第3話 島津宗家の系譜





 ところで。

 舞台設定上、この話には「島津」を名乗る人物がそれこそ星の数ほど登場する。

 よって、無為な混乱を招かぬよう、読み物としての興趣を少なからず削ぐであろう状況を重々承知のうえで、敢えて冒頭で「島津氏」の系譜を整理しておきたい。


      *


 薩摩を出自とする「島津氏」は源頼朝から薩摩・日向の初代守護職に任じられた忠久を祖とする。


 やがて時代の変転を重ね、守護大名から戦国大名に成長した。

 と言っても、当然ながら、平坦な道のりだったわけではない。

 比企能員ひきよしかずの変(1203年)、承久の乱(1221年)、多々良浜たたらはまの戦い(1336年)、南九州国人一揆(1377年)、伊集院頼久の乱(1413年)、応仁の乱(1467年)など事変のつど烈しい盛衰の波を潜り抜けて来た。


 いずれも優れた歴代当主のうちでも、とりわけ抜きん出た活躍ぶりを見せたのが13代忠良(日新斎じっしんさい 1492~1568 享年76)だった。

 隣接の琉球王国を通じた対明貿易、主力兵器としての鉄砲の大量購入、万之瀬川への架橋、「麓」と呼ぶ城下町の整備、養蚕をはじめとする殖産興業等々の仁政で盤石な領国経営の基盤を築き、「島津中興の祖」「薩摩の聖君」と謳われた。


 信奉する儒教の教えを駆使して、薩摩武士の心得と団結を説く『日新公じっしんこういろは歌』(「いにしへの道を聞きても唱へても わが行に せずばかひなし」に始まり「少しきを足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなく 十六夜の空」で完結)は、長らく薩摩藩士の郷中ごじゅう教育の規範となっている。


 ――先祖・忠久が源頼朝から拝領した薩摩・大隅・日向3国を奪還したい。


 忠良の宿願を引き継いだのが嫡男の14代貴久(伯囿はくゆう 1514~1571 享年57)。そして、結果的には一時的になったにせよ念願の「三州統一」を果たしたのが、嫡孫の15代義久(妙谷寺 1533~1611 享年79)だった。

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