第40話 傘張りに身をやつした元薩摩武士




 

 ぷんと味噌の匂いがする。

 浅漬け、酢漬け、古漬け。

 漬け物樽の匂いも強烈だ。


「お客さん、ずいぶん凝っていらっしゃいますね。さぞ、お辛うございましょう」

 筋張った肩を解しながら、お涼は瞬きもさせぬ視線をあらぬ方角に向けていた。


 成りきってしまうのが忍。

 だれにも怪しまれぬよう。

 自分自身すら騙している。


 客は、還暦前後か。

 筋張った表皮の下に、ごりっと確かな手応えがある。

「間違っていたらごめんなさいよ。お客さん。もしや、お武家さまでは……」


 ――ぴくん。


 うつぶせの肩が跳ね上がった。

「わかるか。如何にも拙者は、生粋の武士の出じゃが……」

「ああ、どおりで。これほど見事な筋肉は、一朝一夕には仕上がりませぬゆえ」

「まさに積年の鍛練の結果じゃ。それにしても、おぬし、ただの按摩ではないな」

「いえいえ、滅相もございませぬ。単なる商売の勘でございますよ」

 お涼は急いで取り繕う、ふうを装う。


 幸いにも、客は、自分に都合のいい解釈をする性質であるらしい。


「ふむ、そういうものか。まあ、あれだな。来る日も来る日も客の身体に掴まっておれば自ずから筋肉の付き具合がわかるようになるのじゃろう。ふむ、道理じゃ。こう見えて、拙者、仔細あって傘張なんぞしておるが、元はといえば、伯囿はくゆうさまのご家臣の、さらにご家臣にお仕えした身なるぞ。日新公じっしんこうさまよりこの方、ご一族ご念願の『三州統一』にも、思う様、この腕を振るうたものじゃ」


「さようでございましたか。どおりでご鍛練のほどがちがいます。伯囿さまと日新さまといえば、現在のご領主さまの、ご祖父と曽祖父さまでいらっしゃいますね」


 お涼の相槌を喜んだ元武士は、さらに勢い付いて、

「如何にも。まあ、あれだわな、言うてみれば、現在の島津があるのは、拙者どもの働きのおかげ。申し上げるも憚られるが、現在のお屋形さまは濡れ手に粟じゃ」

「はあ、そういうものでございますか」

「女にはわかるまいが、それが武士の世界というものじゃ。それにしてもおぬし、若いのに、往古の出来事をよう知っておるな。何処で仕入れた? おお、そうか、客商売の耳学問というわけか。これでいて、按摩さんもなかなか隅に置けぬのう」


 ひとりで問うて、ひとりで首肯している。

 何とも楽な客である。(笑)


「でも、あれでございましょう、お武家さま。これからだって一朝事あるときは、昔取った杵柄、あ、いえ、腕に覚えの押っ取り刀で、即座に駆け付けられるご覚悟でいらっしゃいましょう?」お涼が探りを入れると、果たして客は、

「おうよ。そのためにこそ、いまもって剣術の稽古を欠かさずにおるのじゃわ」

 打った太鼓に素直に響いてくれた。

 うつぶせた鼻孔のうごめきが見えるようだ。


「ああ、それで、こんなにも隆々と……まことに惚れ惚れいたしまする~」

 昔日の面影もない貧相な上腕二頭筋を、お涼はことさらに摘んでみせる。


「自分で言うのも何じゃが、腐っても鯛というやつじゃわ。近頃は『示現流』なる剣術が、ずいぶんと幅を利かせているようじゃが、拙者の若いころは、薩摩古来の『野太刀術』が主流じゃった。いまでは知る者とて……。だが、流行りものは廃り易きもの。いまは隆盛の『示現流』も何処までの命運やら知れたものではないわ」


 ――あいたたたっ!💦


 お涼はそっと首を竦め、さりげなく話題を変える。


「ところで、お客さん。とっておきの面白話をご存知ありませぬか?」

 いきなり自慢話の腰を折られた客は、肩甲骨を揉まれながら、憮然と答える。


「ひところのように取った取られたの大立ち回りの時代と違い、微温湯ぬるまゆに浸かったような気怠い世ゆえ、とっておきどころか平凡な話も久しく聞いたことがないわ。毎日、飽きもせずに傘を張って、食って寝るだけでは、拙者など生きている実感がとんと湧かぬ。実際のところ、血沸き肉躍る時代が、懐かしゅうてならぬわい」


「まあ、そう、つれないことを仰せにならずに。そのむかし……、いえ、つい先頃まで八面六臂のご活躍をなさっていた、勇猛果敢なお武家さまならではのお話を、拙い施術のお供に、ぜひともお聞かせくださいませ」


 うつ伏せ男はにわかに相好を崩したらしい。

 筋張った肋骨まわりの筋肉が一気に弛んだ。

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