第2話 島津家久(忠恒)の憂鬱




 とつぜん、からっと雨が上がった。

 朗らかな南国の空は、澄明な縹色はなだいろに塗り込められた。


 人間界の浅ましい騒擾そうじょうも知らぬげに、亡き義久さまご丹誠の庭園には、にわか雨に濡れていっそう瑞々しさを増した辛夷こぶし沈丁花じんちょうげ木蓮もくれん木瓜ぼけ躑躅つつじ牡丹ぼたん鈴蘭すずらんなどの花々が馥郁ふくいくと咲き誇っている。


 やわらかな木漏れ日を投げかける高い梢では、吊巣雀つりすがら椋鳥むくどり百舌鳥もず鶺鴒せきれいつぐみみさごかささぎなどの野鳥どちが、いまを盛りの春をのどかに謳歌し合っていた。

 

 

 お涼が偵察に赴いた本丸には、異様な気が漲っていた。

 行き交うだれも目を伏せ息をひそめ、白刃を踏むような緊張に立ち竦んでいる。

 人間ばかりか、平素はやんちゃな犬や猫どもまで、むぐっと口をすぼめていた。


 地獄に引き摺り込まれそうな陰鬱をよそに、独り意気軒昂なのは城主の家久で、手長猿のような矮脚わいきゃくを動かし、せかせか落ち着きなく城内を歩きまわっている。


      *


 わしの顔さえ見れば、ああだのこうだのと、説教を垂れずにはいられなかった。

 仕置きにおいても私生活においても、ことごとに兄者と比べて責め立てられた。


 そんなに亡き兄者が慕わしいなら、はやばやと未亡人になった娘を引き連れて、さっさと彼岸に渡っちまえばよかったのに、おめおめと生き延びやがって……。


 いったいぜんたい、おのれを何様だと思っていやがる! 

 尊大ぶった目の底に棲まわせていた大蛇おろちのごとき蔑みの冷酷ときたらどうだ。

 ああ、思い返すだに、このはらわたが沸々と煮えくり返りおるわ。


 しかし、もう二度と金輪際、醜い老残の辛辣を目の当たりにせずに済むのだ!

 わが耳朶の底の底までを汚辱する、あのおぞましい訛声だみごえを聞かずに済むのだ。


 ああ、あらゆる人間に等しく訪れる死とは、なんと荘厳なる事実であろうか。

 信心には疎遠なわしだが、ここはひとつ八百万の神に感謝せねばなるまい……。


      *


 おのれの瑕疵かしはそっくり棚に上げておいて、他者の非ばかりあげつら小者こものの胸中に吹き荒れる嵐を、お涼はいまいましくも代弁してやられずにいられなかった。


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