは絡繰り人形のように一斉に首を上下させた。


 有耶無耶のまま目付衆が立ち去ると、大仕事を成し遂げたあとのごとき虚脱が、部屋中に拡散した。

 お摩耶ノ方は侍女に介助されながら、厚手の羽二重の寝衣に着替え始めた。

 夜具に身を横たえるお摩耶ノ方を見届けてから、お涼は天井裏を退去した。

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