第15話 小西行長と島津家をめぐる因縁




 

 超美貌のお伊都姫を巡る鍵は、豊臣の側近・小西行長にあった。


 出自は堺の薬種商。

 卓抜な才覚を認められて武士に取り立てられ、太閤秀吉に可愛がられた。

 天正12年(1584)、敬虔なクリスチャン大名として知られていた高山右近の勧めで受洗(洗礼名:アウグスティヌス)し、以来、本拠地の肥後宇土や、安土城の建設に伴う国人一揆を制した天草で、キリスト教の手厚い保護に当たった。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍に就いた。

 石田三成らと共に六条河原で斬首された(享年43)。



 一方、島津家の動向を見ると――。


 島津宗家を取り仕切っていた義久の長女・お平(亀寿ノ方の長姉)が薩州島津・義虎と結婚したのは天文21年(1552)のこと。やがて時が過ぎ、義虎が他界したので、薩州島津の当主は長男・忠辰ただとき(生母は義虎の側室)に移される。


 由緒ある一族にありがちな、複雑に絡まり合った経緯いきさつから、かねてより島津宗家に反感を抱いていた忠辰は、文禄元年(1592)の朝鮮出兵のとき、義久の弟である義弘・久保父子とは別陣を頑固に主張して太閤秀吉の怒りを買った。薩州家は改易となり、忠辰は釜山で病死。残されたお平と4人の子どもたちは、肥後宇土の小西行長お預けとなった。


 抑留中、お平の3男・忠清は、小西行長の家臣・皆吉続能の娘・伊都(洗礼名:カタリナ)と結婚して1女1男を得た。関ヶ原合戦のあと、お平一家は加藤清正の監視下に置かれたが、義久の奔走で薩摩への帰還が許された。しかし、加藤清正の密偵容疑をかけられた忠清一家は足止めとなり、忠清・伊都夫婦が2人の子どもと共に薩摩に帰還できたのは、母・お平たちに遅れること6年後の歳末だった……。


 すなわち。

 慶長16年6月5日の今宵。亀寿ノ方さまの密命を受けたお涼が訪問したのは、これよりちょうど1年半ほど前、抑留先の肥後宇土から帰還したばかりのカタリナことお伊都姫、ならびに、ジュアンナこと茅乃姫の母娘だったということになる。

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