第30話 無何有の郷の〇〇小路




 

 お涼は素早くあたりを見まわし、身体をはすにして中へ入る。

 生身の人間が発する匂いという匂いのエキスが、ぴしっと鼻を打つ。

 とはいえ、初回ほどではない。

 人間の五感のうちで、嗅覚ほど慣れやすいものはないのやも知れぬ。


「おお、国分の。やることが速えじゃねえか」

 すかさず女衒の揚羽の声が飛んで来た。

「だがな、こちとらだって、負けちゃあいねえぜ」

 お涼の返事も聞かず性急に畳み込んで来る。


 揚羽の案内で、いずれ劣らぬ美少女群団の無何有むかうの郷を掻き分けて奥の暗がりに進むと、分厚い板戸があった。頑丈そうなかんぬきを揚羽が渾身の力を込めて抜く。

 お涼は、あっと目を見張った。


 3間四方ほどの、いたってこぢんまりした部屋。

 四囲に唐風模様の煌びやかな幔幕が張り巡らされている。

 花茣蓙を敷き詰めた床には、真っ赤な大輪の牡丹模様の夜具が延べられている。

 白檀びゃくだんの香が動く……。

 と思ったら、唐人形のような幼女が大ぶりの団扇でゆっくりと風を送っていた。


 ふたつ並べられた箱枕は、真っ白なさらしで覆われている。

 そのかたわらに、これまた唐風に凝った細工の煙草盆が置かれている。

 絢爛豪華な絵付が施された「白もん」(白薩摩)の水差しと湯飲みも。


「な? いつお出でなさっても、でいじょぶでがんしょ?」

 揚羽がことさら蓮っ葉な口調で説明するのに、お涼はコクンと縦に首を動かし、ここに長居はできぬとばかりに急いで外へ出ると、あとから揚羽が従いて来た。


 遅ればせに気づいたが、左足を引き摺り気味にしている。

 明るい場所で見ると、あらためて凄味のある悪相だった。

 だが、金壺眼かなつぼまなこの奥で、意外に情愛のある光が揺れている。


 その繊細な眸に射貫かれたお涼は、にわかに不安になった。


 ――女衒と百姓女。妙な取り合わせを怪しまれでもしたら……。


 袖を引っ張って店の横の小路へ身を隠そうとすると、揚羽は何ともいやそうに、

「おい、よしなよ。ここは『しょんべん小路』といってな。雨も降らぬに、路地が濡れる、濡れるはずだよ、何々さま――ってぇ俗謡まであるところなんだぜ。な、やけに草履裏がベタベタしやがるだろ? おお、いやだいやだ。ぞくっとするぜ」


 意外に潔癖症らしい揚羽に、お涼は東郷重位から聞いた話を思い出していた。

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