第32話 松之進と茅乃姫の逢瀬




 

 2か月後の8月15日(陽暦9月21日)酉の刻。

 鉛丹色の忍者装束のお涼は、阿久津のお伊都姫の館に潜んでいた。

 中秋の名月の今宵、丈高い屋敷林は、音もなく黒ずみ始めていた。

 初秋にしてはあたたかな微風が、覆面の上半分を吹き過ぎて行く。


 やがて、林の蔭からひとりの少年武者が現われた。

 長身痩躯にして眉目秀麗、遠目にも理知的な風貌が際立っている。

 十字轡じゅうじぐつわの家紋入りの羽織を纏い、袴から腰の物を突き出させている。


 ――松之進さま……。


 お涼の胸は、弟を、いや、正直に申せば、恋人を迎えたように高鳴った。

 ほどなく。

 松之進より首ひとつばかり小柄な少女が、別の樹陰からすがたを見せた。

 切り提髪の少女は、目立たぬ小紋の小袖、地味な浅黄の帯を締めている。


 夜目にも白く香り立つ、甘い肌。

 消し炭で暈したように優美な眉。

 掌ほどの顔に大きな目と花の唇。


 ――茅乃姫さま。何と可憐な……。


 お涼は思わずはっと息を呑んだ。

 こちらは歳の離れた妹のごとし。


 茅乃姫は松之進に駆け寄ったが、一歩手前で、ふと立ち止まる。

 松之進も共に、そこから先、どうしてよいか、わからない様子。

 心ノ臓を高鳴らせるふたりの鼓動がお涼にも聞こえて来そうだ。


 ――かようなときに失礼を仕ります。


 お涼は思いきって幼い恋人たちの前に躍り出た。

「あっ!」

 磁石のように惹かれ合おうとしていたふたりは、ぱっと散り3歩も遠ざかる。

「申し訳ござりませぬ。お伊都姫さまからの御下命にて、ご案内を仕りまする」


 伏し目がちに告げたお涼は、若いふたりを先導した。

 屋敷林を抜け出たところに、丸木作りの小屋がある。

 管理の老爺が起居していたが、いまは空き家である。


 ――ギーッ。


 古びた扉を開けると、若い恋人たちは揃って吃驚きっきょうの目を見張った。

 壁には可憐な花柄の幔幕が巡らされている。

 床には清潔な花茣蓙が一面に敷かれている。


 ままごと遊びのような座卓。

 水色と桃色の夫婦めおと座布団。


 1輪挿しに凛と咲いているあざみは、ついさっき、お涼が野辺で摘んで来たもので、前途多難なふたりの出立への、せめてものはなむけのつもりだった。

 妖しく揺らぐ蝋燭の灯が、蠱惑的かつ幻想的な一夜を約束している。

 

 お涼はふたりに目礼してから、重々しく念を押した。

「お伊都姫さまご公認でいらっしゃいます。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。それから、今後はおふたりでこの小屋をご自由にお使いくださいませ。ご承知のとおり期間限定の事情でございますゆえ、くれぐれも思い残しのなきよう……」


 若いふたりは明々と双眸を輝かせ合っている。

 

 ――ホー、ホー、ホーホホホー。


 杜のふくろうも夜の活動を始めたらしい。

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